大切な人 ☆
ヴァセル王国のランバールに向かう最中の事。
アスランは、乗合馬車の中でアスランにすっかり気を許し、ぽてんと寄りかかり気持ちよさそうに寝ている花夏の肩に手を回し、花夏の体温をこれでもかという位堪能していた。
花夏の頭の上に頬を軽く乗せる。ほんのり汗ばんでいてしっとりとしているのも堪らなかった。ここのところ野営続きで触れられるのを少し嫌がる素振りを見せていた花夏だったが、昨夜ようやく風呂付きの宿屋に泊まった後はすっかり抵抗感が薄れ、近付いても照れ笑いをする程度でもう嫌がりはしなかった。
綺麗好きな花夏の事だ。アスランにちょっとでも臭いと思われるのを気にしたのだろうが、アスランは花夏ならばどんなに臭かろうがきっと構わない。そう思える自信があった。
だが、花夏がアスランに臭いと思われる事を嫌がるという事は、アスランに嫌われたくない、そう思っているからだと思うとそれもまた堪らなくゾクゾクしてしまい、なかなか別に臭くてもいいよと言い出せない。
寝ている花夏の可愛いおでこに小さくキスをする。同じ乗合馬車に乗っている若い男性が視線を泳がせているが、アスランは気にしなかった。
本当は、今すぐにでも花夏の全てを自分の物にしてしまいたかった。だが、花夏はまだ心の準備が出来ていない。花夏の大事な物を無理やり奪って悲しませる事など、アスランには出来なかった。
であれば、花夏の心の準備が出来るまでアスランは待つしかない。
でも。
とりあえず、キスまでは許されている。
アスランは実に楽しそうに微笑むと、寝ている花夏の唇をついばんだ。花夏が小さく息を吐く。その息すら愛おしい。
薄ら口を開けて気持ちよさそうに寝ている花夏の口に優しく口づけ、下唇をそっと噛み、それでも起きないので遠慮なく中に舌を入れて花夏の口の中を堪能する事にした。引き締まった歯茎、ベルベットのような舌触り。
ごほん、とわざとらしく咳をする同乗者の男性を花夏に口づけしたままチラリと見ると、相手は慌てて顔を赤くしながらそっぽを向いた。
それでいい。
そう思いながら、アスランは少しずつ目が覚めてきて反応し始めている花夏の舌の動きを全身で感じる事に専念する事にした。
「アスラン……あのねえ!」
「いや悪かったよ。起こそうと思ったんだけど、あまりにもよく寝てるもんだから、つい」
花夏が真っ赤になって怒っている。少し目が潤んでいるのも堪らなく可愛くて腹の奥がキュッとする。
「兄ちゃん、寝てる相手にあんなのはやり過ぎだと思うぞ」
先程アスランの視線を逸らした同乗者のお兄さんが、まだ顔を赤くしたまま口を出してきた。
その言葉を聞いて、花夏がもう今にも泣きそうになっている。
「え? 何? 何したのアスラン?」
「いや、ちょっと軽くキスしただけだって」
そう言って花夏の顔を上から覗き込んだ。赤い髪を、色気を撒き散らしながら花夏に向けて遠慮なく垂らす。アスランの緑色の瞳を、花夏がよく見つめては逸らす事をアスランはよく知っていた。
「変な事してないって」
そう言って、今度は花夏の目に溜まった涙を口で拭う。しょっぱくて美味しい。花夏を見ると、茹で蛸のように真っ赤になっていた。これもまたいい。
同乗者のお兄さんが、頬を赤く染めて言う。
「お嬢さん、本当に愛されてるねえ」
「あああああ愛されてるってお兄さん、あの、あああアスラン、あのね、こういうのは人前ではね」
「人前じゃないともう止まらなくなるし」
動揺しまくっている花夏に、アスランは事実を淡々と述べた。アスランの中では、何かが早く早く、とアスランを急かしていた。それを無理矢理抑え込んでいる日々。流石に人前でそれ以上何を出来る訳もなく、理性がギリギリ働く範囲で止める事が出来ている。つまり。
「いいだろ、これくらい」
「これ……くらい……」
真っ赤になっている花夏が手で顔を覆ってしまった。それでは顔が見えない。
「カナツの顔、ちゃんと見せてよ」
アスランはそう言って、花夏の手をそっと握る。例のお兄さんが赤い頬を押さえて所在なさげに目を泳がせているが、構っている場合ではない。
大事なのは花夏。花夏のみだった。
花夏の目がアスランを見返す。花夏の目の奥には、いつも何かが見える。花夏そのもののような、小さな、でも凛とした、まるで花夏の魂そのもののような明るい物。
アスランはいつもこれが見たくて見たくて、花夏に自分だけ見て欲しくて、毎日花夏の目を覗き込む。周りなんてどうでもよかった。花夏だけを見ていたかった。だって、花夏は全てだ。
