其ノ三
「父上! 大変です! 峠から曲者が……!!」
大樹は玄関の戸を乱暴に開き屋内に駆け込むと同時に大声で叫んだ。
屋敷といえどその広さは高が知れている。これだけ騒ぎ立てれば父もすぐに聞きつけてくるだろう。
案の定寝所に赴くまでもなく大介は即座に居間に姿を現した。
「何事だ。何があった」
思いの外冷静な父の声に大樹は思わずいつものように言葉を飲み込んでしまいそうになる。
だが今はそんな時ではない。村の一大事なのだ。
切れ切れな息に若干喘ぎながらも大樹は事の仔細を父に告げた。
「峠に怪しい人影を見たんです! 青白い光のようなものを纏った者が、大挙してこちらに向かっています! すぐに皆を避難させないと……」
「親方様! 峠にクセもんが!! ……って、若! お二人揃ってどうなすったんで?」
大樹の言葉を遮るように響いた声に大樹と大介が一斉に戸口を向くと、慌てた様子で駆け込んできた森和が驚いたような表情をこちらに向けているところだった。
この親子が食事時以外で顔を合わせているのが余程珍しかったのだろう。……実際、ここ数年それ以外の時に二人が揃うことは殆ど無かったのだが。
思わぬ横槍に大樹が言葉を見失っていると、大介が話を進めてくれた。
「今大樹から事情を聞いていたところだ。峠に賊が現れたそうだな」
「え、ええ、そうです! しかもどうやらただの賊じゃねえんです! ありゃあ、生きてるもんじゃねえ……!」
「生者ではないと?」
「へえ! 青い火ぃみたいなのを体から発しとりましてな! よくよく見ると奴ら、どいつも白目向いてて、肌が溶けちまってる奴もいて、気味が悪ぃ! ありゃ化けもんの類に違えねえです!! もう村の端まで来ていて、囲まれそうで!!」
そこまで聞いた大介は顎に手を当てながら渋面になると、僅かな逡巡の後再び口を開いた。
「森和、すぐに村人全員を村の外へ避難させろ。誘導は任せるぞ」
「! へえ! しかし、親方様と若様は?」
「案ずるな。私達も後から行く。早く行け!」
「へ、へえ!」
発破を掛けられると森和は一目散に外へと駆け出していった。
その背姿を見送るや否や、大介に強く手を引かれ、大樹は屋敷の奥へと連れて行かれた。
「父上! 我々も早く逃げないと!」
「……。」
大樹の叫びに大介が答えることはなく、大樹はそのまま客間を抜け、その先の大介の臥所まで連れて来られた。
そこで漸く手を離してもらえた大樹は、掴まれていた手首にじんわりとした痛みを感じながら、押板に向かった父の背にもう一度呼び掛ける。
「父上!」
「大樹、お前に使命を授ける」
声に応えるでなく、遮るような父の言葉に思わず息を呑む。
そして振り返った父の手に握られていたものを見て、大樹は目を見開いた。
神刀『正崇』――志村の家宝であり、伝説の“邪気”を打ち果たすことの出来る唯一の武器である。
刀架に横たえられていた筈のそれを、大介は今、大樹に向かって差し出している。
その意味を測ることが出来ずにいると、大介は大樹の手を取って無理矢理それを持たせ、静かに、だが力強く告げた。
「これを持ち、富谷郷へ行け。まず違道に此度のことを知らせ、残る四家に遣いを走らせるよう言うのだ」
「待ってください! どういうことなのかおれには……」
「お前が峠に見たもの、それは恐らく邪気に支配された者達だ。鬼火を纏っている所からもそう考えるのが妥当であろう」
「邪気!? だけど、邪気は八坂家が封印を守っている筈じゃ……」
「そうだ。しかし、何らかの原因でそれが緩んだとしか思えん。兎角今は一刻の猶予も無い。恐らく彼奴らの狙いはこの『正崇』、そして使い手たる志村の人間の筈。ここで『正崇』を奪われる訳にはいかん。お前は『正崇』と共に違道の元へ身を寄せるのだ。良いな」
