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第1話 奈帆

今回のお話は、今まで『はるぶすと』シリーズに登場していただいた方が店を訪れます。

まずは鞍馬くんを慕うあの方から。どうぞお楽しみ下さい。




 本日も『はるぶすと』は通常通り営業しております。

 皆様のお越しをお待ちしております。



第1話 奈帆なほ



 その日は、まるで厄年と、天中殺と、大殺界が一度にやって来たような散々な1日だった。


 まず目覚まし時計が鳴らないのはお約束、と言うより、いつもより1時間も早く目覚めたので、アラームをキャンセルしたあと二度寝してしまったのだ。なんたる失態。

 着ていこうと昨日から決めてあったスカートを引っかけてかぎ裂きにし、そのあとはコーディネートが全然決まらず。

 慌てて駅まで走る途中で、パンプスのヒールが溝にはまってしまった。

 かかとが取れたり足をくじくのは免れたものの、息せき切って駅へ着いた途端、電車が遅れていることを知る。

 遅延証明のネットがつながらず、延々駅の窓口に並ぶ羽目になり、まあ、同じ人が何人もいたのでおとがめはなかったものの。

 パソコンの調子も何やらおかしく、休憩中に珈琲を引っかけられるわ、ランチに選んでいた店は臨時休業でお昼も食べ損なうし。ようやく定時になったので、絶対に帰ってやる! と、息巻いていると、涙目でやってきた後輩のお手伝いをさせられる羽目になるし。

 ああ、もう今日はあきらめよう、何より明日から楽しい3連休、そうなのだ、ディビーと2人、2泊3日の旅行に出かける事になっているのだから。


 ところが。

「ごめん、奈帆」

 ディビーからの緊急連絡が入る。

「じいさんが緊急入院したんだと。いつもなら放っておくんだけど、なんだかあたしに会いたいって、じいさんが駄々をこねてるらしい。あたしが行かないと死ぬかもしれないだって、まったく……」

 ディビーの言葉は悪いけど、実はその「じいさん」っていう人は、ディビーにとってとても大切な「じいさん」なのだ。奈帆は一も二もなくディビーに告げた。

「え!? 大変、どうか行ってあげて! 旅行なんてまたいつでも行けるじゃない」

「……、ああ、悪いな」

 ホッとしたようなディビーの声に、奈帆もほっと胸をなで下ろしたのだけど……。


 なんでえー! なんか呪われてるうー?!

 冷静になって考えてみると、今日は本当にすべてが上手く行ってない!

 本当に、厄年と天中殺と大殺界が1度に来たようなついてなさに、どこかへ厄払いにでも行こうかと、真剣に考える。

 まあそれはさておき、旅行がおじゃんになってしまったので、3日もどうやって過ごそうか。

 このさい、本当に厄払いにでも行くか。

 霊験あらたかな神社や、その行き先を探すべく旅行サイトを開く。

 今から空いてるホテルなんてあるかなあ。


 そうしているうちに、ネットの波乗りは、前にディビーと研修を受けた国際会議場へとたどり着いていた。

「懐かしい~」

 当時のあれこれを思い出して、つぶやきつつ会議場に隣接するホテルのサイトを何気なく覗いてみた。すると、なんと「レディースおひとりさまプラン」なるものにまだ空きがあったのだ。

 豪華なレディースルームに貸し切りのお風呂。ステキなアメニティに、エステも追加で受けられるようだ。

 これだ! と、考えもせずにネットで予約を入れる。

 無事に行き先が決まったところで、そう言えばここってあのお店に近いんだった、と気づいた途端、急に頭に浮かんだフレーズがあった。


 そうだ! 『はるぶすと』へ行こう!




