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月の花  作者: 雨咲はな
本編
6/34

act6.お医者様でも草津の湯でも



 拓海い~という軽い声に、億劫ながら目を開けると、部屋のドアから母親が顔だけをひょっこりと覗かせていた。

「……なに?」

 と、気だるく返事をする。頭を動かすとそれだけでガンガンと痛むので、起き上がったりはしない。大体、身体が重くて関節も痛いので、起き上がるのなんて不可能だ。というか別に不可能ではないが、イヤだ。

「女の子が、お見舞いにって来てるんだけどお~」

 拓海の母は、一体誰に似たんだか、普段から底抜けに言動が軽くて明るい。一人息子が風邪で高熱を出して臥せっている時くらい、深刻そうな顔をしてみたらどうなのか。

「……もー、そういうのは断ってって、何度も言ってるじゃん」

 本当はがあがあ苦情を言ってやりたいところだが、現在の彼にそんな気力はないから、口調はひどく弱々しい。あまり病気慣れしていない拓海にとっては、言葉を出すたび自分の口から出る息が熱いことにすら、相当メゲてしまいそうなのだ。

 だから、まったく誰だこんな時に見舞いだなんて迷惑な、という文句は、口には出さずに心の中だけでぶつぶつ呟くことにする。小学生の時から、バレンタインや誕生日というイベントごとに、よく複数の女の子達に自宅まで突撃されていた拓海だけれど(あまりに図々しいのは居留守を使った)、高校生になってまで、そんなことをされるとは思ってもいなかった。

「あっそう。いいの?」

 母はどこか楽しげである。拓海とよく似た面差しを持つこの母親は、とても四十代には見えない若々しさだが、その中身はほとんど子供のままなのだ。

「いいってば」

「はいはい、判った~」

 やっぱり軽い口調で請け負って、鼻歌を歌いながら、とんとんと階段を下りていく。階段下の玄関で、やって来た客に向かって話す声が、わざとらしく大きく二階まで響いてきた。

「ごめんねえ~、なんかね、あの子、会いたくないって言うのよ~。せーっかく『彼女』がお見舞いに来てくれたっていうのにねえ~。あーんな冷血な男と付き合うのは考え直したほうがいいんじゃないかしら。ねえ、鏡花ちゃん」

「ちょっとおっっ!!」

 拓海はがばりと布団を跳ね除け、ベッドから起き上がって叫びつつ、大慌てで階段を駆け下りた。



          ***



「……まったく、あの母親は……」

 本当に玄関先で帰ろうとしていた鏡花の手を引いて、再びベッドに戻った時、拓海はもう息も絶え絶えになっていた。ただでさえ熱が八度五分を超えていて、拓海基準では「重病」の範囲だったのに、走って怒って謝って(謝ったのは、もちろん鏡花にである)、更に熱が上がったのは間違いない。


 鏡花は学校から一旦自宅に戻り、着替えてから拓海の家まで来てくれたらしい。

 シンプルなカットソーと短めのタイトスカートが、すらりとした身体によく似合う。どういうわけか、手にA4くらいの封筒を大事そうに持っていた。


 適当に座るように勧めてから、パジャマ姿の自分はまたごろりとベッドに寝転がる。死にそうに疲れた。

「大丈夫? 辛そうだね」

 と、その様子を見て、ベッドのすぐ脇の床にきちんと正座をした鏡花が、声をかけてきた。

 その声も顔もいつもとあまり変わらないが、拓海は、ちゃんとそこに心配や気遣いの色が浮かんでいることに気がついている。気がついているからこそ嬉しくて、わざと情けなく眉を下げる。

「もうさあ、熱が高くて、頭が痛くて、身体が重くて、関節が痛いんだよ。咳も出るし、喉も痛い。俺、原因不明の重病で死ぬかもしれないよ、キョーカちゃん」

「うん、多分それは、間違いなく風邪の諸症状だと思うけど」

 ぐだぐだと甘えて不調を言い立てる声に、すっぱりと診断を下してから、鏡花は不意に、空いているほうの手を動かし、一瞬、ふわりと拓海の頬に触れた。

「……大分、熱いね」

 わずかに眉根を寄せて呟く。

「…………」


 いや待って。唐突にそんな滅多にないキョーカちゃんからの接触なんかがあると、俺だって平静でいられないんだけど。


 頬、という部分がまたどぎまぎしてしまう。単純に、額には冷却シートが貼ってあるから、鏡花はその場所に触れたに過ぎないのだろうと判ってはいるのだが、しかし。

「……駄目だ、キョーカちゃん、俺また熱が上がってきたみたい」

 熱とは違う理由で顔を赤くしてぼそりと言うと、時々ものすごく不思議な思考をする鏡花は、この時も拓海の言葉をまったく別の方向へ解釈した(らしい)。

「うん、ごめん。すぐに帰るから」

 と返され、は?! と目を剥いて驚く。どうしてそんな展開になるのか、さっぱり判らない。

「待って待って、なんで?! 帰っちゃ駄目でしょ。いやそりゃ風邪が移ったらいけないから、夜までいてとは言わないけど、もうちょっと俺の傍にいなきゃ駄目でしょ。お見舞いに来てくれたんだから」

