第5話
身体が揺れるような感覚がして征一郎の意識はゆっくりと浮上した。
けれどもまだ頭の中はひどくぼんやりとしている。
征一郎は「ああ、やっぱりちょっと呑みすぎた」と寝返りを打ちながら反省した。普段ワインなどそうそう何杯も飲まないので無理もない。
「……んん?」
寝返りを打とうとして違和感に気付く。身体の自由が利かない。
刹那、顔に強い風を感じて征一郎は瞼を持ち上げた。
視界に広がったのは闇である。
ああ、まだ夜なのだと思った。しかしいよいよ身体に違和感を強く覚えて身じろいだ。
「な、なんだなんだなんなんだ、こりゃあ一体……」
見知らぬベランダが見えた。手すり越しに広がるのは大都会の夜景。数秒考えて、ああ都心のいいホテルへ泊まったのだと思い出す。
そこまではまだよかった。
征一郎が寝ぼけた頭のままゆっくり顔を持ち上げると不思議な塊がこちらを向いた。
人の頭らしきそれに顔はない。代わりに何か模様が描かれた布切れのようなものが征一郎の眼前に現れた。顔をすっぽりと布切れで覆っている。
それは人間とは別物だった。
正体はわからなかったが、気配は色がほとんどなく、人のそれと比べてなんだかぬるりとしている。
それに人間にしては体躯が大きすぎた。ゆうに身の丈三メートル以上はあるだろう。それが自分を横抱きに担いでいた。まるで物語の大団円でお姫様がうやうやしく運ばれるかの如き格好で。
「な、なんなんだよおい! なんだこれ!!」
征一郎は自由になる左足の踵で思い切り目の前の塊の端を蹴り上げた。どうやら顎にヒットしたらしく、巨躯の何かが小さく呻く。この時とばかりに征一郎は思い切り手足を暴れさせ、彼の腕の中を出ようと試みた。
しかし――抵抗はそこまでだった。
目の前に広がる光景に身体が動かなくなる。
征一郎は夜空に浮いていた。
正確には征一郎を抱えている巨躯の何かが宙に浮いている。眼下にはホテルのベランダが見えるがさすがに人が躊躇なく飛び降りる事の出来る高さを超えていた。
するとくぐもった人の声が征一郎の耳に届いた。
「お静かに。危のうございます」
布をかぶった巨躯の男の声だとわかり、征一郎はありったけの声で叫んだ。
「だ、誰のせいだと思ってんだ! 何が起こってんだよ……わけがわからねえ!」
周囲を見渡すと他にも数名、巨躯の何かの同類らしき影がある。人の気配は感じるものの顔や姿形がよくわからない。征一郎はこれまでこんな気配は感じたことがなかった。
連中は闇夜に紛れるような長い黒服に不思議なまじないめいた模様の布を被っている。皆宙に浮いた飛び石のような場所にいた。征一郎が覗き込むように下を見ると、巨躯の何かの足元にもそれがある。
すると黒服を纏った小柄な人影が近付いてきた。隣に男を一人連れている。男は顔を覆っておらず、長い髪を一つに束ねて肩にだらりと垂らしていた。
ようやくこのわけのわからん悪夢にちゃんと人間らしい奴が現れた――征一郎は僅かにホッとした。男も飛び石の上を渡り、宙をすいすい歩いている。
「お休み中の所申し訳ありません。時間がないのでとりあえずご登城願いたくお迎えに上がりました」
「お迎えって……どう見たって犯罪者集団じゃねえか! 俺みたいな貧乏人捕まえて何しようってんだよ!?」
すると顔をすっぽり布で覆った人影が言った。
「黙れ下郎。貴様ら土民如きが口を出すことではないわ。おのれはただ黙ってついてくればよい」
「ど……なんだって!?」
意味はよくわからないまでも壮絶にディスられたことだけはなんとなく気配と空気感で読めて、征一郎は今度こそ自分を抱える巨躯のそれの腕の中から飛び降りた。ひらりと宙に浮いた飛び石の上に着地する。そうしてそれを二つ三つ強い足取りで跳ねるように渡って小柄な男に詰め寄った。
「言っとくけどなあ! 俺は金なんざ吹けば飛ぶくれえのはした金しか持ってねえんだよ! 何をする気か知らねえが、どうせ狙うなら隣の部屋の奴にしろ! 俺みたいな家もない貧乏人をいじめて楽しいか!」
すると唯一顔を覆っていない男がじっと征一郎の顔を見つめてきた。
一瞬眉間にシワが寄ったその形相はまだそう歳は取ってないだろうに眼光鋭く、容易にはこの場から逃れられないだろうことを予感させる。
「いや、我らは貴様に用があるのだ王道征一郎殿」
「は??? 俺??」
「そうだ。お連れするようにと言われている。我らも任務なのでそちらの都合というのは一切考慮出来ぬのだ。諦めて大人しくしてもらおう」
男がそう言うや否や、背後に強い気配を感じて征一郎は振り返った。