 『はるぶすと』は、日曜日が定休日だ。

 以前に訪れたとき、鞍馬さんが「たとえどんなに世間で偉いと言われている方が来られても、うちでは休日に店を開けることはありません」と言っていたことを思い出す。

 ならばディナーを狙うなら明日の土曜日しかない。

 でも、今日の明日で、あの『はるぶすと』のディナーに空きがあるだろうか。

 とは言え、ここであきらめたら元も子もない、急いで連絡しなくちゃ! との一心で、厄年と天中殺と大殺界の思考回路をひきずったまま、奈帆はもう日付も変わったこの夜のしじまに、なぜか夏樹の携帯電話に連絡を入れてしまうのだった。


「……うう、……ふわあ~い……、もう、あさっすかあ……」

 コールすること30回、いや40回? ようやく電話に出た夏樹は、もうぐっすりと寝込んでいたようだ。

「え? あ、あの、朝倉さんです、よね? あれ?」

 ここでようやく奈帆は今の時間を把握した。

「え? あ! こんな時間だったんですね! あの、すみません!」

「ええ……、ええーと………、いいっすよお……どなたですかあ」

 寝込みを襲われても? 怒りもせずに、いつものようにヘラアと答える夏樹に、恐縮しつつ奈帆は名乗る。

「あの、奈帆です。以前にモーニングでお世話になった」

 すると、「ううーん、ムムム」とか言っていた夏樹が、ようやく覚醒し始めたようだ。

「モーニングう? ……あ、あのときのお~。奈帆さんというと、ああ~わかりました、シュウさんっすね、はーい、お待ちくださあーい」

 なんと夏樹はやはりまだ完全に覚醒していなかったようだ。ただ、奈帆がシュウを好いていることだけは覚えていて、なんとシュウを呼びに行くべく、起き上がったらしい。ゴソゴソ、ドタンバタンと何やら音が聞こえてきた。

「あの! 違うんです! こんなに遅い時間だと気づかずに、……あの! 朝倉さん!」

「はあ~い、大丈夫っすよお……、シュウさーん、奈帆さんですよお」

 奈帆は携帯を握りしめて、赤くなったり青くなったりしながら部屋を歩き回る。かと言ってここで切ってしまうのは、さすがにあまりにも失礼だし。

 そして、「シュウさーん」と言う言葉を最後に、いきなりプツン、と通話が切れてしまう。

「え? あ、切れちゃった」

 しばしぽかんとする奈帆だが、ほっと胸をなで下ろし……、たとたん。


PULLLL……

「キャッ」

 いきなり鳴りだした携帯を取り落としそうになって、慌てて画面を確認すると、「朝倉夏樹」と表示されていた。

「あの、朝倉さん! すみません!」

 説明しようと必死に呼びかけた奈帆の耳に聞こえてきたのは、だが夏樹の声ではなかった。

「どうかされましたか?」

 少し緊張したようなシュウの声。

「あ」

「奈帆さん、ですよね」

「はい、……鞍馬さん」

「はい」

「鞍馬さん、……鞍馬さん」

「はい、鞍馬ですよ」

 嬉しくて泣き出したい気持ちを何とか抑え、奈帆は状況を説明せねばと勢い込んで言う。

「すみません! 私、明日のディナーを予約したくて! 早くしなくちゃ、と、そればかりで頭がいっぱいで、時間も考えず、こんな時間に……、ごめんな……さい」

 とうとう涙声になって黙り込む奈帆の向こうで、シュウは急かすことなく待ってくれている。けれどなかなか次の言葉が続かない奈帆を落ち着かせるように、穏やかな声で話しかけた。

