エピローグ〜巡り合い
本日分で完結となります。
3ヶ月間、ありがとうございました!
カイレンはアリアを探していた。アリアはカイレンがずっと傍で守っている大切なお嬢様だ。
カイレンの濃い茶色をした柔らかい髪が風に揺れる。生真面目そうな、だが整った顔立ち。それが今は不機嫌な色に染まっていた。
森の中をどんどん進む。カイレンは心底苛ついていた。
アリアが何も言わずいなくなる時は、大抵ここだ。しばらく進むと、アリアの愛馬が手綱を木に括り付けられているのが見えた。やはりここだった。
川の前には、見覚えのあるアリアの華奢な靴。
「アリア?」
声をかけるが、返事はない。恐らくまた川に入っているのだ。まだ水が冷たい時期なのに。
ひとつ溜息をついて、カイレンも靴を脱いだ。ズボンの裾をたくし上げて水に足を入れる。痛い位冷たかった。こんなのにずっと足を浸していたら、風邪を引いてしまう。
空を見上げる。大分暗くなってきており、赤と濃紺の混じった色だった。早く連れ帰らねば、また領主様に叱られる。
「アリア? いますか?」
浅い川を上流に向かうと、彼の婚約者でもある領主の娘、愛しい彼のアリアの姿があった。
見慣れた筈のその美しさに、カイレンはハッと息を呑む。何度見ても見飽きないその美しさに。
栗色の長い真っ直ぐな髪は夕陽を受けて輝いて見えた。愛らしい茶色い切長の大きな瞳に可愛らしいおでこ。首にはまたあの赤いリボンを付けている。
生まれたばかりのアリアが、いつの間にか握りしめていた赤いリボン。今ではアリアのお守りとなりいつも肌身離さず身につけている。
腰には貴族の令嬢には不釣り合いな細身の剣。変わり者と専らの評判のこの美しい令嬢はしかし、頑なに剣を振り続けた結果、変わり者だからこそ側でお目付役として仕えているカイレンのものとなる事になった。
こんなじゃじゃ馬恥ずかしくて他の奴にはやれん、と以前からアリアを慕っているのを知っていた領主がカイレンに婚約を勧めてくれたのだった。
アリアは川の中に立ち、じっと川底を見つめている。
「冷えますよ」
次のカコの春祭り。その日、アリアは16歳となり成人を迎える。春祭りが終わり次第、アリアはカイレンの妻になる事になっていた。カイレンはそれが待ち遠しくて仕方ない。やっと、やっとアリアが自分の物となるのだ。ずっとこの日を夢見てきたのだ。
「カイレン」
彼の4つ下のアリアがカイレンを見る。視線を川底に戻した。
「出かける時は仰ってくれないと」
「だって今日は新月じゃないの、今日なら綺麗に見えるかなって」
この川底は星になるんだ、そうカイレンに秘密を打ち明けるように教えてくれたのはいつの話だっただろうか。
何故訪れたこともないカコの森の川についてそんな事を言うのか分からなかったが、馬に乗せてほしい、とねだられたのが5年程前だった筈だ。
夜になってもぼんやりとしか光らない川底にアリアは納得出来ず、川から頑として出ようとせず、カイレンが引きずるようにして連れ帰った。
夜になっても戻らないふたりに領主は心配し、帰ってからこっ酷く叱られた。ふたり共しばらく外出禁止になってしまったのが懐かしい。
星の中心に赤い髪の人がいたの、とアリアはその時言っていた。綺麗なの、とまるで恋する乙女のように語るアリアを見て嫉妬を覚えたものだ。
アリアはよく夢を見る。決まってその赤い髪で緑の瞳をしている男の夢だった。
時折、雪と大きな山が見たいと言う時もあり、アリアの12歳の誕生日にラーマナ山脈の絵画を贈ったところ、それ以来ずっとアリアの部屋に大事に飾られている。アリアが心底気に入ってくれているのが分かってカイレンは誇らしかった。アリアの事を一番理解しているのは自分なのだと。
「もう少しだけ」
