其ノ二
白井峠を下りきり、麓の森を抜けた先に広がる田園風景の中を暫く歩くと、やがて二人はその集落に辿り着いた。
富谷郷はこの辺り一帯の村々を治める名主、違道氏の屋敷が置かれていることもあって、数多くの人々が住み暮らす一際大きな村落だ。
普段なら今の時分は家の手伝いを終えた童達が道途を駆け回って遊んでいるものなのだが、二人の目には慌しそうな大人の影が映るばかりで童の姿など一つも見掛けない。
その大人達の表情も皆どこか焦燥に駆られるような、当惑したような色を浮かべている。
「何だろう、何かあったのか?」
思わぬ不穏な空気に大樹が訝しんでいると、遠くから自分を呼ぶような声が聞こえた。
「若殿! 志村の若殿じゃございませんか!」
はっとして視線を声の方に向けると、人の良さそうな顔をした小柄な老爺が驚いた表情でこちらに走り寄ってくるのが見えた。
あの顔には見覚えがある。確か違道氏の所の小姓だ。昨日も父の元へ使いに来ていて、声を掛けられたのだった。
小姓は漸く大樹の元へ辿り着くとその顔を皺の刻まれた手で挟み、まじまじと見つめては安堵の表情を浮かべ深い溜め息を吐いた。
「ああ、良かった! 本当に若殿だ。本当に、よくご無事で……!」
小姓の行動にはさすがに驚いたが、それよりも彼の言葉の方が大樹には引っ掛かった。
「おれが無事ってどういうことだ? まさか、志茂村のことをもう知っているのか」
「ええ、ええ。押し明け方も間近の頃でしょうか。峠向こうがやけに明るいと夜番の者が言うので小者を出したんでございます。そうしましたら、志茂村が燃えているとか。報せを聞いて、手前は心臓が止まるかと思いました。こうして若殿の無事な姿を見られて安心しましたよ」
小姓が再び大きく息を吐く。それを見て大樹は郷の異様な光景の理由にも思い至った。
「ひょっとして郷の大人達が忙しなくしているのもそれが理由か?」
「それは……それよりも若殿、志村様や他の村の方々はどうなさいました? 皆様とも無事で?」
小姓は何故か言葉を濁すと話を志茂村の方へと変えてきた。
おやと思いはしたが、大樹はそれ以上深く考えず小姓の質問に答える。
「……分からない。おれも、自分が逃げるので精一杯で。皆うまく逃げおおせてくれていればいいんだが」
「左様でございますか。今、別の小者を走らせて村の調査を行っておるところです。皆様のことも、いずれ報せが届く筈。無事を祈って待ちましょう」
「ありがとう。気遣い、痛み入る」
頭を下げて礼を述べると、小姓は大樹の肩を撫でるように手を添えると気を強くお持ちくださいねと言った。
その声と手の温かさとが、酷く心に沁みた。
「そうだ、若殿、旦那様も甚く心配なさっておりました。是非顔を見せて差し上げてください」
「ああ、そうだ、俺も違道の父上にお伝えせねばならないことがあるんだ。父上のお加減はいかがだろうか?」
「今はそれどころではないと仰って、床もすっかり冷えておる状態でございます」
「違道の父上らしい。しかしお体に障りが無ければいいんだが」
「ええ、ええ、まったく。……はて、そういえば若殿、そちらの紅裙はどなたで?」
小姓に聞かれ、大樹は漸く三村の存在を思い出した。そういえば紹介もしていない。
三村も二人の会話には興味が無かったようで、郷の景観に向けていた視線をやっとこちらに戻したところだった。
「彼女は三村、旅人らしい。村から脱出する際助けてもらった恩人なんだ」
「これはこれは、よくぞ若殿をお守りくださいました。志村様に代わって御礼申し上げますぞ」
「いや、気にする程のことでもない。たまたま通り掛かっただけだ」
謙遜を口にする三村であるが、何やら落ちつかなそうに首の裏を掻いている。……照れているのだろうか? いやまさか。
すると三村は急に真顔になり、肩に掛かった銀糸をさっと振り払って言った。
「名主殿にお会いしに行くなら早く言って来い。俺は外で待っているから」
「えっ、三村も来れば良いじゃないか」
「そうですとも。志村の若殿をお助けくださった恩人なれば、旦那様もきっとお会いになりたがるかと」
遠慮などしなくていいと言う大樹と小姓だったが、三村は少し困った風に笑って首を振る。
「恩人と言えど今回の件に関して俺は完全に部外者だ。護国を預かる六家の大事とくれば、名主殿とて耳に入れさせたくないこともあるだろう」
「そこまで気にすることもないと思うけど」
「それに堅苦しい場所は苦手なんだ。勘弁してくれ」
そう言われてしまっては大樹もさすがに無理強いは出来ない。仕方なく三村の要求を飲んだ。
「そうか……じゃあ、ちょっと行ってくるよ」
「ああ、その間郷の中を見学させてもらうよ」
そうして、ひらひらと手を振ってくる三村にひと時の別れを告げると、大樹は小姓と共に違道の屋敷へと向かったのだった。
押し明け方…夜明けの頃。
小者…雑役に使われる者。使用人。