其ノ一
山の端を朝影がなぞっていく。赤みの薄らいできた東の空は紫色に染まり、やがて柔らかな青に変わってゆくだろう。
雲雀のさえずりが遠くに響くのを聞きながら、大樹は僅かに歩調を強めると前を行く女に追いつき、改めてその姿を繁々と見つめた。
紫苑の重ねの着物を纏うその姿は非常に華奢に見えるが、しかしその背は大樹と殆ど変わらず、手の平の厚み程の差も無いだろう。
大樹とて然程体格の良い方ではないが、それでも己と比肩する身の丈は女にしてはかなり長身の部類に入るだろう。だというのに大女という印象を抱かせないのは、やはりその線の細さに所以するのか。
いや、それ以上に大樹が驚いたのは、女の器量だ。
仄明かりに照らされた顔は白鷺のように白く、そこへ頬と唇に差した紅が華を添えている。目蓋の淵を覆う長い睫毛の下に埋め込まれた瞳は墨色というよりも黒曜石のそれに近く、見つめればどこまでも吸い込まれそうである。ふと視線を動かした先、絹糸のような銀色の髪の影と着物の襟の間とから垣間見えるほっそりとした首筋が異様に艶めかしく、思わず息を飲んでしまう。
今更気付いたことだが、自分を助けてくれたこの女は、そこらでは滅多にお目に掛からないような美貌の女だった。
「どうかしたか?」
掛けられた声が不意を突いて耳朶に触れ、心臓が跳ね上がる。
決して疚しいことなど考えていた訳ではないが、後ろめたさを感じて思わず視線を逸らす。
「何でも。……えっと、そういえば、名前とか聞いてなかったなって」
冷や汗をかきながら大樹は咄嗟の思い付きを口にした。
女は特に怪しむ風でもなく、そういえばそうだったな、と指摘に頷くだけだった。
「俺は三村。そのまま三村と呼んでくれ」
「三村か……おれは志茂村の乙名志村大介の子、大樹。助けてくれてありがとう」
まだ礼も言っていなかったことを思い出し、大樹は名乗ると共に三村に謝辞を述べた。
気にするなと薄く笑う三村の口ぶりは、華奢なその風貌に反して随分と乱暴なものである。しかし不思議とそこに違和感はなかった。
「まあ、俺もまさかあんな場面に遭遇するとは思わなかったけどな。あの場所にはたまたま通り掛かったんだが、そこでお前が邪気に襲われているのを見つけてな。反射的に奴らを蹴り飛ばしたんだが、まあ、うまく撒けて良かったよ」
三村の言葉に、大樹は思わず、えっ、と呟く。
大の男、それを三人も一気に蹴り飛ばすなどどんな脚力だ。そもそもこの女にそんな脚力があるようにはどう見ても思えないのだが。
しかし、それよりも大樹の思考に引っ掛かる言葉があった。
「三村は邪気を知っているのか? いや、それより、どうして封印されている筈の邪気がこんなところにいるんだよ!」
大樹は思わず空いた右手で三村の着物の袖を掴んだ。二人の足が止まる。
「そんなもの、俺が知る訳ないだろう。志村と言えば邪気を封じた六つの家の一つなんだろ? だったら俺よりお前の方がよっぽど詳しい筈じゃないか」
呆れたように肩を竦めた三村が咎めるような口調で言う。
それには大樹も返す言葉が無かった。
自分だって分からない。何故封印されている筈の邪気が復活しているのか。
志茂村が襲われたのは、恐らく志村の持つ神器を狙ってのことだろう。神器は邪気に対する唯一絶対の武器であり、奴らにとっては最大の脅威である。
だがどうしても、それ以前、何故邪気が復活したのか、その部分だけは分からない。
大樹が黙ってしまったのを見てか、隣から溜め息混じりに疑問の糸口が紡がれた。
「邪気を実際に封じているのは八坂家。なら、八坂に何かあったと考えるのが普通じゃないか?」
「あ! そうか」
三村に言われて大樹は初めてその事実に気が付いた。溜め息がもう一つ吐き出されたことには気が付かなかったが。
「八坂の守る封印が破られ、邪気が蘇った……そう考えるのが妥当だろう。その八坂が今どんな状況にあるかは知らんがな」
眉を顰めて佳麗な顔を曇らせる三村は口元に指を寄せながら独り言のようにそう呟いた。
大樹も『正崇』を抱えたまま腕を組み頷く。
「そして蘇った邪気が志茂村を襲った、ってことか」
「大方そんなところだろう。八坂に封印されている以外にも邪気のような存在が無いとも限らないが、志村の神器を狙っているところからしてその可能性は低いだろうな」
「三村は邪気のことに詳しいんだな。どこかの家の者なのか?」
「まさか。俺はただの旅人さ。邪気の話は流れるうちに耳にして自然と覚えたんだ」
そう言う三村だが、本当にそうだろうか。それにしては随分と詳しいように思うのだが……