 慌てて言うと、鏡花はどういうつもりか、「うん、ごめん」と、もう一度謝った。絶対に、また何か、おかしな勘違いをしている。

「病気の時に家に来るなんて、かえって気を遣わせて悪いなと思ったんだけど。陽介君から、どうしても今日拓海に渡さないといけないノートがあるって、頼まれて」

 と、持っていた封筒を差し出してこられ、ようやく拓海にもピンときた。


 成程、いつも遠慮がちな鏡花が珍しいと思ったが、陽介の意思が働いていたわけか。


 さすが親友、と感謝しないこともないが、自分のいないところで、友人とはいえ他の男と鏡花が会話を交わしていたかと思うと、それはそれでかなり面白くない。

「あ、うん、陽介のノートね。その辺にうっちゃっといてくれる?」

 どうせそのノートには、「今度オゴれ」としか書いてないに決まっているのだ。成績について非常にシビアなあの友人は、自分の授業ノートを他人に貸し出すことはしない、という厳格な決まりを中学時代から守り通している。病気で学校を欠席した友人に対しても、無論そのルールは遵守される。

 それでも、自分に向けられる鏡花の眼差しに、若干の非難が見える気がしたので、大人しく受け取って、寝ながらベッドの枕元近くにある台に置いた。置くというよりは、放り投げるという表現の方が近いような気もするが、それはしょうがない。

「そんなことよりキョーカちゃん、俺、しんどい」

 ここぞとばかりに同情を引こうと訴えるが、鏡花はあまり動じた様子ではなかった。

「じゃあまず、拓海は安静を心掛けた方がいいと思う」

「キョーカちゃんがキスしてくれたら治るかも」

「そんなことでは、風邪は治らないんじゃないかな、多分」

 そんな馬鹿馬鹿しい会話も、鏡花とすると楽しくて仕方ない。くすくす笑ってから、あれ? というように、拓海はきょとんとして、熱で腫れぼったくなった目を瞬いた。

「……そういえばお袋、まだ飲み物とか持ってきてないね。せっかくキョーカちゃんが来てくれたのにさ」

 拓海の友人が家に遊びに来たりすると、すぐに菓子と飲み物を運んできて、ちゃっかりべらべらお喋りをしていくという困った母が、今日に限ってちっとも現われない。

 拓海の言葉に、鏡花は一瞬躊躇ったあと、口を開いた。

「あの、おばさんなら、買い物に行くって」

「へ? いつ、そんなこと……」

 怪訝そうに言いかけて、口を噤む。そういえば、拓海が玄関から鏡花の手を引っ張って階段を上ろうとしていた時、母親がこっそりと鏡花の耳に、何事かを囁いていたのだったっけ。

 道理で、その時の鏡花が微妙に当惑した顔をしていたわけだ。どうせ、「私、いなくなってあげるから、二人で仲良くね」とか余計なことを耳打ちしたに違いない。まったくあの母親は……と思ってから、今更ながら重大な事実に気がついた。


 ……え。てことは。


「ええっ、ちょっと待って、ということはさ」

 心底驚いて、再びベッドの上でがばりと身を起こす。「拓海、安静にした方がいいよ」という鏡花の声も、耳に入らない。

「今、俺とキョーカちゃん、この家に二人きり?! 誰もいない家で、俺の部屋で、しかも俺ベッドに寝てて、その上雪菜の邪魔も妨害も入らない絶好の機会ってこと?! 嘘でしょ、今の俺、よりにもよって体調最悪なのに! なんだこれ、何の罰ゲーム?!」

「…………」

 悲鳴じみた拓海のその言葉に、当然ながら鏡花からの返答はなかった。

 返答はなかったが、少しだけ視線が下に向いて、頬が薄っすらと桃色に染まった。普段滅多に「照れ」というものを表に出さない鏡花だけに、ごく稀に見られるそういう顔は、もう気絶しそうなほどに可愛い。

