逃走
結ばれた花夏とアスラン。その後に起こる事とは。
お楽しみくださいませ♪
アスランと過ごしたひと時は夢のようだった。
花夏の中にどんどんカラドの魔力が蓄えられていくのが手に取るように分かった。アスランに上から絡められた手に痛い程の力が込もった時、花夏はカラドがその役割を終えた事を実感を持って理解した。
本当に、夢だったのかもしれない。
花夏はアスランがずっと握りしめてきたというアスランからもらった赤いリボンを手のひらにそっと握り込んだ。どれだけ強く握り締めていたのか、折れてくしゃくしゃになって直らない。
ベッドに横たわり微睡んでいるアスランを見つめる。
連日の無理な移動に久々の食事、更には極めつけのこれだ。疲れるなという方が無理な話だろう。
花夏はそっとアスランの頬に手を触れた。アスランが目をゆっくり開ける。心から満ち足りた瞳をしていた。
花夏の心の奥がちくりと痛む。これを今から今度はこの手で壊すのだ。壊したくはなかった。本当はこれこそが守りたいものだった筈なのに。
でも、仕方ない。自分のした選択だ。もう、戻れない。
花夏は優しくアスランに話しかけた。
「アスラン、私の気配ってまだ分かるの?」
アスランが自分の頬に当てられた花夏の手を上からそっと押し当てた。花夏の心の奥が今度はジン、とする。細い硬いこの手も恋しかった。離したくなかった。
「全く分からない訳じゃないけど、前程は強くないかな……」
花夏の魔力を確かめてるのだろうか、目を細めて花夏を見ていた。この視線も独り占め。今だけは。
「ねえアスラン」
「ん?」
ずっと疑問に思っていた事を口にした。
「私の魂って誰の物なんだろう? 花夏である私? 前から続く誰か? それとも誰の物でもないのかな」
「魂? どうしたの急に」
アスランが眉を寄せた。囁くような声が切ない程愛おしくて、もっと聞きたくなった。でも無理。だからせめて記憶に刻もう。
「私の魂は次も貴方を求めるのかな。それともラースでいる間だけなのかなあ」
アスランには花夏の質問の意図はあまり分からなかったのかもしれない。でも、答えてくれた。
「カナツが俺の事を忘れても、俺は忘れない。何度でも必ず見つけ出すよ。ラースもカラドも関係なく、俺はカナツが欲しい」
「えへへ……嬉しいな」
花夏はアスランの口にそっとキスをした。これもしばらくはお預けだ。
まだ力が入らない様子のアスランに微笑みかける。
「アスラン、これからは同じ場所で過ごせるね」
「そうだな。どこに住もうかな。カナツはどこがいい?」
「ラーマナは寒いけどいいよ。ヤナもいるし」
「カナツはヤナが本当に好きだな」
アスランが笑う。笑うと途端に子供みたいになるこの笑顔も、見納めだった。
「アスランも会うといいよ。アスランなら気に入ってくれると思うなあ」
「ふーん? じゃあラーマナもいいのかな」
我慢出来なくて、またそっとキスをした。アスランは純粋に喜んでいるように見えた。もっといっぱいしてあげてたらよかった。後悔してももう遅い。
息を吐いた。
「アスラン」
「どうしたのさっきから」
花夏が先程から何か言おうとしているのが伝わっていたらしい。やはり花夏は隠し事は苦手なのかもしれない。皆行動に出てしまう。つい苦笑してしまった。
「誰も悪くないよ」
「え?」
「私はアスランとの未来を取ったの。アスランとずっと一緒にいたいから。だから誰のせいでもない。怒るなら私を怒って」
アスランが困っている。それはそうだ、なんの事か分かる筈もない。
でも言わなければ。
「私達は、今からかくれんぼをするの」
「かくれんぼ? なんの事、カナツ」
もう一度、もう一度だけ。そう思って、いつもアスランがしてくれていたようにカナツがアスランの下唇を食んだ。アスランの吐息がかかる。アスランの舌が求めてくるから、それに応えた。これも当分お預け。次は、本当に来るのだろうか。