アリアはカイレンの事を一体どう思っているのか。いつもいつも、その会ったこともない夢の中の男の事ばかりだ。所詮夢の中だけの存在なのに。
アリアはこうなると頑固だ。仕方ないので一緒に待った。
辺りがどんどんと暗闇に変わる。すると、足元の発光石が徐々に光り出した。
アリアの周りが少し強く光る。アリアの魔力は普通の人より少し強い。淡い金色の周りに青いカラドのような光が覆っていて綺麗だが、それがまるで何かに守られているかのように見えてしまう。それすらにも嫉妬してしまうカイレンは心が狭いのだろうか。
アリアが嬉しそうな顔をした。次いで、愛おしそうに呟いた。
「……スラン」
アリアの父親が領主を務める領地は、カコの町からほど近い場所にある。大きな領地ではないが、平和な領地だ。
カイレンとアリアは、明日の婚礼に向けて準備を進めていた。といっても服装の最終確認位で、本人たちは他にあまりする事がない。
あのカコの森で星空のような川底を見た後、アリアは少し元気がなくなったように見えた。周りなどは、なに、結婚前に少し不安になっているだけだと笑っていたが、カイレンはまたアリアの頭の中にあの男がいるのではと疑わざるを得なかった。
だが、あの細い首も、華奢な手も、濡れたような瞳も、自分の名を呼ぶ声も、明日には全てカイレンのものとなる。
もう夢の男がふたりの間に割って入る隙間はないのだ。
朝から婚礼が始まる為、今日はそろそろ休ませてあげたかった。もう休んだだろうか? アリアの部屋の前に行き、ノックした。
「アリア? 起きてますか?」
返事がない。やはりもう寝てしまったのだろうか。
「アリア?」
ドアの隙間から、微かに風の流れを感じた。
まさか。
カイレンは焦り、アリアの自室の扉の鍵を開けて入った。お目付け役のカイレンは鍵も持っているのだ。
中は暗かった。広々とした部屋のベッドは空になっている。寝た形跡はなかった。
辺りを見回すと、ベランダへと続く硝子戸が少し開いていた。カイレンはあからさまにホッとした。夜風にでも当たっているのだろう。
「アリア? 入りますよ」
声をかけて進む。花嫁衣装がトルソーに着せてあった。明日はこれを着て、ようやくカイレンのものとなるのだ。恋焦がれ恋焦がれ、ようやく手に入れる事が出来た彼の可憐な花。
ベランダに出る。左右を見渡すが、いない。ここは2階だ。もしや落ちてしまったのか? 焦り手すりの下を覗き込む。
カイレンの目に、ところどころ片結びされたロープが風になびいているのが映った。目の前が一瞬真っ暗になる。下を見回す。いない。
部屋に戻り、いつも剣が立てかけられている棚を開いた。――ない!
「アリア!」
カイレンが叫ぶ。何事かと近くにいた者達が集まってきた。
「アリアがいなくなった! 馬は? 馬はあるか?」
カイレンは混乱する。ああ、なんで。自分との結婚がそんなに嫌だったのか?
ふと、テーブルに紙が置いてあるのに気付いた。
手に取る。暗いが、月明かりで辛うじて読める。
『カイレン、あなたの事は好きだけどごめんなさい アリア』
「あの男か……!」
置き手紙を持つカイレンの手が怒りで震えた。アリアの夢の中にだけ現れる、赤い髪の男。あいつの元に行ったのだ。だが、どこに? 居場所を知っていたのなら、アリアはとっくに会いに行っていたのではないだろうか?
ふと、カイレンは壁に飾られたラーマナ山脈の絵画を見た。シエラルドの王城も描かれている。
「……シエラルドか」
カイレンの目が嫉妬に染まった。絶対、取り戻す。
周りの者たちに伝えた。
「アリア様は少し血迷われたようだ。今からお迎えに行く。明日には間に合わないかもしれないので、その旨を領主様にお伝えしてくれ」
そう言うと、急いで自身も支度を始めた。
アリアは愛馬を飛ばす。
今宵のように、月が満月に近い時だけ遠くに青い光を感じた。自分とまるで繋がっているかの様に感じるあの光は、きっとアリアの夢にいつもいつも出てくる赤い髪のあの人の気配だ。
