其ノ二
「若さま、そろそろ帰らないと父ちゃんたちにおこられますよ」
「そうだな。帰るか。お前達も家に戻れ」
大樹が勝丸の言葉に頷き、周囲に纏わりついていた童達に向かってそう言うと、童達は元気良く返事をして口々に別れを告げ散会していった。
あの後、村の子供達が勝丸を追い回す大樹の姿を見て鬼ごっこをして遊んでいるものと思ったらしく、ぞろぞろと集まってきたのでそのまま皆で鬼ごっこをすることになったのだ。
気付けばすっかり日が暮れ、斜陽が西の空を燃やしている。いずれ辺りは夕闇に包まれることだろう。
誰彼時の風は春も半ばに差し掛かったというのに寒の戻りを思わせるような涼しさで、思わず袖口から手を差し込んで腕を擦るほどである。
勝丸を見下ろして、行くぞ、と声を掛けると、勝丸も大樹を見返すように見上げ満面の笑みで頷く。
剣の稽古のことは綺麗さっぱり忘れているらしい。
口ぶりこそ森和そっくりだが、使命を忘れ楽事に没頭してしまう辺りはやはりまだまだ子供ということだ。
それが可笑しくて忍び笑いを洩らしていると、ふと人の気配を感じて反射的にそちらに視線を向ける。
何の気も無く見た訳だが、思いも寄らないその人影に大樹はおやと目を見張った。
それは大樹よりも幾許か年嵩の若い男だった。
笠の影からちらりと飛び出た髪は夕紅に染まっており、足が少し長いものの結うには短そうである。羽織の下から覗くその腰には打刀を帯びていた。
見覚えの無いその風貌は、村の人間のものではない。旅人か何かだろうか。
前髪の間から覗く双眸がじっとこちらを見つめているので、大樹は咄嗟に何か困っているのだろうかと思った。
「旅の方ですか? 村に何か御用ですか?」
立ち止まって声を掛けると、それが意外だったのか男の肩が微かに揺らいだのが見えた。
男の様子に大樹はおやと思ったが、男が口を僅かに開きかけたのでそのまま続く言葉を待つ。
しかし男の声が大樹に届くことは無く、唇は再び一文字に引き結ばれてしまった。
大樹が訝しんで身を乗り出すと、男はそのまま踵を返し、一瞥をくれることなく峠の方へと去っていった。
「なんだ、あいつ……」
男の消えた方角を見つめながらそう独り言ちる。
一体あれは誰だったのだろう? 父の客人というには随分若いように見えたし、こんな時分に村を訪れる者も珍しい。
何より来訪者など滅多にいない辺鄙な土地柄である。大樹が不信に思うのも当然と言えた。
「若さま?」
はっとして視線を下ろすと、不思議そうにこちらを見上げる勝丸の姿が目に入った。
大樹は誤魔化すように勝丸の坊主頭を撫で、微笑みを浮かべた。
「何でもない。さあ、帰ろう。いよいよ森和が心配して騒ぎかねない」
うんと力一杯頷き返す勝丸の手を引き、漸く大樹は家路に就いた。
道中あれこれと話しかけてくる勝丸に適当に相槌を打ちながら、そういえばと大樹は思う。
(あの男の目……どこかで……)
笠の陰ではっきりとは見えなかったが、あの眼差しをどこかで感じたことがあるような気がした。
だがそれが何時、何処でのことだったかが思い出せない。
何とか記憶の糸を手繰り寄せようとするのだが、事ある毎に勝丸が袖を引っ張って注意を引いてくるので、大樹は思い出す作業を早々に放棄せざるを得なかった。
*
濃紺の空に溶けるようにぼんやりと浮かぶ朧月が、仄かに大地を照らす夜半。
蛙声が静けさの中に遠く響くのを聞きながら、大樹は一人畦道を歩いていた。
一度は床に就いたのだが、どうにも胸がざわついて眠るに眠れない。
少しでも気晴らしになればと、こうして夜風に当たりに来たのだが、暫く歩いてみても心のしこりは一向に消えそうに無かった。
春愁という訳ではない。思い当たる理由はきちんとあった。
「やっぱり、話しておくべきだったかな」
つと言葉を洩らす。誰に届くでもない、己に向けた独白である。
今日見かけたあの旅人のこと……杞憂ではあろうが、一応、父に伝えておくべきだったかも知れない。
本当は話しておこうと思ったのだが、しかし父の顔を見た瞬間紡ごうとしていた言葉が霧散して何と言えば良いのか分からなくなり、夕餉を取っている間も殆ど口を開けず、とうとう何一つ話すことが出来ないまま暇乞いも程々に臥所へと引っ込んでしまったのである。
いつもこうなのだ。父を前にすると途端に言葉に迷う。何を話せば良いのか分からず、結局黙りを決め込むかその場から逃げ出してしまうのである。
父とまともに会話というものをしなくなって一体どれくらいになるだろう。今では父よりも森和との方がよっぽどよく言葉を交わしている気がする。
せめて森和にだけでも伝えるべきだったのだろうが、彼も既に己の住屋へ戻った後だった為それも叶わなかった。
「明日にでも森和に聞いてみるか」
それでも遅くはあるまい。……父に尋ねる気は、もうすっかり失せていた。