すると、先程自分を抱きかかえていた巨躯の人影が突進するようにこちらの飛び石へ移って来るのが見えた。逃げ場もなく征一郎は再び巨躯の人影に担ぎ上げられてしまう。
「っちょ……おい! 離せよ!! 一体何なんだ……わけがわからねえ!」
顔を隠した人影が数名、一輪車のような手押し車を押しながらこちらへ近付いてくるのが見えた。片方の手押し車には薄い石の板のようなものが山程積まれている。それを宙へ放って道を作り、彼らはその上を歩いているのだ。
「やい! 離せ!! この……!! 一体何なんなんだ!」
暴れる征一郎の拳を受け止めて男は言った。
「私はただの傅役です貴方の若様の」
冷静な声である。気配にもブレがない。彼は顔が隠れていないので唯一人間らしい表情がわかる。
外面のいい人間であれば表情など幾らでも嘘はつけるが、征一郎の場合、気配とそれがどれくらい連動しているかという点は相手を知る上で重要な手がかりになる。
彼の表情は終始不機嫌そうで、怒りたいのはこちらだと征一郎は彼を睨み付けた。
男は征一郎の手を取ると手首を指先で何度もなぞった。そうして、
「お連れしろ。急ぎ出立だ」
とだけ声を掛けた。
巨躯の人影は言葉に大きく頷くと征一郎を空の手押し車へ乱暴に乗せた。手押し車の担ぎ手がUターンし、来た道をあっという間に戻って行く。
「ちょっ……こらああああ!!! 待てやこの!! 離せ! これっ……縄を解けーーー!!!」
手首に縄など無い。だからこそ征一郎はパニックだった。
これは――あれだ。一種の催眠術のようなものではないだろうか。
催眠術師が「貴方はだんだん肩が重くなる」とか「足が動かなくなる」などと言うとその通りになってしまうとかそういう類の心理効果。
しかし、よく見ると手首には黒い入れ墨のようなものが浮かび上がり、いよいよ征一郎の恐怖を駆り立てる。
これは悪夢だ――そうに違いない。
「ちっきしょう……俺みたいな貧乏人が調子にのって高えワインなんかガバガバ呑むから悪酔いしてこんな夢を……」
膝を抱えた格好で手押し車に乗せられた我が身のなんと惨めなこと。
バスローブが半分はだけたままなんとか手首の自由を取り戻そうと奮闘していると、車が急に止まり征一郎は前へ大きく投げ出された。
一瞬、目の前にまだネオンを灯す都会の夜景が広がって、征一郎は悲鳴を上げる。 もっとも、落下地点にも宙に浮く飛び石が敷き詰められていたのでそこへ転がっただけで済んだけれども。
征一郎が顔を起こすと目の前に大きな車輪が見えた。慌てて飛び起きてそれを見上げる。
「なんだこれ……なんなんだよ、本当に……」
それは大きな馬車だった。映画やおとぎ話でしか見たことがない、本物。一台は四輪で、後方にやや小さめの二輪の馬車がもう一台。どちらも夜の漆黒を閉じ込めたかのようなボディに金色の飾り模様が付いている。
もっとも、それを引く役目を担わされていたのは征一郎が見たこともない生き物だったけれども。
「ひ、ひえええ……なんだよこれ」
動植物からも多少の気配は感じられる。犬猫に始まり、命が小さなもの――例えば虫やネズミのような小動物からはほんの僅かにしか感じないが、目の前のそれは征一郎がこれまでに見たどんな生き物の気配よりも大きく強かった。見た目には完全に恐竜の親戚筋である。
「さ、お早く。時間がありません」
男に腕を引かれて征一郎は無理やり立ち上がった。御者役らしき人影が扉を開けて自分たちに頭を下げる。もはや、何がなにやらわけがわからない。
ああ、これは悪い夢だ――征一郎はそう思った。
でなきゃこんな、わけのわからない連中にホテルのバスローブ姿のまま宙へ浮いた馬車に乗せられてどこぞへ攫われるなんてわけがない。
手首の自由を奪われ、男に押し込められるようにして馬車に乗せられる己の姿はさながら現行犯逮捕された犯人である。
馬車の窓越しに再び夜景が見えた。
もしも眼下にいる人間達がこれを見上げたなら、自分たちは夜空に浮いているように見えるに違いない。
(ほんとに宙に浮いてんだ、この馬車は)
身体が僅かに傾いて馬車が走り出したことを知る。
車内は揺れることもなく驚くほどに静かだった。先程一瞬だけ視界に入った馬のようなトカゲが宙を蹴ってこの馬車を引いているのかと思うと、征一郎はなんだか気持ちが悪くなってきた。
ぼんやりとした頭で再び眼下の夜景を見る。
(ああ、この景色も見納めだ)
征一郎はふとそんなことを思いながら瞼を閉じた。
悪い夢から覚めるには寝るしか無い。