顔を離す。アスランは眠さもあるのかトロンとした目をしていた。アスランの頬に当てていた手をそっと離し、立ち上がる。
花夏はセリーナの赤いワンピースを着ていた。アスランの髪の色に近いこの服を着て、せめて身近に感じたままでいたかった。
「カナツ?」
アスランの緑の瞳に急に不安が宿る。花夏は出来る限り明るい口調で言った。そうしないと、涙が溢れてきそうだった。
「アスラン、私を探して。私も貴方を一所懸命探すから。私の魂を探して」
「何、言ってるんだカナツ」
アスランが起き上がろうとするが、身体に力が入らないのか上手くいかない。魔力を全部花夏に持っていかれたからかもしれなかった。でもこの方が都合がよかった。追いかけられたらもう離れられないのが分かっていたから。
「もしアスランがもう待てなくて見つけるのをやめたとしても、私は怒らないよ」
本当は嫌だけど。縛り付けてしまうのはもっと嫌だから。
「カナツ、ちょっと待って、何を言ってんだ」
アスランから伝わる焦燥感。これを与えてしまったのが自分という事実と、自分だからこそ与える事が出来たという優越感。
アスランの中には花夏しかいないから。だからそれを信じるしかなかった。
「後で人が来るから、動けるようになったら服を着ておいた方がいいよ」
連絡事項を伝えるように言う。アスランの目が焦っている。花夏が何を言っているのか理解したくないけど分かってしまった、そういう顔だった。
別れだ。
いい加減行かねばならない。自分の目に涙が溜まっているのが分かった。ああ、零れないで欲しい。アスランには見せたくないから。
涙が零れぬよう瞬きをしないまま、花夏は笑った。この花夏を覚えていて欲しくて。
「アスラン、大好きだよ。次に会う時まで、大好きだから、それだけは忘れないで」
言うだけ言って、今度こそ背を向けた。瞬きと共に涙が落ちる。
背後でアスランが起き上がろうとして失敗した音が聞こえたが、もう振り返らない。
「カナツ……! 待って! 行くな! どこに行くんだ……!」
悲痛な叫び声が後ろ髪を引く。それを振り払う為、花夏は唇を噛みしめて急いで部屋の外に出た。アレンの寝室から出る扉の鍵を開け、花夏を呼ぶアスランの声を頭から振り払って通路に出、急いで後ろ手で扉を閉じた。扉に背中をもたれ掛からせる。
ふう、と息を吐く。後はアレン達の元に向かうだけだ。目の前の広い通路の先程ユエンと行った方向へと目をやる。道を覚えているか少し不安だったが、なんと少し離れた所の壁にユエンが腕を組んでもたれ掛かっていた。
花夏に気付くとニヤリと笑う。
「楽しめた?」
この男は。花夏は呆れて、つい先程までボロボロと止まらなかった涙が一瞬で引っ込んだのに気が付いた。成程、この男の発言にはこういう効果があるのか。
「お陰様で」
ツン、として返事をした。ユエンがまた笑う。
「そりゃよかった。確かに凄いね。遠目からでも見ようとしなくても分かる」
「何がよ」
ユエンの元に向かった。邪魔が入る前に急がねばならなかった。ユエンも歩き出す。
「魔力だよ。これがふたつの月の伝説の力なんだね。見事のひと言だ」
ただ、とユエンが続ける。
「急いでイリヤの所に行かないと、邪魔者が察して起きてきそうだ。こんな魔力、皆寝てられない」
そんなにか。やはり花夏にはそこまでは分からなかったが、自分の身体が何となく青い光に包まれているのは感じる事が出来た。アスランに宿っていた力だ。
「分かった。急ぎましょ」
「走れる? くたくた?」
「からかうのはやめて」
「はは、じゃあ案内するから手を貸して。走るよ」
「うん」
ユエンは敵でも味方でもない。ただの傍観者。本人がそうアスランに言っていた。ただ今は事を運ぶ為に花夏の味方をしているだけだ。本当に変人だった。
ユエンの差し出した手を取った。
「行くよ」
ユエンが小さく言うと走り出した。走るのは花夏も得意だ、問題はなかった。むしろ身体には力が満ち溢れている。今ならどこまでも走れそうだった。通路をふたり、駆けていく。
