内緒の言葉
謁見が終わり、あてがわれた客室に戻った私はくてんとソファに埋まっている。見るからに高級なソファは柔らかすぎて体が沈みすぎてしまうので座るには向かないと思っていたが、今はそれがありがたい。体を包み込むクッションが人をダメにする。そのままうとうととまどろみそうになり、慌てて身を起こした。
大きく息を吐いたのとほぼ同時に、荷物と一緒に来た侍女がお茶を入れてくれた。慣れた温かさにほっとする。
「お疲れ様でした、アルト」
自堕落な私とは対照的にさっさと礼装を解いたセシル兄が私のすぐ横に座った。大きなソファなので二人並んでもまだ余る。セシル兄はどういう技術か知らないがソファに埋まらずに座り、私のほつれた髪を指でくるくると回した。細くて長い指がとても綺麗だなと思いながら、そっと倒れて膝枕してもらう。
「セシル兄、私はちゃんとできていたか?」
思っていたより弱い声が出る。
正直、ロイドのあんな顔を見たのは初めてで堪えた。私の記憶にあるロイドは表情が豊かで、いつも私の心を照らしてくれた。初めのころは押しが強すぎて空回りばかりする残念な男だと思っていたくらいだ。
それがあんなに表情のない、人形のような顔をしてた。それに、私には向けたことがないあんな笑みを婚約者には向けるんだと思ったら、それだけでもうだめになった。そんな自分にびっくりだ。
ロイドの顔を見るのがこんなに辛いとは思わなかったから、このもやもやする気持ちをどうしたらいいのかわからない。
ため息も出ない私の頭を、セシル兄は優しく撫でてくれた。
「大丈夫、きちんとできていましたよ。さすが私の可愛い妹です」
いい子いい子、と口にされると気恥ずかしいが、兄の温かい手に癒されているのは確かだ。
兄たちの中では一番細いが頼もしい体に身を預け、謁見の時のロイドを見て思っていたことを口にすると、セシル兄はそうだね、と言って少しだけ笑った。
「ロイドの気持ちですか。すっかり忘れてました。そう言えば後回しでしたね」
ふふ、ととても綺麗な笑顔を見せるセシル兄。その顔には私が抱えていたような心配は全く見られない。
なんだか少し、むっとした。
「セシル兄はロイドの気持ちなんかどうでもいいのか?」
だからついイライラをぶつけてしまう。
セシル兄は少し困った顔をしたのち、私の鼻を人差し指で軽く押した。柔らかくたしなめるような力加減に、口を閉ざす。
「少し待ってくださいね」
そう言うと、セシル兄は腕につけている細い腕輪の一つを取り、私の肩を抱き寄せて何やら呟いた。
ふあり、と空気が動いたような感じがし、私と兄の周りだけにうっすらとシャボン玉のような膜ができる。
「このくらいの弱い結界魔法は外交の一環としてよく使うので感知されても問題ないです。でも範囲が狭いのでもう少し寄ってくださいな。きゅっとね」
言われるままに膝を曲げ、より一層縮まって兄の腿に頭と体を預ける。兄の腿はしなやかな筋肉がついているが、太くはないので弾力はない。でもふんわりといい匂いがして落ち着く。つい摺り寄ってしまったら、セシル兄はなんだか嬉しそうにくすくす笑った。
「私の妹は甘えん坊で可愛いですね。ほんと、ロイドにはもったいない」
言いながら、頭のピンを一本ずつ外していく。
「邪推をする輩がいますから、ロイドの話をするときは結界の中でしましょう。先ほどざっと見ましたが、この建物には先見の術があちこちに使われています。この部屋での話はほぼ聞かれていると思っていい。もっとも、アルトの着替えや寝顔は見せたくないので寝室の術は解除しましたがね」
なんと、この短い時間でそんなことをしていたのか。
「セシル兄の着替えはいいのか?」
「私はいいんですよ。まあ、サービスの一環です」
もちろん『ちらり』ですよ、などと言いながら笑うセシル兄はなんだかすごい。
「コンラッド王はロイドを失って嘆く私たちが見たいので先ほどのアルトの反応はごちそうでしょうね。私たちが歯ぎしりをして地団駄踏んでいる姿が見たいなんて趣味の悪いことです。せっかくなのでそう言うところを見せてあげるおもてなしもありですが、隙はなるべく見せないほうがいいでしょうね」
「うん……」
「多分今も私たちがこそこそと内緒話をしていると報告が上がっているでしょう。まあ、そこは好きに思ってもらえればいい。私たちのほうは下準備はすんでいますからね」
そう、私たちはここに来るまでのひと月をロイドを取り戻すための準備に費やした。ここに早めに来たのは水面下での話し合いがうまくできているか確認する意味もある。もちろん、確認後は結婚式までに婚約を円満に解約してロイドが再びヘインズに来られるように仕向けるのだけど。
だけど、それはロイドの気持ちをすべて無視して行ったものだ。
今になって、ロイドの顔を見てそれに気づいた私はどうしようもない愚か者だと気持ちが沈む。
「ロイドのことを考えてますね」
私の気持ちはすぐ顔に出るようだ。答える代わりに頷くと、最後のピンを外した兄が優しく髪を梳き始めた。
「確かに、私たちはロイドの気持ちなど聞かずにことを進めていますが、ロイドが私たちを大好きで、本当にごめん、ちゃんと会いたいと思っていると言っていたから大丈夫ですよ」
「え!?」
いつどこでそんなことを?
