はちみつはにー
はーちゃんは7歳年上の向かいの家のお兄さんだ。高校生というやつで、受験生というやつらしい。この時期はナイーブで大変なのよ、ってはーちゃんママがこっそり教えてくれた。
ふわふわの茶色い髪に甘くたれた目尻と、いつもにこにこしている唇。はちみつみたいなお兄さん。お母さん同士が仲良しだから、お父さん同士も会社の同僚だからってたまに遊んでくれるんだ。同僚、って一緒に働いている人のことを言うんだって。大人って大変だ。いっつもお仕事してるんだから。
その点、高校生は自由なんだって。はーちゃんは内緒話するみたいにお菓子を食べながら教えてくれた。自由、ってどういうことだろう。好きなことたくさん出来るってこと?楽しいこと、いっぱいあるってこと?わたしが首を傾げてそう聞くと困った顔して甘い顔をもっとくずして笑うんだ。
みーんみん鳴くセミが、じりじりと肌を焼くお日様が、すごくうっとおしくて朝一番からプールに行って、冷たい水の中ではしゃぎ過ぎちゃってちょっとぐったり。ビニールバックの中身はどれも帰り道のほうが重たくなって、まだまだ暑いし、夏はあんまり楽しくない。小学生は自由だなぁ!なんてお父さんは笑うけど違うんじゃないかな。だって暑くてべたべたする夏は嬉しくないもん。
いっつも玄関でネコが伸びている古いお家。その角を曲がると私の家が見えるんだけど、その日私はそのぐったりしてるにゃんこに不思議そうな目で見上げられながらもそこから動けなかったんだ。
家の前に見たことない怖い顔してはーちゃんがしゃがみ込んでたから。家の前、って言ってもはーちゃんの家の前、なんだけど、おむかいさんだからわたしの家の前、でも間違ってないと思うんだ。
それで、そんな怖い顔したはーちゃんの前に、はーちゃんと同じ学校の制服を着たお姉さんが俯いて立っていた。はーちゃんはそのお姉さんをじっと見上げている。お姉さんは、泣いているみたいだった。だからわたしは、とっても暑いけれど、溶けちゃいそうだけど、家のクーラの効いた部屋でぐったりしたいけどじーっと静かに古いお家の玄関に隠れていたんだ。
「……それって、もう別れたいってこと?あたし、綺月に何かした?嫌われるようなこと、した?」
「んーん。してない」
「っ!じゃあ、なんで!一緒に居たくないって、そういうことでしょう?付き合っててそんなこと言われて、平気なわけ無いじゃん!」
「だろうね」
お姉さんの声は聞いているだけでなんか、心臓がぎゅうぎゅうするぐらいなのに、はーちゃんの声は全然そんなこと知らないよ、って感じ。ずーっとぶすっとしてたのに、最後のだろうね、って言った時ちょっとだけ笑ったの、なんでかな。
「俺さ、飽きたよ。お前、うっとおしいんだもん。どこいくの?なにしたの?誰といるの?なんで一緒にいてくれないの?って」
「そんなのっ!カノジョなんだから当たり前じゃん!」
「そーれーがぁ。うざいです、ってんの。わかる?わかんないか。分かってたら人の家まで押しかけてこねーよな普通」
「……ひどっ…いよ!」
はーちゃんはそのふわふわの髪をくしゃくしゃとかき回して、ヤンキー座りってやつのままぐったり項垂れた。
「もう、いい。別れて?俺、束縛とか気持ち悪くて無理なんだわ」
その声と雰囲気がびっくりするぐらい冷たかったから、わたしまで背中がぞわってした。お姉さんは一瞬息を止めるみたいに体を引きつらせて、そのまま走って行ってしまった。これは、あれだよ。修羅場、だよ。お母さんが見てたドラマでやってたもん。
石造りの塀にしがみついたままその様子を見守っていると、はーちゃんは大きく息を吐きだしてそのまま地面に座りこんだ。あ、だめだよ。汚いよ。
「……あっちもこっちも、顔さえ気に入ればふらふらしてるくせに。女こえーわー……」
じーっとよくわからない言葉をつぶやくはーちゃんを見つめていても、そのまま動こうとしなかったから、それで、なんでかな。お姉さんよりも?お姉さんと同じくらい?はーちゃんも悲しそうだったからわたしはにゃんこがびっくりして飛び上がるのにも目を向けずに家の前を目指して走った。
たたたたたた!って勢い良く走ったら、ちょっと顔を上げてビックリした顔してる。なんか、全然にこにこしてなくて、苦しそうで、痛そうで、嫌だったから代わりにわたしは胸を張って、いっぱいに笑ってあげた。
「はーちゃん、世界は、広いんだから。そんな顔して悩んでるだけもったいないんだよ!」
「……瑠衣おまえ、それ何情報なの」
「先生が言ってた!何億人もいる人間の、ほんの数人と喧嘩したからって、泣かなくていいって!」
「泣いてねーし」
はは、ってやっと笑ってくれたけど、困ったみたいな、仕方ないな、みたいなそんな顔がちょっとむかついて、そのふわふわの頭に勢い付けて抱きついてやった。ぎゅうぎゅうに絞めたら「プールの匂いがする」ってはーちゃんの篭った声が腕の中から聞こえた。
「小学生は自由だから、はーちゃんにもおすそ分けしてあげるよ!」
「意味分からん。…っく、ふっ。ガキは、強えなぁ」
ちょっと、震えてたのはわたしの体だろうか。はーちゃんの方だろうか。
「なぁーんてこともあったよね!小学生の情操教育に悪影響この上ない光景だったなー」
甘く垂れた目尻で、あの頃より短くなった黒髪で、苦く唇を歪めるこの人は。
「……よく覚えてんな、そんなこと」
「衝撃的だったしなー。修羅場だ!って思ってさー。これは最後まで見なくちゃ!って義務感に駆られたりして」
「うわーまじでクソガキだ」
「そんなクソガキにプロポーズ申し込んでくれたのは誰だっけ」
「……。」
とぼけた風を装って意地悪く口角上げて笑ってやれば、やっぱり変わらずこの人は仕方ないな、って風に笑ってみせるんだ。まだ、子供だと思われてる?
「俺だな。何をトチ狂ったんか、確かに俺だ」
「……ふーん」
そういうこと、言うの。
ぷい、と顔を背ければ噛み殺したような笑い声をあげるものだから悔しくなって顔を歪めた。
「自由を、分けてくれるんだろ?楽しいことも、嬉しい事も、俺と分け合ってくれるんだろ。先にプロポーズしてきたのは、お前のほうだよ瑠衣」
「……はぁ?」
「あの言葉に心打たれた、何億人もいる世界中の人間の内一人を、お前が受け止めてくれるんじゃないの?」
突飛な言葉に思わず顔をそちらに向けて目を見張る。やっぱり、このひとは。
「……そうだよ、世界は広いんだから。私一人ぐらい、はーちゃんを見ていてあげなきゃ」
「なっつかしー呼び方!」
甘い笑みに、柔らかそうな髪がいつかの夏の日みたいにお日様に照らされて茶色く透き通って見えた。
はちみつみたいな君と、ずっと一緒にいよう。