其ノ四
左手に携えた『正崇』がやけに重く感じる。最初に父より授かった時よりもずっと重みが増しているようだ。
違道の屋敷を後にした大樹は、とぼとぼと道途を歩いていた。
若い頃より武芸に秀で、その名を轟かせてきた父とは違い、大樹はこれまで戦とは無縁の世界で生きてきた。
そんな自分が、果たして神器を受け継いだとして何の役に立つというのだろう。
こんなことならば無理矢理にでも剣の鍛錬に身を入れれば良かったと悔やんだが、当然後の祭りである。
はあ、と深い溜め息が漏れる。昼下がりの空はどこまでも穏やかで、己の心模様とは正反対だ。
「兄様、元気を出してください。兄様なら大丈夫ですよ」
少し後ろをちょこちょこと付いて来ていた弥生が隣にまで追いついてくる。励ましてくれるのは嬉しいのだが、弥生の存在もまた悩みの一つであり、大樹としては複雑な心境であった。
「弥生、本当にいいのか? やはり郷で待っていた方が」
「いいえ。もう行くと決めました。それに、志村の兄様だけじゃ考太兄様を抑えられないでしょう?」
「う……そこはあまり否定出来ないな」
図星を突かれ、大樹は言葉を詰まらせる。
あの幼馴染は普段こそ明朗で気持ちのよい男なのだが、少々思慮に欠ける上すぐに頭に血が昇る性格で、そうなると手が着けられなくなるのだ。
さすがに女子供には手を出さないので、そうなった時は弥生に宥めてもらうことが多かった。
しかし、それでもだ。可愛い妹分を危険に晒すというのは、やはり気が進まない。
違道氏も何故ああも易々と弥生の同行を認めてしまったのか、大樹は理解に苦しんだ。
再び大きな溜め息を吐き出す。
……まあ、うだうだと悩んでいても仕方ないか。
そう思い直し――殆ど諦めを含んでいたが――吐き出した分だけ息を大きく吸う。
そうして腹に力を入れようとしたところで、不意に視界を光が掠めた。
少し離れた家屋の傍で銀色の光がちらちらと反射する。その光源に気付いて漸く、大樹は三村を待たせていたことを思い出した。
「弥生、ごめん。ちょっと先に行くよ」
弥生にそう言い捨てると大樹は小走りで三村の元へと向かった。
大声で三村に呼び掛けようと手を振り上げるが、そこで大樹は三村の傍に誰かいることに気付き言葉を飲み込んだ。
おや、と思った大樹は僅かに歩速を緩め、ゆっくりと近付きながら遠目に様子を窺う。
それは見覚えの無い男だった。長身で、何所か影のある男だ。三村はその男と何やら真剣な様子で話し込んでいるようだが、流石にその内容までは判らない。
このまま近付いてよいものか思案していると、話が終わったのか、男の方が足早に立ち去るのが見えた。
「三村!」
「よう。名主殿との面会は終わったか?」
呼び掛けると、壁に背を預けたまま三村がこちらを見る。どうやら大樹のことには気付いていたようだ。
「今のは? 知り合いか?」
「いや? ただの軟派だ。この風采だと多くてな」
「軟派? 本当か?」
大樹にはとてもそうには思えなかった。遠目でも二人の話す様子は既知のそれに見えたからだ。
「まあ何だっていいだろう。それより、どうだったんだ? これからどうするって?」
三村ははぐらかすように大樹の報告を促した。
大樹は何故隠そうとするのだろうと訝しんだが、まあ知られたくないこともあるのだろう――特に男女の間のこととなれば――と思い直し、三村へ手短に屋敷でのことを伝えた。
「……という訳で、市川へ向かう前に考太を見つけなきゃいけないんだ」
「成程な。八坂の裏切りにも驚きだが、違道の嫡男は随分やんちゃなんだな。これは名主殿の苦労が偲ばれる」
「冗談を言ってる場合じゃないんだよ。早く追わないと、考太一人で敵陣に突っ込むことになったら大変だ」
「だな。じゃあ、まずはそのお坊っちゃんを追うとするか。ここから八坂のいる相馬の地までは距離がある。今から追えば充分追いつけるだろう」
「うん、じゃあ早速……」
「兄様!」
そこで漸く弥生が追いついてきたらしい。走ってきたのか、少し息が切れている。
三村に意識がいくあまり弥生のことをすっかり忘れていた大樹は、慌てて弥生の肩を支える。
「もう! いきなり走り出すからびっくりしたじゃないですか!」
「ごめんごめん、連れを見つけてさ。あ、三村、紹介するよ。考太の妹の弥生だ。成り行きで一緒に行くことになってさ」
弥生を三村の前に押し出して紹介する。すると三村が怪訝そうに眉を顰めた。
「成り行きで? おい、大丈夫なのか?」
「あー、うん。いや、おれも心配なんだけど、違道の父上に押し切られて……」
「なんだよそれ。頼りねえな」
呆れたように溜め息を零す三村に、しかし大樹は返す言葉が無かった。
「あの、兄様? こちらの方は……」
「え? あ、ああ、こいつは三村。村から逃げる際におれを助けてくれた恩人なんだ」
「三村さん。その節は兄様を助けてくださってありがとうございました。不束者ではありますが、どうぞよろしくお願いいたします」
「いや、礼には及ばない。通りがかっただけだしな。それより君、一緒に来るんだって? 平気なのか?」
「はい、大丈夫です。父からも許しをもらっていますので」
「……そうか。ならいいか」
「いいのかよ! そこは止めろよ!」
てっきり三村なら止めてくれると期待していただけに、この展開は予想外だった。
すると三村は肩を竦めて反論してくる。
「違道殿がそうしろと仰ったのだろう? なら俺が異を唱える理はないな。違うか?」
「いや違わないけど……じゃなくてだ!」
何とか説得を試みようと言葉を返すが、逆に三村に胡乱な目付きで睨まれながら凄まれてしまう。
「なんだよ、お前。まさか男のくせに女一人守れないってのか? 情けねえな。それでも玉付いてんのか?」
「ちょっ! おま、そういう下品なことをその顔で言うな!! 恥じらいってものは無いのか!!」
「ねえな。それより今はお前の意気地の話だ。で? 志村のご長男はか弱い女子の一人も守る自信の無い惰弱な男なのかい? ん?」
「う……ぐ……」
大樹には二の句が次げなかった。否定すれば弥生の同行を全面的に認めることになるが、しかし肯定すれば己の沽券に関わる。
「……卑怯だぞ、三村……!」
「何がだ。別に問題はないだろう? お前が彼女を守りきれば良いだけの話。そうすりゃお前のしみったれた面目だって保たれる」
「しみったれは余計だ! くそ……しょうがないな」
こうなれば自棄である。大樹はいよいよ腹を括った。
「弥生、お前はおれが守るけど、本当に危険な状況になったら迷わずおれ達を置いて逃げるんだぞ。それだけは約束しろ。いいな?」
「はい、わかりました。でも兄様ならきっとそんなことにはならないって信じてます」
臆面も無くそう言い切る弥生に、大樹は乾いた笑みを浮かべるしか出来なかった。
……本当に大丈夫なんだろうか。
大樹が再び一抹の不安に捕らわれている横で、弥生と三村は早速女同士意気投合し始めている。
前途の難事の多さに辟易しつつ、大樹はもう一つだけ大きく溜め息を吐き出した。