水の端がこぼれたら
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
こーちゃんの家ってさ、家電とかどれくらいのペースで買い替えてる?
僕はいまのところに住んで、かれこれ5年くらいになるけど、どうにかもってるってとこ。いや、実際には取り替えるのが面倒っていうのが大きいかな。
洗濯機とか冷蔵庫とかさ、よーく見るとガタがきているところがあるけど、全体で見ればほんの一部。「まだいける、まだいける」って交換を先延ばしにし、それでいて何とかなってしまうことがほとんどだから、交換する意欲ってあんま出てこないよね。
でもさ、それってとどのつまり、自分が困っていないからに過ぎないじゃん? 故障、損壊は、本当はただ存在しているだけで、気づかない誰かに迷惑をかけているかもしれない。
そんなことを思うようになった昔話を最近仕入れてさ。興味あったら、こーちゃんも聞いてみないかい?
むかしむかし。とあるところに入浴を趣味とする男がいた。
彼は眠りへ誘うようなお湯、肌と胸が痛むほどの冷水の、両方を隔てなく好んでいたらしい。特に家の裏手に位置する小山、その中腹にある泉へと、時間があれば足を向けていたらしい。
泉はそのふちをぐるりと囲むように、形、大きさの異なる石が埋められている。明らかに人為的なもので、過去にも誰かが、この泉に目をつけたことがあるのを物語っていた。
くわえて、泉の一方は岩壁になっている。その壁の上から、絶えずひと筋の水が泉に向かって注がれていた。
滝よりも、小便と呼んだ方が近い、か細い落水。それをきれいにつむじで受けると、そこからじんわり陶酔が広がっていくんだ。手足も身体も、その心地よさにおのずと震える。たとえ直前まで、穏やかでない心中を抱いていたとしても、水が当たった端からにじんで、どんどん憎悪が薄らいでいくのを覚えるらしいんだ。
彼以外にここを利用する人はおらず、また男も楽しみを邪魔されるのを嫌って、誰にもこのことを教えなかった。冬が近づき、水もまた凍えるほどの冷たさを帯びる時期になっても、着の身着のままの沐浴の習慣は続いたらしい。
そしていよいよ霜が降り始めた、ある晩のこと。
家で眠る彼の頬の上で、ぴちょんと跳ねるものがあった。「なんだ?」と起きて、ぬぐってみると、指には透き通った水滴がくっついた。色も匂いもなく、なめてみても味がしない。ただの水のように思えた。
それが彼の寝る真上、夜闇に隠れて見通せない屋根の奥深くから、ぽたり、ぽたりと、こちらへ目掛けてしずくが垂れてくる。
雨もりでもしているのかと、外へ出てみたけど雨の気配はない。まだ空は暗く、屋根へ登るのは少し危ない。男はやむなく、しずくが落ちるところに空いた瓶を置くことにしたけど、朝を迎えたときにはもう、瓶の中に湿り気を残すほどしか、水気は残っていなかったとか。
それから数日間、同じことが続いた。しずくの垂れる位置も動かず、瓶も同じ場所に固定される。彼自身も朝に、晩にと瓶をのぞいてみると、「かさ」がはかれるほどしずくが貯まることはとうとうなかった。
彼自身もまた、自分の習慣を変えることなく、その日も自分の仕事が終わると、例の泉へと向かったんだ。多少、落ち葉が浮かんでいることと、これまでより若干、「滝」の水量が増えている気がしたものの、異状とはいえないささいな程度。
彼は草履を脱ぐと、いつものように服を着たまま、じゃぶじゃぶと泉の水を分けながら、滝の下へと潜り込んだ。かすかに滝が幅を増したためか、つむじに直撃する感が薄まっている。頭部全体へまんべんなく広がる様は、それはそれで頭皮を指圧される心地よさもあったが、彼の求めるものからは外れていた。
それがどうにもむずがゆく、さっと彼が滝の下から外れた時だ。
ざぶんと彼が立てた小さな波が、ゆったり水面を走って、池を囲う石の一角にぶつかった。それだけなら、これまでも何度かあったこと。
ただ今回は違った。波の当たった石のひとつが、軽く浮き上がったかと思うと、ころりと仰向くように倒れてしまったんだ。まるで抜けかけの乳歯が、押し倒されたかのように見えたみたい。
思いがけず逃げ場を手に入れた水は、その穴へ殺到する。石の脇へそれて地面を伝う水は、たまたまその地表へ出ていたアリ、ミミズ、バッタなどへ、差別なくその身をぶつけ、かぶさっていったんだ。