「カナツ、好きだよ」
もうこれ以上はなれないだろうという位赤くなった顔も、細い首も、可愛いおでこも、花夏の臭いだって体温だって、全て手に入れる。
花夏は真っ赤のまま固まっている。それを見てアスランはまた堪らなくなった。でも我慢だ。軽く鼻の頭にキスだけした。
横で、お兄さんが無言でジタバタしていた。
ランバールの町入り口に到着した。
乗合馬車で一緒になって顔を真っ赤にしていたお兄さんは、「俺こっちだから。おふたりさん、お幸せに!」と手でパタパタ顔に風を送りながら去っていった。
悪い事をしたな、と花夏は思った。まさか、人前でアスランがそんな濃厚なキスをするとは思っていなかった。横で涼しげな顔で男が去っていった方を眺めているアスランをちら、と見る。花夏の視線を感じたのだろう、幸せそうに微笑んできた。
こんな顔をされたら、怒るものも怒れない。
花夏が何とも言えない変な顔をしてしまったのか、アスランが心配そうに覗き込んできた。
「どうした? 大丈夫か? 酔った?」
「だ、大丈夫」
「そうか? ならいいけど」
まだ少し疑わしげに花夏を見ていたが、自然に花夏の手を握ると「こっち」と案内し始めた。少しずつレンガの街並みが見え始める。
「前に来たときは冬だったから寒かったけど、この季節だから海岸に行っても寒くないかも。行ってみる? 先に宿屋行ってもいいけど」
花夏はアスランが背負っている荷物を見た。何だかんだ言って、結局いつも花夏の分の荷物まで持ってくれている。花夏としてはふたり分は大変だろうな、といつも心苦しく思っているが、アスランはどうしても譲ってくれない。アスラン曰く、花夏に重い荷物を持たせるなんてとんでもない、という事らしい。物凄い過保護である。
「先に宿屋に行こうよ。荷物、置いてから海を見に行こう」
隣のアスランを見上げて言った。アスランはそんな花夏を緑色の瞳をキラキラさせて眩しそうに見ている。花夏は、その色香溢れるアスランの姿に思わず唾を飲み込んだ。周りの赤いレンガよりも遥かに綺麗な赤銅色の髪がさらさらと揺れている。
花夏は、このアスランの表情を何度か見て知っていた。そろそろ我慢出来なくなってきている時の表情だ。思わず心臓がバクバクいってくる。
「あ、アスラン、あの」
「うん」
「そう、物欲しそうな顔しないで、お願い」
「そんな顔してる?」
声にも艶が出てきている気がする。首筋がゾワゾワしてきた。普通男にこんな色気があるものなのだろうか。形のいい唇が薄っすらと笑う。目は完全に獲物を狙う目だ。
「し、してる」
「カナツが綺麗だから。でも大丈夫、カナツが嫌がる事は絶対しないから」
「だ、だ、だって人前でキスとか」
アスランが眉をひそめた。
「キスはいいって言ってたじゃないか」
「ぐ……!」
それに、とアスランが続ける。手はがっちりと繋いだままだ。離す気などさらさらないらしい。花夏の手を握ったまま、どんどん町の中へと進んでいく。
「カナツの方こそ、俺を物欲しそうな目で見てる時あるだろ」
「……え、私が?」
アスランが深く頷く。花夏に物欲しそうな目でアスランを見た記憶はない。アスランの色香にやられてクラクラする時はあるが。まさか、それの事だろうか。
「今もそう」
「……そんな顔、してる?」
「うん。綺麗だよ」
またさらっとそんな事を言う。顔が火照って仕方ない。いつもなら花夏がいっぱいいっぱいになるとそれ以上は追及してこないアスランだが、今日はいつもと様子が少し違った。もしかしたら、我慢させすぎたのかもしれない。
「カナツはさ、そういう風に思ったりするのは恥ずかしいのか?」
ストレートな質問だった。だが、今ここに他の逃げ場はない。人通りも増えてきて、もしかしたら町の中心に近いのかもしれなかった。
「恥ずかしい、かな。やっぱり」
へへ、と笑ってみる。自分でも情けない誤魔化し方だと思った。どう考えても子供の対応だ。
「相手を欲しいなって思う事は恥ずかしい事じゃないと思うな、俺は」
アスランの言い方が益々ストレートになってきた。花夏は段々返事をする事すらきつくなってきた。許容範囲オーバーである。
「それに、カナツに欲しいなんて思われてるなんて俺幸せだし」
「アスラン……」
「カナツは、俺が好きって思ってる事はどう思う? 幸せに思ってる?」
