2. 彼のそのとき
本編2話~最終話までの間の、裏番組的なクオのお話です。
会わないでいる間も、同じだけの時が流れた。
彼のそのとき。
放課後、第三調理室。
「おにーさん、ありがとう!」
声をそろえて、頭を下げる。集まった初等部の子たちは、クオの用意したフルーツポンチを、きれいに平らげてくれた。
「どういたしまして」
手近な一人の頭を撫でて、クオは言った。
さようならと口々に言い、初等生たちは第三調理室を出て行った。彼らを見送って、クオは幸せだった。
片付けをしていると、いつの間にかコモチが戻ってきた。初等生を集めてくれたのはコモチだったが、かしましい彼らを避けたのか、しばらく席を外していたのだ。
「どうだった?」
「うん。楽しかった」
クオは頬笑んで見せた。コモチはそう、とつぶやくと、奥の席に腰掛けて、持っていた本を開いた。ページを繰りながら、言う。
「クオは、料理を食べてもらえるのが嬉しいんだ」
「そうだな。本当にそうだ……」
手を止めて、喜びを噛みしめるように、まぶたを閉じた。思い出されたのは、テンの笑顔だった。もうきっと、得られない、それ。
あきらめよう。そう思った。テンの笑顔はあきらめよう。代わりに今日は、幼い初等生がクオの料理を喜んでくれた。それでいいんだ。
「いつか、大人になったら」
口に出して言う。
「レストランを開きたい」
「……うん」
コモチは栞紐をいじりながら、考えを巡らせているようだった。
「今も、やろうと思えば、似たようなことが出来るかもよ」
「どういうことだ?」
「文化祭の時、模擬喫茶ってあるでしょう?」
クラスや部活の出し物で、教室を使って簡単な喫茶店をやることがある。
「ああいうの、生徒会に頼めば、文化祭じゃなくても出来るかも知れない」
「ホントに?」
びっくりした。そんなことがあるのだろうか。でもコモチがそう言うのだ。
コモチとの付き合いはそれほど長くはないが、彼女がやたらと賢いのは、話していて分かった。色んなことを知っていて、勉強も学年以上のことが出来るらしく、上の学年の授業に出ているのだという。
「私、企画書、書くよ」
コモチは置いてあった鞄からルーズリーフを一枚取り出すと鉛筆を走らせた。書きながら言う。
「これを持って、クオが生徒会に頼みに行くの」
「でも生徒会って……、どうやって行けばいいんだ?」
「クオと同じ学年に、生徒会の人いるよ」
「そうなのか?」
「うん、七組かな。後で調べてみる」
しばらくコモチの鉛筆のコツコツいう音だけが響く。
「できた。こんな感じで」
手渡され、目を通す。
「本当にこんなこと出来るのか」
「やってみなきゃ分からないけど。でもやってみたら? クオはやりたいと思う?」
ここに書いてある通りのことが、もし、出来るとしたら。
「やりたい」
自分の料理を誰かに食べて欲しい。食べてくれた誰かの、笑顔を見たいと思った。
コモチはクオの表情を見て、何とも言えない顔をした。でも、うん、と頷いて、クオがやりたいと思うなら協力すると言った。
*
コモチの企画書のおかげで、クオは生徒会の後援を取り付け、模擬喫茶を開くことが出来た。高等部の休憩室を飾り付けて、店を構えた。生徒会からウェイトレスまで派遣された。出来上がった店構えに、クオは満足した。
しかし、お客が来ない。理由は簡単だ。宣伝をしていないのだ。閑古鳥の鳴く店で、クオは既に何日かを過ごしていた。
「店長、ちょっといいですか」
厨房の入り口から、ウェイトレスの万里谷が呼ぶ。はて、閉店にはまだ早いと思ったが。
「なんでしょうか、万里谷先輩」
「私は、回りくどいのは嫌いです」
「え……はい」
「誰を避けてるんですか?」
鋭い視線だった。手に持っているのがトレーでなく、ナイフだったら、もう少し絵になったかも知れない。そう思うくらいに。
「避けてるって……、それは」
「来て欲しくない人がいるのでしょう? だから宣伝しない」
「……」
「誰なんです?」
