其ノ一
――やくそくだよ。
――うん、やくそく。
――ずっと、ずっとまってる。
――うん、まってて。かならず、らぎがこまったときはぜったいたすけにくるから……
五重奏 ~クインテット~
*
時は応永。貴族中心の風雅な社会が武士の台頭によって終焉を迎えてより二百余年、引き切り無しに続いた戦乱の火が漸く鎮まり、近代稀なる平穏が世を満たしていた時代のことである。
京は花の御所より遥か東、総州三国のうちの一つである下房の国。その南にある白井峠の麓に、志茂村はあった。
人口百余りの小さな村ではあるが、畑仕事で日を暮らす村人達の気質は穏やかで、春の日差しのように温かい。
世の誉れ高き戦人に憧憬を抱く若者にはそれを温いと言って疎む者も居はしたが、志村大樹はむしろその空気が好きだった。
今もこうして草根に寝転がってぼんやりと空を見上げているが、青草を食んで微睡む牛のようだと揶揄する者はいても咎め立てる者は一人だって居ない。向けられる眼差しは皆優しく、実にのんびりしたものである。
「良い天気だなあ」
呑気な口調でそう独り言ちる。
本来齢十七と言えば気炎も万丈、血気盛んな年頃であるが、この少年にそんな気勢など見る影もなく、ゆるゆると風に流され行く白雲の如くただ漫然と時の流れに身を委ねては日を過ごすばかりである。
蒼穹に浮かぶ日輪は柔らかく大地を照らす。ぽかぽかとした日差しの心地よい、この絶好の昼寝日和。
竹秋の陽気を肺一杯に吸い込むと目蓋を落とし、意識を少しずつ手放していく。
水面に揺蕩うような、また緩やかに夢に落ちていくような感覚が堪らない。
次第に現と夢とが混ざり合い、明るい世界から快い闇の中へ沈み掛けた、まさにその時である。
「こらっ、若さま! 真っ昼間からだらしのねえ!」
鈍い痛みが落ち掛けた意識を急速に引き上げる。
幼子の甲高い声と強かに打ち据えられた頭の痛みに、大樹は額を押さえて呻いた。
「痛い……いきなりなんだよ、勝丸」
眠り掛けていたのを無理矢理叩き起こされた所為で体が酷く気だるい。
のっそりと身を起こしては、木の枝を片手に胡乱な目で見下ろしてくる童を恨めしげに見上げた。
快活そうな面差しはまだ幼く、数えは十にすら満たないというのに、此方を諫めるような視線と大きく胸を反らした様だけは一丁前である。
「そんなところでゴロゴロしてるヒマがあったら剣術のけいこでもしたらどうなんで! 志村さまのごちゃくしが、なさけない!」
「何だそれ、森和の真似か? 一丁前に生意気な」
森和とは勝丸の父の名である。
大樹の父大介の側仕えであり、普段あまり言葉を交わすことの無い実父の代わりにいつも何かと口煩く小言を投げてくるのだ。
そこでこの勝丸のふてぶてしい口ぶりと来たら、まるで小さな森和である。
要らぬお小言と安眠を妨害された腹いせに大樹は勝丸の頬を抓り上げてやった。もちもちの柔肌は感触が良く、またよく伸びる。
「いだだだだ!!!」
「寝ている人を無闇に叩き起こして、ごめんなさいは?」
「うぎぎぎ、い、ご、ごめんにゃふぁい……」
「よし」
ぱっと手を離すと、勝丸は真っ赤になった頬を押さえて蹲った。小さな両目から大粒の涙が今にも零れ落ちそうである。
「若さまひでえや! ぼうりょく反対!!」
「先に人の頭を棒で叩いたのはお前だろう。自業自得だ」
「だって、若さまってばずーっとゴロゴロごろごろしてばっかなんだもん! 父ちゃんが言ってたよ、それでも志村のあとめをおつぎになる方かって!」
「……」
大樹はぎゅっと唇を引き結ぶと勝丸から視線を逸らした。
森和の口癖のようなものなのだ。その台詞は。
志村の跡目を継ぐ、ということがどういう意味を持っているのか。
勝丸はただ父の言葉をなぞっているに過ぎず、それを正しく理解している訳ではない。
志村大介と言えば総州の境を越えて遠く高く西国までその名の轟き及ぶ剣豪である。
若い頃は武者修行として京まで上がったこともあるらしく、その腕は一時的に番衆――将軍直属の軍勢のことだ――の末席に数えられた程である。
東国でも大変な騒ぎとなったあの内野合戦でも大いに武功を上げ、正式に番衆の一角を担わないかとの誘いも受けたそうだが、己は修行中の身でありまた帰する場所がある故と断った逸話は、大樹が幼少の頃からずっと森和から御伽噺のように語り聞かされてきたものだ。
幼い時分でこそ父の偉業と勇名に憧れたものだが、しかし、こうして成長した今はそんなものにまるで魅力を感じない。
むしろ、その重圧は大樹にとって息苦しいものでしかなかった。