「そうでしたか。こんな時間でしたので、しかもかかってきたのが店ではなく、夏樹の携帯でしたので、不測の事態なのかと、すこし緊張してしまいました」

「あ……」

「何事もなくて良かったです」

 今度はホッとしたようなシュウの声に、奈帆は違う意味で黙り込んでしまう。


 ああ、やっぱり好きだなあ、鞍馬さん。


 それだけは、どうにか言葉にせずに飲み込む。

 そして口を開こうとしたとき、シュウの少し考えつつ話す声が聞こえてきた。

「明日のディナーですね。……そうですね、個室はもう埋まっているのですが、前にお出ししたように、カウンターで良ければ大丈夫かと……」

「え? 良いんですか? でも……」

「こんな夜中に、どうしても、うちのディナーが食べたくて予約してくださるお客様を、無碍にお断りする訳には、いきません」

 今度は、少し茶目っ気を含んだ声で言うシュウ。奈帆は自分を安心させようとしているシュウの気遣いに、また涙が出そうになる。

「ありがとうございます」

「それでは、明日、もう今日ですね。本日のディナー承りました。おふたりでよろしいですか?」

 シュウは、またディビーと2人だと思ったらしい。

「あ、いえ、今回は私1人なんです」

「……そうですか、かしこまりました。お時間は何時に致しましょう」

 少し驚いたような間があって、それでも次の瞬間にはいつもと変わりない落ち着いたシュウの声がした。

「えっと、無理を言うので、そちらの都合に合わせます」

「それでは、そうですね。8時頃なら1番都合が良いのですが……遅いですか?」

「いいえ、いいえ、大丈夫です」

 思わず手をぶんぶん振りながら答えてしまう。

 そのあと少し間が空いて、おもむろにシュウが聞いてきた。

「ホテルはどちらにされましたか? 失礼ですが、時間が遅いので確認を」

「ああ」

 納得した奈帆が例のホテル名を告げると、シュウが提案を持ちかけてきた。

「それでしたら、帰りはホテルまでお送りします。うちの都合で始まりが遅くなりますので」

「え? そんな、大丈夫ですよ」

「ホテルは駅からかなり離れていますし、それに」

「?」

「奈帆さんに何かありましたら、ディビーさんに叱られます」

「あ、……嫌だ鞍馬さんったら」

 思わず笑ってしまう奈帆に、電話の向こうでふっと微笑むような気配がした。





 ディビーとの旅行用に取ってあった予算は、国際会議場のホテルに2泊してもおつりが来るほどだ。なので、ええい! と、豪華に2泊3日の予約を入れてある。

 もちろん、本日の夕食はキャンセル済みだ。

 昨晩は電話を切ったあと、目が冴えてなかなか寝付けず、旅行鞄のパッキングを始めたのだが、ディナーに来ていく服がこれまたなかなか決まらず。

「ええっと、デイナーだし、それに……鞍馬さんに会うんだし!」

 どちらかというとそちらの方が本命だ。シュウに会うのにおかしな格好は出来ないし、かと言ってあまりにも力入ってるのもなんだし、センス悪いと思われたくないし。

「ああ、もう、どうすれば良いのよお」

 頭を抱えて悩む奈帆だが、シュウは服装で人を判断しないし、実はあまりご婦人の服装には、それほど興味がないのである、残念ながら。

 とは言え、そこは恋する乙女。

 衣替えをするのか? と言うほど引っ張り出した服から、ようやくコーディネートが決まったのは、もう空が白み始めた頃だった。


 そして翌日、いや、当日。

 レディースプランは早めのチェックインが可能だ。

 早めに行ってそのあと会議場の建物を見学しようと思っていたのだが、部屋に入って寝心地を確かめようとベッドに寝転んだのが運のつき、昨夜の寝不足がたたり、なんと彼女は夕方まで爆睡してしまっていた。

 あれ? 

 ここはどこ?