先日、唐突にあの人の名前を思い出した。自分の黒髪を綺麗だと言って、アリアのお守りの赤いリボンを結んでくれた。それを急に思い出した。
アリアは首のリボンに手を伸ばす。
子供の頃から、気がつけばいつもあの人が心の中にいた。時折夢に出る、薄い金色の髪をした男性や、可愛い女の子。背景はいつも雪と山だった。
どこかにそんな場所があるのだろうか、不思議に思いカイレンに聞いてみると、誕生日にラーマナ山脈の絵を贈ってくれた。それを見た時、ああ、あれはここなんだと気付いた。その夜は、懐かしくて懐かしくて涙が止まらず、翌朝目を腫らしたアリアにカイレンが冷たいタオルを当ててくれたのを覚えている。
カイレンが自分のことを好きでいてくれているのは知っていた。優しいアリアの騎士。周りの子女からも相当もてていたことは知っている。剣ばかり降ってる変人のアリアには勿体ない、と影で言われているのも知っていた。そんな変わり者のアリアをただひたすらに大事にしてくれていた。だが、大事にされればされる程、アリアを大事に想う人は別にいるのだという気がしてならなかったのだ。
急いで距離を稼がないとならない。追いつかれたら、もう二度とあの人に会いには行けまい。カイレンはきっともう離してくれない。それ程アリアに執着している事は理解していた。
だって、あの人はいるのだ。あのシエラルドに。
新月になる前に、気配が消える前に、急げ、急げ、急げ。
アスランは36歳になった。昔おっさんおっさんと呼んでいたシュウの当時の年齢をとうに越してしまった。もうれっきとしたおっさんである。
そのシュウは、シーラとの間に男子をふたりもうけた。時折シーラと激しい夫婦喧嘩をしては、アスランの家に家出してくる。それでも幸せそうだった。
ヤナは16歳になるとすぐにサルタスと結婚した。最後の攻防戦は見ものだった。策略を練りサルタスの逃げ場をなくしたヤナの手腕は見事のひと言で、この親にしてこの子ありだと思ったものだ。現在ヤナはふたり目を妊娠中で、以前より顔色の良くなったサルタスが「40過ぎて毎晩はきつくて正直助かりまし……あ」と思わず口を滑らしていたのを先日羨ましい思いで聞いたばかりだ。
ダルタニア国王セシルと王妃ラースの間には子供が4人生まれた。夫婦円満と聞くが、まあラースの尻に敷かれているのだろう。ダルタニアの再分配へ向けての政策は着々と進んでいるようで、シュウが時折ダルタニアを尋ねてはふたりの様子を教えてくれた。
イリヤとリーンの間には息子がひとり。研究し甲斐がある、とイリヤが子育てを買って出、今では小さいイリヤに大きいイリヤが夢中になっている。リーンは相変わらず好き勝手やっている。
春になると、アスランは大陸を一周する。冬が本格的に始まる前には戻ってきて、各地の様子を報告する。ここ数年は、そういった仕事をシュウが割り振ってくれた。花夏を探すために。
時期的にはそろそろラーマナであれば花夏も成人を迎える頃だ。だが花夏らしき人物がアスランを探しに来た事などない。これは恐らく記憶をなくしている。そう判断せざるを得なかった。その為、始めは大陸の西側のみを探していたが、捜索を大陸全土に広げた。だが、今のところ空振りだった。
時折、少し――普通の貴族ひとり分程度には残された自分の中のカラドの魔力と同じものを遠くに感じることがある。決まって満月に近くなる時だ。でも、微かすぎてすぐ分からなくなる。それが、ここのところ少し強く感じられるようになった。
いや、正確には近くか。
花夏に贈ったリボンにはカラドだった頃のアスランの魔力が染み付いているのではないか。それか、花夏の転生の際アレンが使用したカラドの魔力が転生先の花夏の身体に残っているのでは?