その彼らは水を浴びるや、たちまちその場でひっくり返り、足をばたつかせてもがき始めてしまう。こぼれた水はなおも手を伸ばし、周囲の木々の根っこあたりまでをすっかり湿らせた。
その途中にいた何匹もの大小を問わない虫たちも、次々に水の中へ溺れていく姿を見せる。水がすっかり地面にしみ込んでしまってからも、一度濡れてしまった彼らは、再び立ち直りはしなかった。その場でもがいてもがいて、やがてすっかり動かなくなってしまうんだ。
男はもう水からあがっていた。これ以上とどまっていたら、自分にも害が出るかもしれないと思ったからだ。
被害に遭った虫たちは、自分のような人間に比べれば、ずっと小さいものばかり。もし量を重ねたならば、自分にも同じ影響が出るかもしれない……。
もうここの泉は利用すまいと、手拭いで身体を拭きつつ、彼は足早に自宅へ戻る。
家に帰り着いた際には、もうじき陽が暮れようという時間になっていた。
先祖代々伝わるかやぶきの屋根を持つ家は、彼のよく見知ったもの。その屋根に、いまは星々を思わせる微細なきらめきが張りついているんだ。昨日までは、あのようなものはなかったはずなのに。
まだ残っている明かりを頼りに、屋根へあがった彼は、そっときらめきに手を触れて、その違和感に眉をしかめる。
きらめきは、じかにかやぶきに張りついているわけじゃなかった。極薄の幕らしきものが屋根にへばりついていて、きらめきはその表面に浮かぶ柄や模様の類に過ぎなかったんだ。屋根を完全に覆うほどの大きさの幕を、彼は何度も折りたたみ、ようやく脇に抱えられるほどにして屋内へ引き上げる。
戻った室内には、今朝からずっと変わらずに瓶が置いてあったけど、今回に関してはわずかばかり水の量が多く、今も溜まった水面の中へ「ぽつん、ぽつん」としずくが波紋を呼び込んでいるところだった。
その晩。彼の家の戸を軽く、とんとんと叩くものがあったらしい。
この数年、めったになかった夜中の来訪に、彼は少し及び腰になる。手探りで握った短刀を懐に忍ばせながら、つつと玄関まで近寄って、雨戸越しに応答した。
「昼間に落とし物をいたしまして、ここになかったかどうか、伺いに参ったのです」
妙なことに、息遣いから声をひそめているのは分かったが、音そのものがなかなか大きい。聞いている最中も、戸がガタガタと震えた。
どのようなものかと尋ねたところ、表に星々の光を模した、手拭いなのだという。
柄については、すぐに察しがついた。けれども「手拭い」とは何ごとだ。手どころか、大人が何人も寝転べそうな、広大な幕しか自分は回収していない。
――いや。むしろこの手合いは、あれを「手拭い」扱いできる何か……。
彼の想像を裏打ちするかのように、続いてがらりと開かれた雨戸の先には、薄だいだい色の壁が詰まっていたんだ。
ちょうど彼の肌と同じ色をしたそれが、ぶるりと震えたかと思うと、上方がお辞儀をするような形で室内へ入ってきた。
雨戸の前にあったのは壁じゃない。指だ。今も室内に七尺(約2メートル)ほど入り込んできたその先端には、桃色に染まった大きな爪がくっついている。
「もし、心当たりあるならば、この指の先に引っ掛けてくだされ」
ひそめている気で、声が大きく感じるのも道理だ。
おそらくこれの主は、足だけで家を優に潰せるほどの巨体を持っている。それが全力で声を出すような事態になれば……。
機嫌を損ねないうちにと、彼は折りたたんだ幕を適度な大きさに広げ、指の先へ引っ掛けてやる。
指はそれを確かめるかのように、かすかに上下へ振れたけど、それにつられて彼の家も上下にぐらつくほどだったとか。やがて「確かに」と添えて指は引っ込んだけど、声の主は続ける。
「ただ幕はなにぶん、洗い途中。ひょっとしたら『汚れ』が残っていたかもしれませぬ。何事もないことを祈りますぞ」
それきり声は聞こえなくなる。彼はそっと開いた雨戸から外をのぞいてみたが、そこにはもはや肉の壁はなく、いつもの村の景色が広がっているばかりだったとか。
その数日後より、村の中では病が流行った。
幕を回収した彼を皮切りに、そこに近く住む者たちへ感染していった病は、手足をばたつかせて暴れずにはいられないほどの、痛がゆさを伴うものだったとか。
若い者は、身体に多少のしびれを残しながらも持ち直す。けれど老人や病気だった者の中には命を落としてしまった者もいた。
自分たちが苦しんだように、あの泉の近くの虫たちも、自分の身や服から出る汚れに苦しめられたのだろうなと、彼は後に語ったのだとか。