しかし大樹は反射的に首を振っていた。
承服出来る筈がなかった。
縋るように父の着物の袖にしがみ付く。
「ち、父上も一緒に! おれだけ行ったって役になんか立つ訳ないし、出来ることなんか……!!」
だが大介がそれを許すことも無かった。
大樹の袖を掴む手をゆっくり引き剥がし、肩にそっと手を置いてくる。
知らず俯いていた顔を持ち上げると、大介はこれまで見たこともないような優しく、だが力強い笑みを湛えて大樹を見つめていた。
「私まで行ってしまっては、敵を引きつけることが出来なくなる。大丈夫だ。老いさらばえた身ではあっても、そう簡単に後れを取るような父ではない」
「だけど……」
「行け、大樹。志村の名に恥じぬよう、その使命を果たせ。お前なら出来る」
さあ、と肩を押され促される。けれど大樹はそれ以上動けなかった。
手渡された刀は見た目以上に重い。それが、突如として降って湧いた使命の重圧に拍車を掛けている。
そしてそれ以上に、今ここで父を一人置いていくことに強い抵抗感を感じていた。
「父上……」
いつまでも躊躇いに二の足を踏んでいると、遠くから人の足音が幾つも聞こえてくるのが判った。
足音は次第にこちらに近付いてきている。
「大樹、急げ!」
まごついていた思考が大介の怒声で冷水を浴びせられたように一気に覚醒する。
そして次の瞬間には父に背を向け、走り出していた。
足音は玄関の方から聞こえた。そちらは駄目だと瞬時に判断し、真っ直ぐ勝手口を目指す。
転げるように戸から飛び出てからさすがに確認もせず迂闊だったかと思ったが、幸いそこに賊の影は見えなかった。
違道家の治める富谷郷があるのは白井峠を越えた向こう側である。
初めに青白い人影を目撃したのも峠だが、奴らは北側からやって来たようだった。富谷郷は西寄りにあるので、西回りに進路を取れば奴らとはぶつからずに済む筈だ。
大樹は『正崇』を抱え直すと敵に見つからないよう慎重に、だが急いで白井峠へと向かった。
*
「……大樹、頼むぞ」
一人屋敷に残った大介は素早く身支度を整えると太刀を携え、仁王立ちに立ちその人物を待った。
遠くに聞こえた足音は複数であったが、屋敷内に響くのは一人のものである。
その者は真っ直ぐにこの場所を目指し、果たして、その姿を大介の前に晒した。
行灯の明かりが男の端正な面差しを照らし出す。その顔に、大介は見覚えがあった。
「お前は、八坂の……!」
「お久しぶりです、志村殿」
驚愕に目を見張る大介を、男が淡々とした様子で見返してくる。
その金色の双眸から男の心情は読み取れない。
大介は混乱する思考を必死に抑えつけ、動揺を隠すように男を睨め付けた。
「何故だ、何故八坂の者である貴様がこの志茂村を襲う? 椿はこれを知っているのか? ……いや、それよりも貴様、何故邪気を伴っている? よもや盟約を裏切ったのではあるまいな!」
「……こうして今、貴方の元へ参じたこと。そして、貴方に刃を向けること……それが答えです」
男が既に鞘から抜き放たれた刀を正眼に構える。
大介は目蓋を閉じて苦悶の表情を浮かべたが、次の瞬間にはカッと目を見開き、鯉口を切った。
「若造如きが、そう簡単に討てる相手と思うな……!」
「……御免……!」
瞬間、薄闇の中を二条の剣閃が走った。
*
峠の道を駆け上がる。夜明けまではまだ遠く、足元を照らしてくれるのは朧月の仄明かりだけだ。
頻繁に木の根に足を取られながら、大樹は脇眼も振らず頂上を目指した。
(何で……何でこんなことに! 父上! 森和! みんな……!!)