少し奥の部屋のドアが開いた。ユエンが、ち、と舌打ちをする。
「気付かれたか。カナツ、階段を行くよ」
ユエンが一旦後ろに引き返し、少し前に通り過ぎた階段へと花夏を引っ張った。一瞬、ドアの奥から通路を覗いたシュウが見えた。
「ユエン! どこへ連れて行く!」
怒声が響いた。ばれた、ばれてしまった。花夏の心に焦りが生まれる。階段を降りる足がもつれそうだった。
シュウが近くの部屋に用意されたセシルの部屋を叩く音が聞こえてきた。
ユエンが嫌そうに眉を顰めた。
「やだなあ、全員集合は俺もきついんだよな」
「ぶつくさ言ってないで、早く!」
「イリヤも部屋の前で待機してるから、何とかしてもらおうかな、はは」
「はは、じゃないってば!」
どこまでもマイペースなユエンに苛々を隠せなかった。何だってシュウはこんな変人に目をかけたのだろうか。シュウでさえも裏切るような男なのに。
その裏切りのお陰で今こうしていられるのだが、ついそう思ってしまった。
ふたりは全速力で走って行く。ユエンがちらっと花夏を見てまたにやりとした。
「カナツ足速いね」
「いいから前向く!」
「はいはい」
アレンとイリヤが待つ部屋がある通路まで来た。奥に小さくイリヤのふわふわ頭が確認出来た。呑気に手を振っている。
ユエンが声を張り上げた。
「イリヤ! ばれた! ふたりとも来るから何とかしてくれ!」
「だと思ったよ! そんなに魔力プンプンだったら王宮中の皆が反応するかも! ははは」
はははじゃない。どいつもこいつも頭は大丈夫だろうか。何故こんな状況で笑っていられるのか。
更に苛々しながらイリヤが開け放った扉の奥へと駆け込んだ。
ユエンが手を離した。
「行け」
「え?」
花夏がユエンを振り返った。先程はイリヤに任せると言っていなかっただろうか。
ユエンがにやりと笑った。
「どっちを見ても面白いと思うけど、こっちの方が楽しそうだからさ」
生意気そうな瞳の奥に挑むような色が見えたのは花夏の気のせいだろうか。ユエンが口の端を小さく上げた。
「今まで色んな人に散々振り回されたんだろ。最後くらい協力してやるよ。だからカナツはカナツの意思を貫けばいい」
「ユエン!」
「ほら、急げ。鍵しとけよ」
ユエンが花夏に背を向けると、パタリと扉を閉めた。花夏は言われた通り急いで鍵をかけた。
部屋の中心へ視線を移す。ラグの上には赤眼の王が静かに座って待っていた。
「何か言っておく事はあるか?」
静かな声だった。花夏の口が震えた。
「そうだな……アスランの隣に立つのに相応しい綺麗な女の人になりたいな」
アレンが笑う。楽しそうな笑い声だった。
「安心しろ。お前の魂は美しい。美しい魂が宿る器も自然と美しくなる」
「そっか、ならちょっと楽しみにしてよう。……貴方は? これから大変でしょ」
アレンが声を出して笑った。赤眼にはこれまでの冷たさは窺えなかった。
「お前には分からない。僕がどれ位長い間待ち焦がれたかを。それに比べれば問題ない」
アレンが手を伸ばした。
花夏が一歩アレンに近付く。
扉をドン! と叩く音がし、花夏がビクッと振り返る。複数の男の怒鳴り声が聞こえた。シュウとセシルが追い付いたのだ。
「急げ、カナツ」
「うん。――最後にアレン」
花夏がアレンの手を掴んで座った。
「何だ」
赤い目が花夏を見つめる。花夏は潤む目でアレンを見、手のひらの中にある赤いリボンを見せた。
「これも一緒に連れて行きたい。アスランが私にくれた、私の宝物なの」
アレンが無言で頷いた。花夏の目から涙がまた溢れ出した。もう止まらない。止まらなかった。
「アスランを守って。助けて。また会う為に」
アレンがはにかむ様に笑った。
「必ず。約束しよう」
「……ありがとう」
アレンがそっと目を閉じた。花夏も目を閉じた。
花夏の中にあるアスランのカラドの魔力がアレンの方に流れていく。どんどん流れていく。
そして。
花夏は意識を手放した。
次回は明日か明後日更新予定です!