驚いて顔を上げると、セシル兄はいたずらっぽく笑い、私の頬をつついた。
「私とロイドは王族ですからね。どちらかが敵に捕まったとして、相手にバレないように情報を伝える内緒の言葉があるんです。今回使ったのは学生の時に冗談で作った二人だけの符丁で、私たち以外誰にも通じないお遊びみたいなものなんですけどね」
内緒の言葉?
そういえば、昔読んだ本にあった。王族が誘拐された場合、犯人に気づかれないように情報を渡すようにちょっとしたしぐさなどに意味を持たせることがあると。つまりそういうことか。
「ロイドが言った言葉を覚えていますか?」
「ええと、たしか『遠路はるばる私どものためにありがとうございます。今後はお国に訪れることもないでしょう。お世話になりましたティファール陛下のご多幸をお祈りします』だったな」
「一言一句覚えているとはさすがです」
編んでいた髪が長い指で解されていく。絡まった髪をほどくのと同じようにセシル兄が言葉の意味を教えてくれた。
それによると、あの言葉は『わざわざ国外まで悪かったな。来てくれてありがとう。残念だけどもう戻れない。でもひょっとしてティファール陛下がなんかしてる?』となるそうだ。
それに対する返事だった『ありがとうございます。貴殿と学んだ日々は楽しかった。ロイド殿下もどうか息災で』は『当たり前でしょう? 本当にバカですね。ロイドの気持ちなんかわかってます。迎えに行くから首洗って待ってなさい』となると言う。
「……、わかるかああ!」
思わずバンと胸に頭突きしてしまったけど仕方ないと思う。
「どうやったらあの言葉がそう解釈されるんだ!?」
「だから、他人にはわからないようになっていると言ったでしょう? それにアルトは気が付いていませんでしたが、ロイドは私に向かって3回瞬きしました。あれは夜になったら話せるという意味なんです。3回だから9時くらいですね。学生時代に寮から抜け出すときに使っていた暗号なんですが、まだ覚えていたんですねえ」
「……」
「というわけで、夜にロイドのところに行きますからね。なるべく具合が悪くなったような感じを出して夕食を中座しましょう。幸い、アルトは他国では体が弱くて療養していた姫君とされてます。おなかが空かないように、こちらでお菓子をたくさん用意しますから大丈夫ですよ」
兄たちにしてやられた。悩んでいたのがバカみたいではないか……。
むう、と頬を膨らませたら、セシル兄はごめんと手を合わせた。
「だから、ね? その時にロイドの気持ちを聞きましょう。なに、帰れないなら軽くぶん殴ってすっきりすればいいんです。アルトにはその権利がある。それにロイドを奪うにしても置いていくにしても、リンゴウ王国にはメリットしかない提案をしています。相手の姫君には迷惑が掛からないように準備をしたではありませんか」
確かにそうなんだが……。
まあいいか。納得がいかない部分はあるが、ここはセシル兄に甘えよう。
さっきまですごくヘタっていた心が軽くなっている。私が一人で悩んでいても仕方ないんだ、と心から思った。兄たちは私が辛かったり苦しかったりしないように気を配ってくれてる。一人じゃないのはありがたいなとしみじみ思う。
「セシル兄がいてくれてよかった」
すり、と胸に摺り寄ると、兄は嬉しそうに私の頭をポンと叩いた。
「私もアルトが妹でよかった。ほら、髪が綺麗にほどけましたよ。その目の毒な戦闘服を脱いで着替えていらっしゃい」
「目の毒、ということはセシル兄にも効いてる?」
「ふふ。妹でなかったら効果は抜群だったかもしれませんね。実際、ロイドもちゃんと目を合わせられなかったみたいですし」