すると大樹の疑惑の目を逸らすかのように三村が突然話題を変えてきた。
「それより大樹、お前、何処へ向かうつもりだったんだ? これから行く当てはあるのか?」
思考に水を差された形にはなったが、三村の質問のお陰で大樹は大事なことを思い出した。
「そうだ。おれ、富谷郷へ行かなきゃならないんだ。違道の父上にこのことを知らせないと……!」
「ふむ、富谷郷か。それだと少し進路を外れてしまったな。西に回り過ぎた。まあ、それでも昼頃には着けるだろう」
「三村もついて来る気か? 助けてもらったのは本当に感謝してるけど、旅人っていうなら他に目的があるんだろ?」
「まあ、あるにはあるんだが……ま、そのぐらいの寄り道なら問題は無いさ」
三村は些事だとでも言うように軽く笑っているが、大樹には何故三村がそこまでしてくれるのかが解からなかった。
通りすがりで思わず助けた、だけなら分かるが、邪気や六大家と全く関わりの無い旅人がどうして何の縁も無い大樹の面倒を見てくれようとしているのか。そもそも本当にただの旅人か? それにしてはやけに邪気や六大家のことに詳しいし、随分度胸も据わっている気もするが……
何か裏があるのではないか……勘繰るように大樹が疑いの眼差しを向けていると、三村は予想外にも表情をふっと和らげ、その顔をずいと近づけてきた。
思わず身を引く。が、近い。目と鼻の先ほどに三村の顔がある。吐息すら絡まりそうな距離。鼓動が早まるのに呼吸が出来ない。
「なんだ、俺が一緒に行くのは何か不都合でもあるのか?」
「いや、そういうんじゃ、ないけど……」
「ん? じゃあ、なあに?」
ふっくらとした艶やかな唇が弧を描く。耳朶に触れた少し低めの声は酷く蠱惑的であり、また細められた目蓋の隙間から覗き込んでくる黒曜石の瞳が真っ直ぐ大樹の眼を射抜き、確と捕らえて放さない。
女が別段苦手という訳ではないが、しかしここまで接近されると流石に気恥ずかしい。それがこれ程の紅裙であるなら尚更だ。
どぎまぎするあまり二の句を次げないでいると、三村が項垂れると同時に大樹の肩に手を置いてきた。三村の肩は小刻みに震えている。
そして、俯いたその顔が上がった時、放たれるは天を突くような大爆笑。
「あっはっはっはっは!!! お前、単純過ぎ! くくっ、あっははは!!!」
「なっ! わ、笑うなよ!!」
大樹が顔を真っ赤にして反論するも、三村はまるで聞いていない。
ややあって笑いを収めた三村は漸く顔を上げ――相当可笑しかったらしく、眦に涙が浮んでいる――一息吐き出してから言葉を紡いだ。
「悪い悪い。あんまり初心なのでつい面白くてな。だがまあ、いたいけな青少年をそうからかうものではないか、くくく」
「からかってたのかよ……」
大樹は思い切り渋面になり、三村を睨み付けた。
すると彼女はそれまでの妖艶な雰囲気はどこへやら、さっぱりとした爽やかな笑顔をこちらに向けてきた。
「まあまあ、そう怒るなって。確かに目的は別にあるんだが、そう急ぐ旅でもなくてな。これも何かの縁だろうし、乗りかかった舟と思って、暫くの間は手伝ってやるよ」
「けど……」
と、反論を口にしようとした所で、それに、と三村が続ける。
「本当に邪気が復活したんだとしたら、六大家ばかりの問題どころじゃないだろう? 俺達庶民にとってもそいつは脅威に違いない。それに奴らはこの先もお前とその神器を狙って来る筈だ。少なくとも敵を前にビビっちまうような奴よりはよっぽど頼りになると思うんだが?」
それは己のことだろうか。思わずムッと口を尖らせたが、しかし事実であるのも確かだ。
富谷郷までそう遠くないとは言え、そこまでの間にまた邪気の襲撃を受けないとも限らない。戦慣れしていない大樹一人でそれを凌ぎきるのは些か不安である。
対して三村は女の身ではあるものの、度胸もあるし場慣れしている感がある。同行してもらえれば心強いのは確かだろう。
いまいち正体の判然としない女ではあるが、しかし危機を救われたことも事実である。
「……分かった。それじゃあ、お言葉に甘えることにするよ」
僅かな逡巡の後、大樹はふっと笑みを零して三村にそう言った。
そう、考えてみれば彼女は命の恩人なのだ。それを疑うなど非礼以外の何物でもないではないか。
それに今は国の一大事である。差し出された厚意を跳ね除ける理由は何処にも無い。
「よろしく、三村」
「ああ。大舟に乗ったつもりでいな」
……本当に、美人には勿体無い言葉遣いである。
そんなことを考えながら、手を差し出してきた三村に大樹も笑顔でそれを握り返した。
朝影…早朝の陽の光。
乙名…村の代表者。所謂村長。
紅裙…美女のこと。