「……剣なんか覚えたって使わないよ。戦乱が世の中から消えてもう随分経つ。剣を振るう場所も、相手も、今はもう居ないんだよ、どこにも。将軍様の権威だって磐石、鎌倉殿と各々の守護大名も良好な関係にあると聞くし、下房にしたって総州を雄樹殿が束ねてらっしゃるお陰で戦の種火など生まれることは無い」
「若さま、言ってることがむずかしい」
「お前に理解するのはまだ早いか。まあ、おれも人からの受け売りだけどさ。ともかく、この平和はずっと続くってことだよ。平和が続くなら、戦の為の力も要らないだろう?」
「でも、志村さまは“じゃき”をたおせる“しんき”の守り手なんでしょ? “じゃき”がよみがえったらこの世はたいへんって父ちゃん言ってたよ!」
「“邪気”……」
――志村の名には、二つの意味がある。
即ち剣豪志村大介の氏としての意。そしてもう一つ、“神器”の守人の一族としての意である。
邪気とは数百年前に下房の地に現れた恐ろしい悪鬼である。
邪気はその力で瞬く間に手下を増やし、あっという間に下房の地を支配していった。
それに歯止めを掛け、激闘の末邪気を封じたのが六人の神器の使い手達であり、後に六大家と呼ばれる神器の守人一族の祖である。
志村家はその六大家の一角であり、神刀『正崇』を代々受け継ぎ守護する家系なのだ。
神器は唯一邪気を打ち滅ぼすことの出来る武器として、今日まで厳重に守られてきた。
志村の跡取りとして、いずれは大樹もそのお役目を継ぐことになる。
だが、これまでの当主達がそうであったように、大樹が神器を振るうことは無いだろう。
何故なら、邪気は現在も堅く封じられているのだ。六大家の一つ、八坂家の者達によって。
その封印が守られ続ける限り、志村の神器もまた眠り続けるのだ。
「神器も、きっと使わないよ。邪気が蘇る訳ないんだから。ほら、剣なんて覚える必要がない」
そう言って、肩を竦めて笑ってみせる。
邪気が復活する筈が無いのだ。八坂が守っているのだから。
これからもずっと、それは変わらない。
だから、無駄に腕を鍛えることなんてないのだ。
……どうせ鍛えたって、自分に出来ることなど高が知れているのだから。
しかし幼い勝丸は大樹の言うことがまるで理解出来ないらしい。
小さな額に一生懸命眉皺を作っては、怪訝そうにこちらを見上げてくるのである。
「若さま、なまけたいからそんなこと言ってるんじゃないの?」
「うるさいな」
前言撤回。理解出来ないのではなく、大樹の言を信用していないだけらしい。
大樹は大げさにむっとして見せると、指をわきわきと動かしながら桃饅頭のような勝丸の頬に狙いを澄ませる。
不穏な気配を敏感に察知した勝丸は脱兎の如くその場から逃走しようとしたが、素早く追い縋った大樹の腕に呆気なく捕まってしまい、あられもない悲鳴が蒼天に木霊したのだった。
*
「しかしそちらの若殿は相変わらずのご様子ですな。ここに来る途中お見かけしましたが、以前と変わらず落ち着いてらっしゃる」
「いやなに、あれは落ち着いているのではなく、ただ不精なのだ。最近はすっかり剣の修行もさぼるようになってしまってな。情けないことだ」
一向にやる気を出そうとしない息子の体たらくを思い、志村大介は深く溜め息を吐いた。
向かいに座る富谷郷から来た使者は微笑ましそうに顔を綻ばせながら縁側の向こうを見つめている。
「まあ、世が世になりましたからなあ。今や戦を知らぬ世代もおるくらいです。のんびりとした気性に育つのは、何も悪いことではありますまい。忙しさは人を徒に不安に駆り立てるもの。あのくらい呑気な方が、今の世情には合うのでしょう。そこへきたらうちの若など、落ち着きの無いこと。志村の若殿の爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいですな」
「違道の倅も壮健か」
「ええ、それはもう、元気が有り余っているくらいですよ。この間も調子に乗って暴れた拍子に旦那様の大切になさってる香壺を割ってしまって、こっぴどく叱られておりました」
「そちらも変わらずなようで安心した。しかし、私としてはそのくらい威勢があった方が良いんだがな。あれは大人しすぎる。いずれ志村の跡目を継ぐものとしてはあまりに頼りない」
剣の修行を嫌う息子のことは常より大介の頭痛の種だった。
否、剣を学ぼうとしない姿勢以前に、自分との対話を避けがちなことの方が問題である。
もう随分長くあれとまともに会話をしていない気がする。あれは何かあると父よりもその側仕えたる森和に話題を持ちかけてくるので話す機会自体が殆ど無いのだ。
