2 トラウトさん
『ああ、すみません。自己紹介を忘れていました。僕はTTTという名で存在している者です。最後のTを取って、気軽にトラウトと呼んでください。僕もあなたのことを、気軽に"あなた"と呼びますので』
私が反応するより前に、トラウトと名乗る人物はそう続けた。
しかし正直、今は名前なんてどうでもよかった。今知りたいのは、さっきの内容の詳細。チーターを殺す手伝いについてだ。
『トラウトさん』
『はい、こちらトラウトです』
『いくつか質問をしてもいいですか?』
『はい、いいですとも! いくつかなどと遠慮せず、あなたの気持ちが満たされるまで言葉を交わし、理解と親交を深めていければと僕は思っていますよ!』
なんだか日本語が堪能な外国人みたいな、妙な喋り方をする人だった。けれど、言葉が丁寧だからか、不思議と不快感はなかった。
とは言え、ネットではいろんな思惑を抱えて接触してくる人がいるので、警戒は解かない。個人情報を聞き出すような素振りを少しでも見せたら、すぐにブロックしようと私は決めた。
もとより、彼の言ってることは怪しさ満載なのだから。
『では質問です。トラウトさんはチーターを殺すと言いましたが、それは具体的にはどういうことなのでしょうか?』
彼(?)の調子に合わせて、私もできるだけ丁寧な文章を心掛けた。
『申し訳ないです。少し訂正させていただきます』
しかし返ってきたのは答えではなく――私は首を傾げる。
『僕はチーターを"殺す"ではなく、"殺し尽くす"と言ったのです。細かくてごめんなさい』
ぬ。
そう言えば確かに、と私はログを見返した。
『そうでした。では、殺し尽くすというのは、つまり?』
『はい。チーターを殺すことそれ自体は現在のゲーム会社でも可能です。チートを使用しているアカウントをBANすることが、それに当たりますね。ただし、それだけではチーター問題の解決にはならないことを、あなたもよく理解していることと存じます』
モニターに向かって私は小さく頷く。
『で、ありますので、僕が掲げる目標であるところの「チーターを殺し尽くす」というのは、新しいチーターが二度と現れなくなるまで大規模かつ盛大に虐殺の限りを尽くす、ということです。似たような言葉で表現しますと、チーターをNEDAYASHIにする、ですね!』
メッセージに目を通し終えて、私は大きく息を吸った。
チーターを根絶やしにする――そう頭の中で唱えてみると、うっとりするような響きだった。
もしそれが実現されれば、世界平和に匹敵する価値があると私は思う。
『つまり――』
私がうっとりしているあいだに、次のメッセージが来た。
『僕は、チートを使用している全ての人間の生命活動を、この手でストップさせるつもりなのです!』
「えっ……」
思わず低い声が出た。
生命活動のストップ? チートを使っている全ての人間の……?
いやいや、そんなのがもし実現したら、世界中でいったい何人が死ぬことになるのか。チーターは根絶やしにされて欲しいけれど、それではあまりにも――
『なーんて、ウソです。今のはささやかなジョークでした(笑)』
「……は?」
またもや声が出て――しかし今度は指も動かした。
『は?』
呆れたことをしっかり示してやらねば。
特に最後の(笑)がムカついたし。
その効果あってか、これまで淀みなかったトラウトさんの返答が少し遅れた。
『ええと、もしかして怒らせてしまいましたか……?』
『怒ってませんよ? 怒ってはいませんが、実は私、結構疲れてるんです。なのでもう一度ジョークを言ったら、話の途中だろうと寝てしまうかもしれません』
私は脅すように言った。
実際、仕事から帰ってきて、それからずっと、チーターに粘着されるリキュさんを見守り続けての、深夜二時である。疲れてないと言ったらそれこそウソだった。
『ああ、そうですよね……。これは僕の配慮が不足していました……。どうすれば許してもらえますか? それとももう口をきいてもらえませんか? 僕はブロックされちゃう運命ですか;;』
冷たくされたのが余程ショックだったのか、トラウトさんは必死な捨て犬みたいになっていた。
笑えない冗談を言われるのもイヤだけど、これはこれで鬱陶しい……。
こいつ童貞か?