そう考えると、ここのところ気持ちが落ち着かない。
そろそろ旅に出る時期なのだが、心が行きたがらない。迷い迷って、まだシエラルドにいる。
だが、そろそろいい加減出発しないと、冬に戻れなくなる。それは避けたかった。
嫌がる心を押さえつけ、アスランは旅支度をするため街の市場に来た。人が多い。もう人混みは全く問題ないが、触れても何もならないが、触れたいと思わない。
花夏以外、触れたいと思わなかった。
「うわー! すごい人!」
街の入り方の厩戸に愛馬を預けたアリアは、ラーマナの王都シエラルドに到着し早速街を探索していた。
愛馬を酷使し過ぎた。当面は休ませてあげねばならないだろう。
カイレンに追いつかれるのではと不安であったが、とにかく前へ前へと進んだ。宿屋はなるべく使わず、なるべく民家に泊まらせてもらった。だからカイレンには足取りは掴まれていない筈だ。
遠くには、憧れて止まなかったラーマナ山脈が見える。雪が残る頂上。綺麗だった。
足が何となく城の方へと向かう。まるでこの先の道を知っているかのように。どんどん進む。
この辺りはなんとなく見覚えがある。嬉しくなって、知らず微笑んでいた。帰ってきた、そう思った。
更に奥にいくと、西市場に着く。何故、ここが西市場だと思ったのか、分からない。
ふと、背後に気配を感じた。
青い、青い気配。
ゆっくりと振り返る。
まるで時間がゆっくりと流れているようだった。白黒の世界の中心に、赤い色彩。大きな荷物を抱え、顔が見えない。こんな事、前にもあったような。いつの事だったろうか。
あれは。
アリアは、ただ見つめるだけしか出来なかった。
あれは。あの人は。
抱えていた袋が破け、男が中身を落としてしまった。不貞腐れたようなその顔は、アリアの夢の中に出てきたあの人よりも大分年上だ。
それでも、あの人だった。
アリアの足元に、塩の瓶が転がってきて、爪先にコン、と当たった。
アリアが教えたのだ、塩を使えと。料理が美味しくなるからと。こんなので美味くなるのか? といつもどうやっても不味い料理を作り上げてしまう人は笑っていた。
記憶が、濁流のように押し寄せてきた。
ああ、なんで忘れてたんだろう。あんなにも、この人の事を愛しているのに。
アリアの目から涙が溢れ出した。今まで栓をされていた感情と記憶が、溢れ出す。もう止まらなかった。
男がアリアの足元にある塩の瓶に気付いた。視線が上がっていく。アリアの首のリボンを見て目を見張る。目を細めてアリアを見る。アリアの魔力の色を見ているのか。
そして、アリアの涙を見た。
荷物を、全て落とした。手が震えている。形のいい薄い唇が、懐かしい言葉を紡ぐ。
「カナツ……?」
「アスラン……私今、アリアっていうんだよ」
アスランが一歩近づく。荷物を蹴飛ばしても足元を見もしない。アスランの輝くような緑の瞳から、涙が一筋零れ落ちた。
アスランが、アリアの顔を両手で挟み込む。
「遅いよ……もう、ずっと待ってたんだぞ。勝手に自分で決めるんだから、俺がどんなに……」
アリアが泣きながら笑う。
「大分待たせちゃったね。でも、ちゃんと会えた」
そっとアスランの手を上から押さえる。ああ、懐かしいこの優しい手。固くて細くて、自分だけの手。
「すっかりおっさんになったよ」
全然衰えない端正な顔に滴る涙は本当に美しいのに、そんな事を言うのだ。相変わらず自分の事は二の次なのかもしれない。自分を見つめるこの瞳。何度夢見た事だろう。心から喜びが溢れておかしくなりそうだった。
囁くように言う。
「私なんか別人になっちゃったよ」
アスランが首を横に振る。揺れる瞳にはアリアの何が映っているのだろうか。
「見た目なんて関係ない。だって、カナツの魂がそこにあるのに」
「へへ、一応頑張って磨いたんだよ」
アスランに、今の花夏も可愛いと言ってもらいたくて。姿が変わっても愛しいと言ってもらいたくて。
「ただいま、アスラン」
アリア、いや花夏が言った。ふたりともボロ泣きだ。荷物は辺りに散乱し、周りの人達はふたりを遠巻きに見ている。
「おかえり、カナツ。帰ってきてくれて、ありがと」
そっと口づけた。
「アスランのそのありがと、大好き。やっと聞けた。――ずっと聞きたかったの」
そう言うと、ふたりは人目があることなど忘れ、優しい深いキスを何度も何度も交わし始めたのだった。
カイレンがシエラルドの街に入ってしばらく行くと、人だかりが出来ていた。石畳の床には荷物が散乱している。何があったのか。
急いで人混みを掻き分けていくと、中心にはカイレンが探していた彼の愛しい人が、カイレンの花嫁が赤い髪の男と幾度も幾度も口づけを交わしていた。お互いの距離を埋めるように。時間を埋めるように。
それを見た瞬間。
カイレンの全身を絶望が襲い、カイレンは力なくその場に座り込んだ。
奪われてしまった。
夢の中の男に、とうとうカイレンの愛する人が奪われてしまったのだ。どうしたらいい? どうしたら取り戻せる?
分からなかった。無理だと思った。始めから無理だったのだ。
カイレンはその事実にようやく気付いた。絶望という名の涙が、目尻から溢れて流れ出ていった。
如何でしたでしょうか。
尚、挿絵は引き続き追加していきます。
次作「盗賊は宵闇に祈りを捧ぐ」掲載スタートしております。そちらも是非お楽しみいただければと思います。