妻を早くに亡くし、男手一つで育ててきた身としては、一人息子のこの釣れなさは実に堪えるものである。
育て方をどこかで間違えたか。もしやこれが反抗期と言うものか? しかしそれにしては長すぎやしないか。よもや嫌われているのではあるまいな……
とそこまで至って漸く思考がすっかり脇道に逸れてしまったことに気付き、大介は咳払いして慌てて頭を元の方角へ戻した。
「志村の使命は神器を守り、有事にはそれを携え馳せ参じることだ。いつ“邪気”が復活しないとも判らぬ。故にその時に備え、腕を磨いておかねばならぬというのに、奴めはそれを理解しておらんのだ。まったく、嘆かわしいことこの上ない」
「それはそうでしょうが……あの年頃はなかなか、気難しい年頃ですからなあ。ともすれば誉れの高い父君の威光に眩しさを覚えて反発しておるのかも知れませんな」
「そうなのだろうか……いや、そうだとしても、お役目とは関係の無いこと。志村の総領としてあれが物心つく以前より強く言い聞かせてきたことなのだがな……」
「ほっほっ、天下無双と謳われた当代一の刀使いも愛息に関しては形無しですな」
「笑ってくれるな、真剣なのだ」
「ほっほっ」
人の気を知ってか知らずか、盟友たる違道の小姓はその柔和な面差し通りの朗らかな声を上げて笑った。
この男とも長い付き合いになるが、いくら齢を重ね顔に皺を刻もうと、その穏和な物腰とは裏腹に人のことをからかって面白がるのだけは変わらない。
抗議するように暫くむくれていた大介だったが、ちっとも笑うことをやめようとしない小姓に遂に根負けし、仕方の無い奴だと呆れ混じりに破顔した。
「いやはや、しかし本当に志村様方がお変わり無いようで何よりです。旦那様も随分気に掛けておりましたから」
漸く笑うのをやめた小姓が再び話題を切り出す。
それに追従するように大介も表情を引き締めて頷いた。
「私も違道のことは気にはなっていたのだ。折良くお前が訪ねてきてくれて有難い。彼奴の具合はどうだ?」
「お陰様で小康を保っております。……しかし、ここ最近どうにも気懸かりなことがおありのようで、こうして手前を寄越した次第にございます」
「神器の様子がおかしい、と言っていたな」
「はい、そのようで」
大介は思わず渋面になっていた。
「違道の預かる神器は神斧『曹恃』……それから、ここ数日何やら音のようなものが聞こえると仰るんです。まるで何かを知らせるような……志村様の方では、何かお変わりないですか?」
「うむ……実を言えば、私もそれが気になっていたのだ」
「ではやはり」
「うむ」
大介は半身を翻すようにして背後を振り返った。
押板の上に置かれた刀架に鎮座するそれ――神刀『正崇』は、今でこそ沈黙を保っているものの、時折思い出したように“鳴き”始めるのだ。
それが一体何を指し示すものなのか……はっきりとは分からないが、しかし大介はそこに予兆を感じずにはいられなかった。
「近い内に六大家へ召集を掛けるべきなのかも知れんな。最後に顔を揃えたのはもう三年も前のことだ。田賀谷殿の甥御が神器の守り手を継いでからというもの、一度も全員が集まったことは無い。良い機会かも知れん」
「いかさま。では、各家へもすぐに遣いを出さねばなりませんな。して場所はどちらに?」
「豊田でよかろう。あの地ならば何れからも遠過ぎることがないからな。違道には考太を名代として遣わすよう伝えると良い。病の身で山野を行かせるのは流石に忍びない。方々もその辺りは充分顧慮してくだされよう」
「ご配慮、痛み入ります。ではそのように旦那様にもお伝えしましょう」
「頼むぞ」
「御意に」
恭しく頭を垂れる違道の小姓を見つめつつ、大介は胸に宿った小さな懸念の火がゆらゆらと揺れるのを感じていた。
杞憂であればいいのだが――
口の中でそう呟くも、一度広がりだした不安の影は留まることを知らず心を満たしてゆく。
仄暮れてきた空を見上げながら、大介は吹き込んできた東風の驚くような冷たさに鬼胎を抱かずにはいられなかった。
花の御所…将軍の居所。室町殿とも。後世で言う室町幕府のこと。
総州三国…本来は上総(上房)、下総(下房)、安房を指す。
竹秋…春の異名。竹は春に葉を散らすことから。
内野合戦…明徳の乱のこと。明徳2年/元中8年(1391年)に山名氏が室町幕府に対して起こした反乱。
鎌倉殿…鎌倉公方のこと。
総領…跡継ぎのこと。長男あるいは長女を指す呼び方。
押板…今で言う床の間。
鬼胎…心配すること。