来て欲しくない女子がいる。名前を言おうとして、急に口が渇いた。手が震える。
「まあ、無理に名前を言わなくてもいいですけど」
クオの様子がおかしいのが分かったのか、万里谷は追求しなかった。
「でも宣伝したくらいで、来るでしょうか、その子」
もし校内で甘いものが食べられるなんて知ったら、文字通り飛んでくるだろう。テンが興奮して羽をパタパタさせ、宙に浮いてるところを、クオは何度か見たことがある。
「はあ、分かりました。だいぶ考えなしの子なんですね」
「……そうですね。考えなしで、食いしん坊で……でも、すごくかわいいんです」
思い出した。テンの表情を。まだか、まだかと催促する声。乗り出しすぎて、よく机が倒れたっけ。
「会いたいですか?」
「会いたい……会って、俺の料理を食べて欲しい。いつかみたいに、笑って欲しい」
目をきらきら輝かせる、テン。美味しいと笑う彼女が好きだった、大好きだった。もう戻らないひかり。失ってしまった。
「そんな願い、簡単に叶うのに」
「でも、約束したんです。会わないって」
ユイの暗い瞳を思い出す。いらついて、ものを投げた。泣き叫ぶ彼に、自分はどれだけのことを出来ただろうか。弟と思って、大切にしていたのに。なにも、何も出来ない。
「傷つけるのが、こわいんです。俺が約束を破ったら、裏切ったら、あいつはどうなるか分からないから」
「私には言い訳に聞こえます」
「そうかも知れないです……会いたいけど、こわい」
頭から血を流すユイ、それを。まるでゴミみたいに放り投げたテン。冷たい顔、瞳、こわかった。手の内で、血がぬめった。熱い、熱い血。ユイの血。
――お前も、同じ目に遭わせてやる。
その響きが、耳の奥に残ってる。背筋が寒くなった。
「俺は意気地なしです。自分からはなんにも出来ない……先輩が笑うなら、それでいいです」
「………全く、本当に意気地なしですね」
万里谷はため息をつくと、厨房を出て行った。
「約束なんて、そんなの……」
つぶやきの先は、距離によってクオの耳に届かなかった。
数日後、お客が来た。テンだった。クオはテンに気づいて、厨房に身を隠した。最初に感じたのは背筋の寒さだったけれど、万里谷がチケットを持ってきて、それを受け取ったら、もう次のことを考えていた。
テンは、何が好きだったっけ。どれくらい食べたっけ。一番大きな器を取り出す。今ある材料で、テンが一番喜ぶものを――フルーツパフェだ。
夢中だった。
出来上がったそれを見て、クオは胸が温かかった。会えないとしても、言葉を交わせなくても、テンが自分の料理を食べて、喜んでくれるなら、クオはそれが幸せだと思った。
*
「店長聞きましたよ」
「……何をですか」
「彼女がいるんですってね」
「………」
たっぷりと、沈黙を挟む。
「………えっ?」
「放課後はいつも調理室で一緒って聞きましたよ。ラブラブじゃないですか」
「いや……ラブラブって……」
思い浮かべる。コモチの姿。尺が足りなくて、自分と向かうときはいつも背伸びしている。クオ、クオと呼ぶ声。まだ幼い。
「……万里谷先輩、さすがに、その、初等生相手に……そういうのは」
「初等生なんですか?」
「……俺よりずっと頭がよくて、大学の授業とか、出てるみたいですけど、初等生です」
「………あー」
万里谷は間延びした声をあげる。目を閉じて、息を吸う。しばしの間の後、万里谷はこちらにがっちりと視線を合わせると、ドスのきいた声で言った。
「このロリコンが」
「何もしてません、本当ですから! なにも」
「なんだか信用なりませんね。店長の趣味は片寄ってますよ」
「趣味の偏りは、仕方ないじゃないですか! 先輩だって趣味がかたよ」
がしっと、頭を捕まれる。
「何か言いましたか?」
「いえ、何も」
「よろしい」
ニコリと笑う。凶悪な笑みだ。なんでこの人はこんなに強いんだろう。
「何もしてないっていうのは信用しますけど、ホントに全く何もしないのも、よくないんじゃないですか?」
「……え?」
分からなくて、聞き返す。どういうこと?