いつの間にか溢れてきた涙と泥で頬はぐちゃぐちゃに汚れていたが、拭うことを考える余裕は今は無い。
一瞬だけ振り返って見た志茂村は、青白い光と赤い光が混ざり合い、真昼のように明るかった。
それがあの人影の纏う鬼火であるだけでなく、燃える家屋から立ち昇る炎の色であることに気付くまでに、そう時間は掛からなかった。
一体どれだけの村人が逃げ果せただろう。森和達は無事だろうか。父上は……
この大事に何も出来ず、ただこうして逃げることしか出来ない己の不甲斐無さが、無力さが口惜しくて堪らなかった。
眦が熱い。涙は止め処なく流れ落ちてくる。強く噛み締めた唇がぶつりと音を立てて裂け、口の中に鉄錆のような味が広がる。それでも、どうしようもない、やり場の無い悲しみが、憤怒が、止むことはなかった。
漸く峠の頂に辿り着く。
そこまで来てやっと足を止めると、一気に疲労感が襲ってきた。
思わず膝に手を着き、身を屈める。
ここに来てがくがくと脚が震え出した。息はすっかり上がり、暫く走れそうもない。
だがここまで来れば、そう簡単には奴らも追いついてはこれないだろう。そう踏んで、少しだけ休憩を取ろうと思った。
その考えが、甘かった。
『イ……タ……』
出し抜けに耳に届いた声に血の気がサッと引いていく。
慌てて身構えると、林の向こうから青白い光がぼうと覗いていた。
「あ……」
光はゆっくり、だが着実にこちらへと近づいてくる。それは次第に輪郭を帯び、やがて大樹の目にもその像がはっきりと認識出来るまでになった。
薄汚れたぼろぼろの風体の男が三人。いずれもその身に鬼火を纏い、手には激しく拉げた棒のようなものを携えている。
落ち窪んだ眼窩に埋め込まれた双眸は白濁し、どこを見ているのかも判然としない。だのに虚ろなその眼差しが確かに自分へと向けられていることが大樹には感じられた。
『イ、タ……シ、ムラ、ノ……』
『ゴテン、サマ、ショモウ……アレ、ヲ』
『ヨ、コセ……シン、キ……ヨコセ……』
くぐもった声を発しながら、男達がじりじりと距離を詰めてくる。神器を狙っているのだ。
――逃げなければ!
だが、頭では解かっているのに、体が一向に動こうとしてくれない。それどころか恐怖に竦み上がってしまい、立ち尽くしたまま体がガタガタと震えだした。
根の合わなくなった歯ががちがちと音を鳴らす。
不味い、不味い、不味い、不味い……!!!
早く逃げなければ捕まってしまう! 早く!!
懸命に心を奮い立たせようとするのに、その努力はまるで功を奏さない。
男達は既に一足一刀の距離まで迫っていた。
男達の腕が振り上げられ、高々と棒が掲げられる。
あの棒は、容赦なく大樹を打ち据え、やがて彼を殴殺せしめることだろう。
眼前に迫った最悪の未来に、大樹は神器を強く掻き抱きながらぎゅっと目を瞑った。
(もう駄目だ……!!!)
結局神器を守り切ることも出来ず、父の思いも虚しく神器は敵に奪われるのだ。
ああ、本当に、自分には何も出来ないんだ。満足に逃げ延びることも出来ず、父の期待に応えることも叶わない。
父上の言う通りだ。こんな自分に、“あの子”を助けることなんて不可能なんだ――
「ラギ……父上……ごめん……」
最後の言葉にしては冴えない台詞だ。だが今の自分には相応しいものだろう。
棒の振り下ろされる風切り音に、大樹は死を覚悟した。
――その時である。
一際大きな風切り音が耳朶を打ったかと思うと衝撃が足の裏を通して伝わってきた。
くぐもった響きの悲鳴が上がったのはそれとほぼ同時である。
一瞬何が起きたのか判らず、固く閉じていた目蓋を持ち上げる。だがそれでもすぐに状況を把握することは出来なかった。
視界の端で男達が折り重なって倒れこんでいるように見えたが、間髪入れずに腕を強く引かれた為はっきりと確認出来なかったのだ。
「こっちだ! 急げ!」
「なっ!?」
大樹の腕を引いて先導したのは、見たことの無い女だった。
高く結い上げられた銀色の総髪が踊るように風に靡いては月の光を反射して煌く。
着物の袖口から覗く腕は華奢だが、驚くほど力強く大樹の腕を掴んで放さない。
無理矢理引っ張られる形となっている為足が縺れそうになる。
何とかそれを立て直し、女の走る速さについていきながら大樹は当然の疑問を投げ掛けた。
「き、君は!?」
「話は後だ! 奴らが態勢立て直す前に逃げ切るぞ!」
振り向きもせず一喝され、大樹はそれ以上の言葉を失ってしまう。
全くもってこの状況が理解出来なかったが、少なくともこの女は自分を助けてくれたようである。
今は大人しく従うしかなさそうだと判断し、大樹は女に手を引かれるまま黙ってその後に続いた。
総髪…所謂ポニーテールのこと。男の場合はそうはつと読む。