アスランの顔は真剣そのものだった。そう、いつでもアスランは真剣だった。花夏に対して誠実だった。それを、己の幼い都合ではぐらかしてきたのは花夏だ。
アスランに与えられてばかりの幸せ。それでいい訳がない。花夏からだって、ちゃんとアスランに与えられるものがある筈だ。そろそろ、きちんとアスランに向き合わないとアスランに対して失礼だと思った。それくらい、アスランは常に花夏を一番に考えてくれていた。
「幸せ、だよ。アスランにも、私といて幸せだって思って欲しいと思ってる」
「じゃあ、もう恥ずかしがらないでよ。人を好きになるのって、恥ずかしい事じゃないだろ」
アスランが拗ねたように言う。確かにその通りだ。アスランを好きな事は、恥ずかしい事でも何でもない。ただ、恥ずかしがらなくなる方法が分からなかった。
「そうだけど、でもどうしたらいいのか」
「思い切っちゃえばいいんだよ」
今度は急にいたずらっ子のように笑って言う。星のマークの看板の前に辿り着いた。宿屋に到着したのだ。
「俺を全部カナツの物にしてやるって思い切ったらいい」
花夏は、アスランの言わんとしている意味をようやく理解した。頭から湯気が立ち昇りそうだった。アスランはそんな花夏を横目で見て、宿屋のカウンターまでスタスタ進む。
「そ、そ、それは」
「俺は喜んでカナツの物になるよ」
それはそれは楽しそうに笑うアスランだった。ふたりに気付き、カウンターの奥から主人が歩いてくる。主人に聞こえないよう、アスランは口を花夏の耳元に近づけて小声で言った。
「今夜も宿屋で宿泊だし、夜に試してみたら?」
花夏は、もう何も言えなくなった。そんな花夏を見て、アスランがクスクス笑う。
「いらっしゃい。おふたりね。ベッドは幾つがいいかな?」
アスランが活き活きとして言った。
「大きいの、ひとつ」
顔を茹で蛸状態にしたままアスランに連れられ、花夏は部屋に向かった。何だかんだアスランに上手く誘導されているような気がしてならない。本当にこのまま進んでしまっていいのだろうか? いや、誰も駄目とは言っていないが、でも、だって。
考えはぐるぐるとループする。
先を行くアスランの口角は上がっている。実に楽しそうだ。
――まあ、まだ夜まで時間はある。もう少しじっくり考えよう。
そう考え、とりあえずぐるぐるしているのは横に置いておくことにした。
部屋に入り、アスランが荷物を床に置く。花夏はいつも真っ先に転送石を取り出す事にしていた。鞄の内側のポケットから取り出すと、白く光っている。
「あ、手紙来てる」
「結構久々だね」
「うん、何だか忙しそうだよね」
カナツ・カワムラ、と唱えて手紙を転送させる。封筒が1通現れた。表の字を見ると、サルタスからだった。早速封を開けて手紙を取り出し、びっしりと書かれた手紙を読み始める。アスランが、花夏の後ろに立って一緒に読み始めた。しばらく読み進めて行く。
そこには、驚くべき事が記載されていた。
「カナツ」
アスランが肩にそっと手を乗せてきた。
「カナツ、落ち着いて」
花夏の手が震えていた。自分でもコントロール出来なかった。
「アス、ラン」
後ろを振り返った。アスランだって、驚いている筈なのに。なのに、優しく微笑んでいる。どうしてそんな事が出来るんだろう。何を経験したら、そんなに人を思いやれるのだろう。
「カナツ、さっきのは忘れていいから」
「私たちは……」
「いいから! 大丈夫だから!」
アスランが後ろから花夏を抱き締めた。アスランの体温が、温かかった。この人の心のように、温かかった。
花夏の瞳から、涙が溢れた。
「俺は俺の意思でカナツを好きになったんだ。ラースとかカラドとか、そんなの関係ない。俺たちは物じゃない。そうだろ? だから、いい。気にするな」
「アスラン、私……」
サルタスからの手紙。そこには、花夏が黄月でありアスランが青月であり、ふたつが重なる事が決められているかのような伝説の事が記されていた。
「カナツ、こんなの関係ないって証明してみせよう。な?」
優しい、優しいアスランの言葉。アスランだって絶対傷ついている筈なのに。こんな、まるでふたりがただの物のような存在だなんて言われて、そんな事納得出来る筈もないのに、それでもアスランは花夏だけを気遣う。
身体を捻り、アスランを見上げた。穏やかな、泣いている花夏を見て少し困ったような笑顔。
この人を守りたい。強くなって、この人を幸せにしてあげたい。
そう、強く願った。
次回は明日(2020/10/21)更新予定です!