「その子……、コモチちゃん、でしたっけ? 何か悩み事とかあるんじゃないですか? ため息をついたりしていませんか?」
「ため息……?」
言われて、思い返してみる。調理室で一緒にいるときのコモチ。確かに最近、ため息をついていることが多いような気はする。
「……うーん、お腹が空いたときとか、ため息が出ますよね。でもご飯を食べたら、元気が出ますよ」
そう言った。それを聞いた万里谷が、盛大に、ため息をついて見せた。ハァ~と、肺の中身を全部出すような、深い。
「店長はなんにも分からないんですね」
「ええ?」
「今私が、なんでため息をついたか分かりますか?」
「えっと……」
クオは腕を組んで考えてみた。店長はなんにも分からない?から?
「俺が……的外れなことを言ったから? 万里谷先輩の言いたいことを分からなかった?」
「そうですよ。女の子ってね、分かって欲しいものです。分かってくれないときに、ため息をつくんですよ」
「じゃあ、どうしたら?」
「聞いてみたらいいんです。何か不満がないか、どうしたらいいか」
ほう、と息を吐いた。思ってもみなかった。
「デートに行きたいと思ってるかも知れないじゃないですか。キスしたいって思ってるかも」
「ええ? 初等生でも?」
「初等生だってそれくらい思いますよ。それにその子、頭いいんでしょ、ませてるんでしょ?」
「うーん……」
「まあ、聞いてみることです。ご飯食べたら元気出るなんて簡単に片付けないで、ちゃんと聞いてみるんです」
万里谷はそう言うと、クオの肩を叩いた。そして聞く前にキスしたりしたらダメですよと付け加えた。そんなことしないと叫んだが、もしコモチがそうしたいと言ったら、自分はどうするのかとクオはドギマギした。
*
テンと初めて会ったときのことを覚えている。
ユイが泣いていた。泣いていることを指摘するとユイは怒るから、クオは何も言わなかったけれど、ユイの目には涙が浮かんでいた。悔しくて。
かけっこで負けたという、給食を食べる速さでも負けたという。なるほど、そんな子が転入してきたのかとクオは思った。ユイの後ろできょとんとしている背の高い女の子が、その転入生なのだと気づくのに、しばしかかった。
テンはとにかくよく食べた。クオが鞄にしのばせているあめ玉を、駄菓子屋で買ったあれこれを、クオの初めて作ったクッキーを、テンは食べた。
いつも無表情なテンが、食べるときだけは嬉しさに笑顔を見せるので、クオは料理をするのが大好きになったのだ。
中等生になった頃、学園から鍵を贈られた。第三調理室、クオの特権区。調理に必要なものはなんでもそろっていた。お小遣いから食材を買って、テンとユイのために料理をするのがクオの一番の楽しみになった。
*
ため息をつくコモチに、万里谷に言われたとおりに問うた。コモチは打ち明けた。彼女が初めて調理室に来たときのことを。コモチの悩みはその時のことのようだった。勝手に人の特権区に入り込んだのに怒らないのかと、言われた。
「そりゃあなあ、人の特権区に勝手に上がり込んだら、他のヤツは怒るかも知れないけど……でも、俺は怒らないよ」
「どうして?」
「うーん……だって、嬉しかったんだ、お前がいて」
クオは笑う。なんだか照れくさかった。
「でも私、そんなにたくさん食べられないよ? お料理食べるのもすごく好きってわけじゃないよ?それでも、クオは」
クオはコモチの頭を撫でた。
テンのことが好きだった。テンはクオに料理の楽しみをくれた。テンが笑うから、クオは幸せだった。だからテンが好きだった。
「俺さ、料理が好きだ。それは多分、変わらない。だから俺の料理を食べてくれるヤツも好きだ」
でも。見つめる。コモチ――いつの間にか調理室にやってきた、まだ小さな女の子。テンと違って華奢だし、テンと違ってたくさんは食べられない。でも。
「でも、コモチのことはそうじゃなくても好きだから」
「……どうして?」
コモチの瞳が見つめる。コモチの目は若草みたいな緑色だ。テンの瞳は満月みたいな黄色だった。
コモチはテンじゃない。似てもいない。今はそれが分かる。コモチはテンの代わりじゃない。テンの代わりじゃないけど、でもコモチが好きだ。どうしてかなんて……。
「うーん、分かんない。でも、そうだから」
クオはまた、自分の頬が熱くなるのが分かった。
「分かったよ、クオ」