大樹は父が苦手である。父の名声に劣等感を抱いているのもある。だが、理由はそれだけではない。
――あの娘のことは忘れなさい。私にもお前にも、どうと出来る問題ではない――
脳裏を掠める苦い記憶。あれは五年程前のことだったか。
あの頃はまだ大樹も父を尊敬し、憧れ、いつかは父のような剣士になろうと、その背を追い駆けていた。
大樹にとって父大介は偉大な先人であり、神仏にも等しいと言える存在である。
故にその言葉は大樹にとって絶対であり、否定など出来る筈がなかった。
だからなのか、“その出来事”があって以来、大樹は何をするにも身が入らなくなってしまった。
気力を奮い立たせようとしても父の言葉が頭を過ぎり、何をしても全てが無駄に思えるのだ。
自分には何も出来ないと、何をしても無駄なのだと、常にそう言われているような錯覚さえ覚えてしまう。
きっとそんなことはないと思ってみても、まるで雁字搦めにされたように心身が働こうとしないのだ。
そしてそんな大樹を見て大介は幻滅したように溜め息を吐く。
その目には失望の色が浮かんでいるのだろう。その口から情けない、腑抜けめという声が聞こえてくるようで、いつしか大樹は逃れるように父から距離を置くようになった。
落胆されるのが嫌ならば努力をすれば良いのだろう。だがそう思ってもその度にあの言葉が心を縛り付けて、結局悪循環に陥るだけであった。
どうにかしたくともどうすることも出来ず、ただただ時間ばかりが無為に過ぎてゆき、父との間に生まれた溝は深みを増してゆくばかりである。
二人きりの親子なのだからと、何度森和に宥め賺されただろう。それでも大樹の足は未だ踏み出せぬまま、あの時から一歩も動けないでいた。
ああ、情けない。こんな体たらくでは、父でなくともそう思って当然だ。
己のどうしようもなさに辟易しつつ、しかしどうすることも出来ない無力感に、知らず大樹は肩を丸め、深い溜め息を吐いていた。
……さて、いよいよ月も高くなってきた。そろそろ戻ろうか。
項垂れていた頭をよいしょと持ち上げ、両腕と一緒に背筋を伸ばす。
うだうだと考え込んでいても仕様が無い。何にせよ、どうにもならぬことに頭を悩ませても詮無いのだ。ならばきっぱりと諦めてしまった方が良い。
気を新たに、大樹は元来た道を引き返そうと踵を返した。その時だ。
「何だ?」
振り向き様に何かが視界を掠めた。惹かれるように視線を横手の山肌に向けると、木々の間から何やらぼんやりと光るものが見えた。
初めはぽつりぽつりとしか窺えなかった青白い燐光は瞬く間に帯状に拡がってゆき、大きな塊となってゆっくり峠を下っているようだった。
山火事か、と一瞬思ったが、しかし火事であるなら光は赤くなければおかしいし、火は下には向かわないものである。
よくよく目を凝らして見て、大樹はその正体に言葉を失った。
無数の人のような形をしたものが燐光を纏い、雁首を揃えて峠を下っていた。その手には各々何かが握られている。
はっきりと見える訳ではない。だが、それが異常な事態であることだけは明らかだ。
青白い人影の群れは真っ直ぐに村を目指しているようだった。
「こっちに来るのか!? み、皆に知らせなきゃ……!!」
こんな時分に起きている者などいない。皆寝静まっている頃だ。ということは、この異常事態に気付いている者はまだ大樹以外誰もいない筈である。
早く村の危機を知らせねばと、躓きそうになりながら大樹は畦道を駆け抜け、屋敷までの道のりを急いだ。
*
「楸様、襲撃の準備は整っておりますれば、いつでもご命令を」
峠道から無言で志茂村を見下ろし続ける主君を促すように、萍はその背を見上げながら皺枯れた声でそう告げた。
男は呼び掛けられても何も言わず、ただじっと目先の村を見つめ続けている。
先程まで目深に被っていた笠は既に脱いでおり、鳶色の髪が月明かりに照らし出されている。それが、夜風に流されるようにさらりと揺れた。
「楸様」
「出るぞ」
反応が無いことに苛立ちを感じ、催促を込めてもう一度名を呼んだのだが、あまりに淡的な返事過ぎて萍は一瞬意味が汲み取れずぽかんとしてしまった。
そして漸く男が号令を下したことに気付くと、慌てて部下に出撃の命を飛ばした。
「目的は志村の持つ神器の奪取だ、抜かるでないぞ! 邪魔をする者は女子供とて容赦するな!」
萍の先導で、足を止めていた“それら”は蠢きながら一斉に峠を下りていく。
その様子を傍観していた男は一度目を伏せると、ややあってから再び目蓋を開け、その後を追った。
打刀…長刀のこと。腰に佩く太刀と違い、帯に差す。
蛙声…カエルの鳴き声。人が眠りに落ちる頃に聞こえる。
畦道…田んぼの間に通っている道。
春愁…春に感じる、なんとなく憂わしい気持ち。
臥所…寝所のこと。