 はっと目覚めたあと状況を把握した奈帆が、3倍速でシャワーと着替えを済ませ、なんとか『はるぶすと』にたどり着いたのは、予約時間の8時ギリギリだった。




 いつもながら綺麗に整えられた庭の向こうに、暖かい窓の明かりと「OPEN」の札がかかる玄関が見える。

 奈帆は、時間ギリギリだというのも忘れて、うっとりしながら庭をゆっくりと歩いていく。

 すると。


カラン……

 心地よいドアベルが響いて、扉がゆっくりと開かれる。

「いらっしゃいませ。ようこそ『はるぶすと』へ」

 そこには、あたたかく微笑みながら立っているシュウがいた。



「いらっしゃいませ! うわあ、奈帆さん、お久しぶりです!」

 相変わらず元気な夏樹と。

「いらっしゃいませ。ディビーに会えないのは残念だなあ。ふふ、けど、また来てもらえばいいか」

 相変わらず捉えどころのない冬里とに出迎えられる。


「今日はお世話になります。あ、朝倉さん、昨日はごめんなさい、あんなに遅い時間に」

 そう言って頭を下げる奈帆に、夏樹ははじめきょとんとしていた。

「へ? ああ! そう言えば、あれって夢じゃなかったんすよね。俺、ずいぶんはっきりした夢見ましたよ~って今朝シュウさんに言ったら、シュウさん大笑いするんですもん」

 どうやら夏樹は、昨晩の出来事を夢だと思っていたようだ。ちょっとふくれっ面でシュウの方を見やる。

「まあまあ、夏樹がボケるのはいつもことだよ? それはさておき、奈帆様、お席へご案内します、どうぞこちらへ」

 冬里が案内してくれたのは、カウンターのど真ん中の席、ではなく、奈帆の性格を慮ってのことか、ふたつほど横にずれた席だった。

「ありがとうございます」

 そんなやり取りをしている間に厨房に入ったシュウは、忙しく立ち働きはじめている。どうやら個室の客のメイン料理に最終チェックを入れているようだ。

「ずいぶんお洒落に力が入ってますね? けど、シュウはトンチンカンだから、気づかなくても許してあげてね?」

 ぼんやりとシュウを見ていた奈帆の後ろから、冬里がこっそりと耳打ちをしてくる。

「え?」

 思わず振り向くと、綺麗な微笑みと見事なウィンクが目に入る。

「そんなに力んでたら、お料理の味もわからないよ? 今日は楽しんで」

 どうやら冬里なりの気遣いらしい。

 そんなに目に見えるほど、ガチガチに力入ってたのかしら。そう言えば息するのがちょっと苦しい、かな。

 けれど、今ので肩の力がほどよく抜けていた。

「ありがとう、楽しみます」

 自然に出て来た微笑みに、冬里は満足したように厨房へ入っていった。



 それからの時間は、もう夢のよう。


 モーニングも、ランチも、ディナーも、なんでこんなに美味しくてステキなの。

 特に今日は。

 冬里と夏樹の2人は個室と厨房を行ったり来たりしているが、シュウはほとんど厨房にいて、奈帆に何くれとなく気を配ってくれる。

 まるでシュウを独り占めしているかのよう。

 良いのかな、ちょっと心苦しい感じはするけれど、でも、素直に嬉しい。

 憧れの人を目にしながら、その憧れの人が作った美味しい料理を味わっているなんて、それだけで至福の時間だ。


 奈帆のコースがデザートに入るあたりで個室の客も帰途につき、ようやく一息ついたのだろう、夏樹が今日の一人旅について聞いてきた。

「でも、どうしたんすか、奈帆さん。今回はひとりなんすね」

「夏樹」

 シュウがたしなめようとしたが、奈帆は、昨日の出来事を誰にも話していなくて、心に澱のようなドロドロが溜まっていたのだ。

「いいんです、鞍馬さん。誰かに話さないと、こう、胸の中のブラックが消えない気がするんです。だからねえ、聞いて下さいよ~」

 そこから奈帆は、怒濤のように、厄年と天中殺と大殺界がいっぺんに来たような運のなさをまくし立てていく。

 夏樹は驚きながらも、ええっ? とか、うわあー、とか、合いの手を入れてくれるので、奈帆もつい調子に乗ってしゃべりまくる。

「でね、でね……、極めつけがディビーのドタキャン! それは仕方のないことだけど、ねえ、もうなんでこんなについてないのおって、思って……、ハア」

 最後にため息をついたところで、冬里がふうん、と言う顔で言う。

「でもさ、今の状況は?」

「ハア……、え? はい?」

「今は? ついてないのかな?」

 訳がわからずに聞き返すと、冬里が極めつけのようにニーッコリ笑ってそんなセリフを繰り出した。


「あ……」

 確かにディビーの所までは散々だった。

 けれどそのあとは。