『あー、泣かないでください。最初の調子のまま、真面目に質問に答えてくれれば大丈夫です』
『最初の調子のまま――了解です。気軽にトラウトと呼んでください!』
『ハイハイ。ではトラウトさん。あなたの言うチーターを殺し尽くすというのは、具体的にどういうことでしょうか?』
『はい、お答えします。僕は近々、僕個人の力で全世界のチーターに対して電子的な措置を取り、ゲームをプレイする権限と機器と気力を奪う予定なのです。それを殺し尽くすと表現した次第です』
『……なるほど』
事務的で簡潔なやり取り。
しかし言っている意味はわかりやすくなったものの、いかんせん信じがたいことには違いなく。
『二つ、続けて質問します。一つ目、トラウトさんは本当に、チーターをバンするなんてことが可能なのですか?』
チーターを殺し尽くすと聞いて強く惹かれたし、うっとりもしたけれど、冷静になってみればこれが一番の疑問だった。
そもそもこれができなければ、殺し尽くすのなんてただの妄想に過ぎなくなる。けれど私には、何よりもこれが難しいように思う。
本日、リキュさんの前に現れたチーターだってそうだ。何度も通報したものの、結局、配信が終わるまでの間にバンされることはなかった。運営の人手不足なのかわからないが、通報したからといって即座に対応されることは少ない。
とあるゲームタイトルでは、アカウントではなくチートを使ったパソコンを識別し、同じパソコンからログインできなくするという、ハードウェアバンなるものを実装したと発表したけれど、しかしそれでもチーターは健在だった。
本家の運営がそんな状況なのに、オンラインゲーム界の全チーターを根絶やしにすると言うトラウトさんのこの自信は、どこから来るのだろうか?
『二つ目。もし私が手伝うと言った場合、私の役割はどんなものになりますか?』
これも大いに疑問だ。私のFPSの腕前は素人もいいところだから、ゲーム内ですらチーターを殺すのなんて無理だし、プログラムの知識だってない。
そんな私に何ができるのか、まったく予想がつかなかった。
果たして、トラウトさんからの返信は。
『はい、では一つ目からお答えしますよ。これは冗談でもなんでもないのですが、僕にはなんと、ネットに繋がっているものならなんでも好き勝手できるという、それこそチートみたいな能力があるのです! と言っても簡単には信じてもらえないと思いますので、たった今こちらをご用意しました』
という長文に続いて、同じくらい長い謎のURLが送られてきた。
いやいや……。
『これ、明らかに怪しいんですが。クリックしても大丈夫なんですか?』
『100%大丈夫! 十年保証付きの安心安全です! ただし、あなたを驚かせてしまう可能性も十分に高いので、覚悟の準備をしておいて下さい』
そんな覚悟だなんだと言われて、さらにクリックする気が失せたのだけど……。
でも、これをクリックしなければ話が進まなそうなので(話を進める必要があるのかも疑問だけれど)、私は半ば投げやりな気持ちで人差し指を動かした。
カチっと小気味いい音が鳴って、新しいタブがいきなり開いて――
そしてそこに映ったものを見て、私は鳥肌が立つのを感じた。
飾り気のない、それどころか文字の一つすらない、真っ白なページ。その中央でぽつんと、音のない映像が流れていた。
高解像度で映された明るい部屋。肩から垂れるほど長い黒髪に、ワインレッドの縦ラインセーターを着た、胸の大きな人物。
私じゃん……これ。
『なんでうsかrこえ!』
ゲーム配信してみたいと思ってモニターに取り付けたものの、一度も使うことのなかったウェブカメラ――その映像が、しかも現在進行形で映し出されていた。
『今すぐ消してくsだ足!』
『おお、ごめんなさい! 僕の力を理解してもらうのには、多分これが一番早いと思いましてのことでしたが、やはり驚かせてしまいました。すぐに抹殺しますのでお待ちください』
トラウトさんから返信があって――それから一秒とかからず、私のプライバシーを著しく侵害していたページが勝手に閉じられた。
それはそれで、手元にあったはずのスマホをいきなり返されたみたいな、気持ちの悪い現象だった。
……とりあえず落ち着かねば。
私はぬるくなった炭酸水を手に取り、ゆっくり口に含んだ。ペットボトルを机に置いて、それから飲み込む。その時ふとウェブカメラと目が合い、慌ててモニターから引っぺがした。ついでに差しっぱなしだったUSBも引っこ抜いてやったけれど、それでもまだ心臓がバクバク言っていた。
目を閉じ、スー、ハー、と気の済むまで深呼吸をする。
脳裏にはトラウトさんの胡散臭い言葉が蘇っていた。
僕にはなんと、ネットに繋がっているものならなんでも好き勝手できるという、それこそチートみたいな能力があるのです――
……マジかもしれない。
さっきの出来事は、そう思わされるのに十分な衝撃があった。
