時空の街道
時空の街道
その少女は佇んでいた。
持ち物は黒いボストンバッグただ一つ。白いブラウスに落ちる滑らかな黒髪を風に揺らし、憂いを孕んだ翡翠の眼で、何もない空を見上げていた。
見渡す限り広がる大地の果ては、地平線と言う名の境がなければ、深い蒼穹と溶け合ってしまいそうだ。木も草も生えておらず、ただ赤っぽい土の広がる大地に唯一敷かれた白い道。
長い長いその道の真ん中で、少女は独り佇んでいた。
やがて、道の果てにポツンと黒い人影が見える。
ゆっくりと歩く影は徐々に大きくなり、それが背の高い青年であることが判った。
「こんにちは。こんなところで、誰かに会うとは思っていませんでしたよ」
黙って立ち尽くすばかりの少女に、青年は穏やかな口調で話し掛ける。微笑した瞳は頭上に広がる空と同じく、何処までも澄んでおり、穢れを知らぬ少年がそのまま大人となったような印象を与える。
「あなたは……」
少女は何かを問おうとか細い声を絞ったが、すぐに俯いてしまう。青年は少女の謂わんとしたことを察したのだろう。彼は優しく微笑すると、真っ直ぐ、道の先を指差す。
「僕は道を下ります。もう、居場所がありませんから」
そう言う青年に、少女は哀しげな視線を向けた。しかし、青年は先程から変わらぬ笑みのまま。
「つい最近までは、誰もが僕を見上げていたものです。そして、笑っていました。僕が悲しむと、皆も悲しげな眼をしていたのを覚えています。少し申し訳ないと思いながら、時々、七色の化粧を施すと、また楽しそうに笑ってくれました」
青年は思い出すように眼を閉じ、穏やかに言葉を紡ぐ。
「でも、もう戻れなくなりました。僕の中を何羽もの機械鳥が飛ぶようになってからは、誰も僕を見て笑ってくれなくなった。それに、今は――あ、お気になさらずに。判っていますから」
憂いを帯びた眼を伏せていた少女を慰めるかのように、青年は唇に笑みを描いた。しかし、澄んでいた蒼い瞳には、何処か影が差している。
「では、時間ですので、失礼します」
青年は来たときと同じく、ゆったりとした動作で、少女の横を歩き去っていった。
次に訪れたのは、若い女だった。
元は美しかったであろう黒髪の一部は焼け焦げ、着ている服も煤けて所々破れている。
女は少女を見るなり、黒く汚れた顔を怒りに歪め、大股で歩み寄った。
「貴女のせいよ!」
叫びながら指差す女に対して、少女は何も言わず、耐えるように唇を噛んだ。
「貴女のせいで、私は汚れた! 貴女の落としたもので、私は傷だらけ。緑は燃え、私は穴だらけ! 見て、紅い雨で汚れた私を! 貴女は私を踏み荒らし、せっかく芽吹いた種さえ殺していった!」
幾重にも重なるように吐き捨てられた恨みの言葉。少女は、ただ沈黙を守り続けた。
やがて、女は吐き出し切れない怒りと悲しみに顔を染めながら、少女に背を向け、自らの道を歩み始める。
再び、少女は独り。
彼女は、果てしなく続く道の先を見遣ったが、しばらくして、両手で顔を覆って伏せてしまう。
――早くおいで。
――もう来ないで!
――おいで、おいで。
耳元で囁く誰かの声。
自らを呼ぶ声に、少女は耳を塞いだ。
どうして、人は彼女を呼ぶのだろう。口では彼女を拒み、蔑み、呪う言葉を吐きつつも、両手で手招きをしている。
彼女に全てを奪われ、壊されても、尽きることのない怒りや欲望に支配され、何度も何度も彼女を呼び続けるのだ。
美しかった【空】も【大地】も彼女に追われた。彼女に追われて、【過去】へ進んだ。
彼らだけではない。もっと、たくさんのものが、彼女に追われている。
彼女独りが尽きることのないものとして、【未来】へ進む。
多くの悲しみ、恐怖、絶望、死、怒り、憎しみ……本当に多くのものを携えて。
「どうしたの?」
その声に、少女は顔を上げた。
「行かないの?」
立っていたのは少年。少女よりも遥かに幼く、あどけない笑みを浮かべた少年が立っていた。
「行きたくない」
「でも、もう時間なんでしょ?」
少年はニッコリと笑うと、小さな手で少女の頭を優しく撫でる。
「大丈夫だよ。ぼくも一緒に行ってあげるから」
まるで、天使のように笑う少年から眼を逸らすように、少女は俯いてしまう。
「嫌よ……わたしはたくさんの人間を殺すわ。たくさんの家を壊して、たくさんのものを過去へ流す。もう、嫌なの……」
少女――【戦争】の泣きそうな声に、少年は静かに首を振った。
「泣かないで。お姉さんは悪くないんだよ。誰も悪くない。大丈夫だから。まだ、ぼくが一緒に行ってあげられるから」
少年は笑いながら、長い道の果てを眺めた。
「ぼくがいれば、笑顔は消えない。命が生まれる。過去から何かが戻ってくるかもしれない……時間がかかっても、きっと、大丈夫だよ」
差し伸べられた小さな手。
しばらく、少女は躊躇っていたが、やがて、頬を伝っていた涙を拭う。
そして、歩んだ。
小さな少年――【希望】の手を取って。