コモチがクオの手をとる。コモチの手は小さくて、でもはっきりとクオの手を掴んだ。
「私もクオが好きだよ」
コモチは頬笑んだ。コモチがクオの手を引っ張って、クオの胸に抱きついた。クオはそっとコモチの背中に手を回した。
*
取り押さえられ、調理室に連れてこられたユイはうなだれていた。クオはユイのしたことが信じられなくて、言った。
「なんであんなことしたんだ。下級生を殴ろうとするなんて」
「うるさい! テンに会わないって言ったくせにクオは俺を……うらぎっ」
「違うよユイ!」
ぴしゃりと、テンが言う。
「違うの。クオは悪くないよ。クオはちゃんと約束を守ってたよ。あたしが悪いの。私がユイより先に、クオに会ったから……ユイのところへ真っ先に行けばよかった」
「……」
「ごめんね、ユイ……。仲直りしたくて、ユイが好きだったレモンパイ、クオに教えてもらったんだ。初めて作ったの」
出来上がったレモンパイは、調理台の上に放置されていた。それをテンが手に持って、ユイの前に置いた。ほんの少し不格好、だけどテンが初めて作ったお菓子。
ユイが顔を上げる。テンを見た。
「ごめんね、ユイ。今までごめん。あたし、ユイを傷つけた、身体も、気持ちも。ずっと辛い思いをさせてごめん。ねえ、ユイ、あたしを赦して欲しい――」
テンの声色は悲壮だった。
クオは自分の胸がきしきしいうのが分かった。テンが謝ったのだ。一年半、長かった。こんな日が来るなんて。ユイはなんて答えるだろう? あの日から壊れてしまった関係。三人で楽しかった日々を、取り戻せるのだろうか。
ユイは何も言わなかった。だけどテーブルの上のフォークをとって、レモンパイに突き刺した。ひとすくいして、食べる。泣いていた。
「――赦すよ」
もごもごと、ユイが言う。
「俺、テンと仲直りする」
言って、ユイはむせた。ボロボロと涙を流した。
*
「また今度、ここへ料理をしに来てもいい?」
両手に今日の完成品を持って、テンが言った。クオは頷いて、テンの頭を撫でた。
「いいよ。なんでも教えてやるから」
「うん。ありがとう。黒はねがね、きんぴらが食べたいって。お父さんにはね、クリームコロッケ作りたい。難しい?」
「難しいかもな。でも丁寧にやれば、大丈夫だよ」
「うん。丁寧にね」
テンが去って、クオは調理室でぼんやりしていた。後片付けはもう済んで、やることがない。
そろりと戸が開いて、見るとコモチが戻ってきた。コモチはいつもテンが来ると席を外すのだ。
「おかえり、コモチ」
「ただいま」
それだけ言って、コモチは奥の席へ腰掛け、本を開いた。読むのかと思ったら、肘をついて、窓の外なんか眺めている。ため息。
「……ご機嫌斜め?」
クオは問う。
「どうしてそう思う?」
「テンがいたから……テンがいるといつもいなくなるよな、コモチは」
「だって。あの子、いい子なんだもん」
「えっ」
「仲良くなったら、ヘンなキブンだ」
クオは苦笑いした。
「クオは仲良くして欲しいの?」
「いや……、コモチの好きにしなよ」
「うん。そうする」
コモチが本のページをめくる。顔を近づけて、やっと読み出した。
クオはお湯を沸かして、紅茶を淹れた。昨日の模擬喫茶で売れ残ったクッキーを、お皿に並べる。
コモチのいるテーブルにそれらを置いて、自分も腰掛けた。紅茶のカップを勧めると、コモチはありがとうと言って、カップをとった。
「いつか、私の気が向いたら」
コモチが言う。
「あの子と一緒に、私にも料理教えてよ」
本から顔をあげて、クオを見つめる。
「ダメかな?」
クオは微笑んだ。
「いいよ。コモチは寮で料理するのか?」
「まさか。調理実習なんて散々だよ。だから本当に一から教えてよね」
「分かったよ」
クオがコモチの頭を撫でると、コモチはその手を取って、頬に当てた。コモチが目を閉じる。しばらくの間そうしていて、コモチはクオの手を離すと、再び読書に戻った。
クオは自分のカップにも紅茶を注ぎ、その香りを楽しんだ。
この調理室の風景も、だいぶ変わった。ユイはテンと仲直りした。食べることばかり考えていたテンが料理を習いに来るようになった。そしていつもこの席にコモチがいる。
コモチとテンが並んだら、どんなことになるだろう。二人の気が合うのか、分からなかったけれど、クオはその風景を見たいと思った。
いつか、そのときに。
At that time, he...