『トラウトさん』
『はい、こちらトラウトです』
だいぶ時間が空いてからの呼び掛けだったけれど、彼の返答は早かった。
『ひとまず、あなたの力については信じようと思います。なので二つ目の質問の、私の役割についても教えてください』
一見すると積極的に見える文章ではあるものの、本当は億劫な気分だった。
変なことに巻き込まれてしまった感が半端じゃなく、さっさと話を聞き終えて、できるだけ穏便に事を済ませたかった。
『ありがとうございます。ひとまずでもふたまずでも信じてもらえて、僕はとても嬉しいですよ』
私の心情を知ってか知らずか、トラウトさんは飄々と感謝を述べた。
そしてまた長文が送られてくる。
『では質問の答えに移りたいのですが、その前に伝えておきたいことがあります。それは、僕がこうやって声をかけたのは、あなたが初めてということです。大勢の人の中からぜひあなたに手伝って欲しいと思い、選ばせていただきました。ですので、その理由を先にお伝えします』
『はい』
本音を言えば「はぁ」といったニュアンスだったけれど、気になると言えば気になることだった。
ピンポイントで私が選ばれた理由。
この人が本当に絶大な力を持っているのなら、私にできる手伝いなんてせいぜい事務仕事くらいだろうし、それだって私以上の適任はいくらでもいるだろうから。
『一つは、あなたが心の底からチーターを憎んでいるということ』
これはわかる。だけど今日のリキュさんの配信を見れば一目瞭然なように、この条件に当てはまる人だってかなり多いはず。だから決定的な理由にはなり得ない。
『もう一つ、これが一番重要なのですが』
そんな書き出しに興味を惹かれた私は、続いた文章を読んで、正直引いた。
『それは僕が、あなたの容姿を大変気に入ったからなのですよ!』
……それは、なんだろう。前置きを入れてまで伝えなければならないことだったのだろうか? というかそれって、コンタクトを取る以前からウェブカメラを覗き見してたとバラしてるようなものだし、その謝罪も含まれているのか……?
というか本当にそれが、私を選んだ一番の理由なのか……?
『……えーと、容姿というのは、見た目ということで間違いありませんか?』
『間違いありません! そうです見た目です! "あなた"という尊い存在がそんなにもセクシーな格好をしている! これほど素晴らしいことがほかにあるでしょうか! いいえありません! イエスセーター! ノーチーター!!』
うわめっちゃ力説してきた。
いやいや、確かに私は肩出しのセクシーなセーターを着てはいるけれど……。
『つまりトラウトさんは、セーターフェチなのですか?』
『はい!』
半ば冗談の質問だったのだけど、いい返事をされた。
いや、こうなるとマジで何の手伝いをさせられるのか……。
もしかしたら私は、ヤバいストーカーに目をつけられたのかもしれないぞ?
『それで結局のところ、私に頼みたいこととは……?』
警察に通報することも考慮しつつ、私は訊ねた。
『はい。僕がお願いしたいこととは、あなたのそのセクシーな姿を全世界に向けて晒して欲しいということなのです』
もう通報してもいい気がしたけれど、こらえて会話を続ける。
『……それもジョークですか?』
『断じてジョークではありません。僕の趣味と嗜好が前面に出てしまい、言い方が悪くなってしまったことは認めますが』
『はあ……。ではちゃんとした説明をお願いします』
『はい、説明します。
『チーターを殺し尽くす実務のほうは、僕が全部やります。これに関してあなたの手を煩わせることはありません。
『ただ、僕はいわゆる陰キャなので、そのことを世界にアピールすることができません。知っての通り、陰キャはカメラの前に立てない種族なので。
『そこで、情けない僕に代わって、あなたにはチーターを殺し尽くす存在としての象徴になって欲しいのです。
『全世界のチート業者とチーターを恐怖のどん底に陥れ、オンラインゲーム業界を清浄化させる、そんな救いの象徴――』
象徴――とか言われても、事が大きすぎて私の理解は追いついていなかった。
けれど、シメに放たれたこの言葉には、ツッコまずにはいられなかった。
『そう、チーターを殺すセーターに!』
『やっぱりジョークじゃん!』
* * *
と。そんな経緯があったのち、私はトラウトさんから改めて詳しい話を聞いた。
その内容と計画は、本当に可能なのかと疑わずにはいられないほど非現実的で、夢物語としか思えないものだった。
けれどもし、それが可能なら――なんて凄いことだろうと心の底から興奮した。
だから、私は決めた。これがどんな結果に転ぶことになろうと、この素晴らしいきっかけを逃す手はなかった。
『やります、トラウトさん。チーター撲滅の象徴に私を仕立て上げてください』
* * *
チーターは全員、右下の奥歯から順に虫歯になってしまえ!