 国際会議場のレディースプランが空いていて。『はるぶすと』のディナーが予約できて。今夜は、美味しい料理が食べられて、そのうえ鞍馬さんを独り占めして……。

「ふふ、これぞ、災い転じて福となす、だね」

 まるでひとの心を読んだように、冬里が言う。

「そう、ですね」

 思いの丈をぶちまけたからだろうか、いやそれとも『はるぶすと』の雰囲気がそうさせるのか、奈帆は、この上なく温かい気持ちに包まれていく自分を感じ取っていた。

「そうっすよ、悪いことの後には良いことがある、これは宇宙の常識です! あ、けど良いことの後には……」

 胸を張りつつ言っていた夏樹が、何かに気づいたように急に声を落とす。

「墓穴を掘ってどうするの」

「ひえっ、すんません! けど、これからはそんな、いっぺんに悪いことが押し寄せるなんて、ありませんって」

「凄い自信、それはどこから来るのかなあ?」

「だって、『はるぶすと』に来たじゃないっすか」

「前にも来たことあるよね」

「ううー、……でも! また何かあったら来てくれたら良いじゃないっすか! それでもって、美味しい料理を食べて、幸せになれば良いんです」

 夏樹の理論には多少無理があるが、奈帆は二人のやり取りに大いに癒やされていくのだった。



 今日も夏樹が送ってくれるのかと思っていたら、なんと、シュウがホテルまで送り届けてくれるという。

 短時間だけど、シュウとふたりきり。

 力の抜けていた肩がまたパンパンになりそうだ。

「今日はありがとうございました!」

「今度はディビーを連れてきてよね、首に縄つけてでも」

 二人に見送られて、シュウの運転する車はしずしずと『はるぶすと』を出発した。


 どうしよう。何かお話しなくては。けど、何を話して良いのやら。

 緊張と嬉しさとがごちゃ混ぜになって、奈帆はただ前の道路を見つめるだけしか出来ない。シュウも自分からそんなに話しかけるようなタイプではない。

「あの、今日はありがとうございました」

 たまらずに出て来たのがそれだけ。

「いいえ、ですが昨日は本当に大変でいらしたのですね」

「はい! もう! あ、また愚痴っちゃいそうなので、その話はやめときますね。けれど、昨日の夜から今までは、なんだか夢を見ているみたいで、本当に現実なのかなあって」

「頬をつねってみられますか? お手伝いしましょうか?」

「え? やだ、鞍馬さんったら」

 シュウは時折、こう言う冗談ともつかないような表現をする。けれどそれがきっかけで、奈帆の肩からまた力が抜けていった。

 それからは、仕事の〈楽しい方の〉話、ディビーの話、シュウからは当たり障りのない程度の楽しいお客様の話などで、あっという間に時が過ぎていった。


 ホテルのエントランスが見えてきた。

 車寄せに停車したところで、夢の時間はおしまい。シンデレラはシートベルトを名残惜しげに外す。

 すると、こちらを向いたシュウが、珍しく苦笑を含んだ微笑みを向ける。

「私はご婦人の服装にあまり詳しくなくて恐縮なのですが、そのドレス、奈帆さんにとても似合っていらっしゃいますね」

「え?」

 驚く奈帆の手を取って、その手の甲に唇を押し当てるシュウ。

 言葉も出ない奈帆に、シュウの顔が近づいてきた。

「!」

 思わず目を閉じた奈帆の、その頬に当てられたシュウの唇。

 それは、優しい優しい、おやすみのKISSだった。



「お帰りなさいませ」

 いきなり開いたドアに、奈帆は現実に引き戻される。そこには満面の笑みをたたえたドアマンの姿があった。

 シュウはドアマンにひとつ頷いて、「お願いします」と、奈帆が車を安全に降りられるように誘導してもらう。

「おやすみなさい、良い夢を」

 この上なく穏やかな微笑みとともにその言葉を残し、シュウの運転する車は走り出した。

 テールライトが見えなくなるまで、奈帆はそこを動けなかった。


「ステキな方ですね」

 奈帆に、ドアマンが営業用ではない口調で話しかけてくれる。

「はい……、永遠の片思いです」

 寂しそうに言う奈帆に、ドアマンは予想外の言葉を返してくれた。

「素晴らしいです。永遠に想える方がいらっしゃるなんて、なんて幸せなことなんでしょう」

 ひととき目を見開いていた奈帆は、うつむくとふっと笑顔になった。

「はい、永遠に思い続けます」



 明日はここの建築見学を、思い切り楽しめそうな気がする奈帆だった。





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