セシル兄はあの時のロイドを思い出して笑っている。私はあの無表情なロイドに胸を痛めていたのだが、兄に言わせると『目のやり場がなくておろおろしていただけ』だそうだ。
なんだかなあと思ったが、ロイドらしいと口元が緩む。
「というわけで、内緒話はここまでです。これ以上時間をかけると変な詮索をされますからね。結界を解きますから、アルトはちょっと泣いたふりなどしてください。あんなロイドを見て悲しいみたいな顔をしてくれれば十分です。いいですね?」
芝居は苦手だな、と思いつつ頷く。あくびをして涙を目の端に滲ませたら、その調子ですとセシル兄が笑った。
結界が解かれると、すぐに侍女頭のミルが迎えに来て、寝室に連れていかれた。
入るとすぐに侍女たちが準備万端で待っていてくれたので、すぐに苦しいコルセットから解放される。やれやれ、戦闘用の服は疲れるな。とはいえ他国にいるときは寝るとき以外ドレスを着る必要があるので、当然コルセットを着けられる。戦闘用じゃないから布でできた柔らかいものだけど、それでも普段つけていないので締め付けられて嫌な感じだ。
「セシル兄はいいなあ。コルセットがなくて」
紐で軽く縛られつつ不満を口にすると、侍女たちがくすくす笑った。
「何をおっしゃいます。殿方はその分女性とは違うしがらみに締め付けられておりますよ」
なるほど、一理ある。
確かに、セシル兄が前に出て庇ってくれるから、私はただ目を伏せておとなしくしているだけですむのだしな。
「それにあの華美な礼服も着るのは大変なんですよ。意外に腰回りもベルトでぎゅうっと締めてますし、きれいな姿勢に見せるために普段の服より生地が固くて重いんです」
「そうそう。シトリン様なんて、ベルトで締めすぎておなかに食い込んでますもんね」
くすくす笑う侍女たちの言葉にシトリンがふうふう言いながらベルトを締めるところを想像して吹き出してしまった。ごめん、シトリン。
それを見て、侍女たちがほっとした顔をする。
「よかったです、姫様が笑ってくださって」
コルセットを整えてドレスを着せながら、ミルが言った。
「さっきまでとても青い顔をなさってましたよ。初めての外国で不安があるのではと心配しておりました」
ね、と首を傾げつつ侍女たちに視線を向ける。14人の侍女は揃って頷いた。本当はロイドのことを聞きたいのかもしれないが、先ほどのセシル兄と同じように口には出さない。寝室にあった先見の魔法は外したと兄は言っていたが、用心に越したことはない。
と言っても、侍女たちの顔はただ私のことが心配だと書かれていた。純粋に私がふらふらと戻ってきたので気遣ってくれていたらしい。
心配されることに慣れていないのでなんだかくすぐったい。こういうのを嬉しいと言うんだろうな。
「私たちも御役目を果たすために頑張りますから、姫様も頑張ってくださいませ。応援してます」
そう言って力強く頷いてくれるミルたちに、私はありがとうと言って頭を下げた。
そのとき、トントンと扉が叩かれた。
もちろん、叩いたのはセシル兄だ。
「お疲れのところ悪いけど、この後リンゴウ王国の第二王子に会えそうだよ。向こうから少しでいいので挨拶したいと言ってきたらしい」
リンゴウ王国、と聞いて私はパッと体を固くした。
私がぐてんとしている間にも、ことは進んでいるようだ。
「ランドル兄様かな?」
「まあそうだろうね。兄様ならひと月あれば可能だろう」
頼りになる兄たちがいてとても心強い。
私は二月前、ロイドの結婚を知ってからの兄たちの行動を思い出した。
読んでいただいてありがとうございます。
わかるかあああ! と思ったのはアルトと同じでした(自爆)
こういう二人にしかわからない合図とかってなんかいいですよね。