 なんだこれ、拷問か、と、それを見た拓海の内心はヒートアップする一方である。ただでさえ熱が高いというのに、沸騰寸前だ。


 え、え、ちょっと待って、と拓海は必死で朦朧としつつある頭を働かせた。


 鏡花の了承を得て、手を取って引っ張り、押し倒す──というところまでは出来ないこともないと思う。思うのだが、この高熱時、そこから先へ進めるのかいささか心許ない、という点が大問題なのだ。愛情だけは溢れるほどあるのだが、男の身体というものは、これでなかなか繊細なのである。

 ああ、けど、これ以上はないというくらい整ったシチュエーションで手を出さないでいるなんて、それでもオマエ、男か?! と叱咤する声が聞こえる。もちろんそれは自分自身の声であるわけだが、まったくもってその通りだと思う。拓海だって、もうちょっと進展させたい気持ちは大いにあるのだし。

 いやいや、とはいえ、最愛の少女との「はじめて」で使用不能になってしまった日には、目も当てられない。というか、そんなことになったら、自分はもうこの先、一生立ち直れない。それもまた、自信がある。

 熱があるにしては感心するほどの高速でそこまで考えて、拓海は結局、がっくりとうな垂れた。


「……うん、キョーカちゃんに風邪を移しちゃいけないしね。今日は俺、大人しい男でいるよ」


 品のない内心の激しい葛藤については口には出さず、力なくよろよろとベッドに身体を横たえて、殊勝なことを言ってみる。もちろん、本当のところ、悔しくて切なくて、血の涙が出てきそうなくらいなのだが。

「だからキョーカちゃん、せめて手を握ってよ」

 と手を差し出すと、何が「だから」なのかと問うこともせず、鏡花は素直に両手で包むようにして、きゅっとそれを握ってくれた。なんとなく臨終の場面みたいだが、拓海は案外それで満足した。満足する自分が、ちょっと意外でもある。


 熱を持った手に、すべすべした鏡花の掌は、少し冷んやりとしていて気持ちよかった。

 ひどく安心した気分になって、ゆっくりと、目を閉じる。


「あー……、たまには風邪ひくのもいいかもね」

 我ながら、現金だ。

「……少し、眠ったら?」

 穏やかな鏡花の声が耳に心地いい。熱が高いせいか、ふわふわして、ぐるぐるして、本当に寝てしまいそうだなと思う。どうやら、自分で意識しているよりも、随分と身体は疲れているようだ。これだけ騒いで大声を出して、その上脳味噌も消耗させたのだから、無理もないかもしれない。

「キョーカちゃん、俺が眠るまでここにいてくれる?」

 目を閉じたまま子供のようにねだってみると、うん、と静かな返事が聞こえた。


 かなり、ほっとする。


 ……拓海がどんなに甘えたことを言っても、どんなにワガママを言っても、鏡花はいつも、大概のことはなんでもない顔をして、こうして寛容に聞き入れてくれるけど。

 それが「好きだから」という気持ちから来ているものなのか、ただ単に彼女の優しさから来ているものなのか、拓海にはよく判らない。

 判らないから、拓海はどんどん鏡花に甘えてしまう。どこまで許されるのか、試してみたい気持ちになってしまうのだ。


 ──どこまで自分を、受け入れてくれるのか。


 ふと、鏡花が身動きする気配を感じた。

 眠るまでここにいるって言ったのに──と思わず不満げにへの字になってしまった自分の唇に、微かな感触が当たる。

 一瞬掠めるように触れて、すぐに離れていってしまったけれど、それはとても、柔らかく、温かかった。


「…………」

 いつもの鏡花なら絶対にしなさそうな、そんなことをするのは、「キスしてくれたら治る」と言ったさっきの拓海の戯言を、きちんと心に留めていてくれたからなのだろう。

 鏡花のそういうところに、拓海の恋心も愛しさも煽られて、胸が痛いくらいだ。

 同じように、罪悪感も。


「……ゴメンな、キョーカちゃん」

 目を閉じたまま、謝罪の言葉をぽつりと呟いた。


 なにが? と問いかけてくる声は、凪いだ波のように穏やかで、かえって居たたまれなくなった拓海は、返事もせずにそのまま寝た振りをしてしまう。

 寝言だと思ってくれればいい。心の中だけで、何度も謝って。

 甘えてばかりで、ワガママばかりで、ごめん。

 君を試すようなことばかりして、ごめん。

 ごめんな。


 ……鏡花は、知らないから。

 拓海が、どれほど前から、鏡花のことだけを、ずっとずっと、恋焦がれ続けていたかということも。

 鏡花が中学の時に苛められたもともとの原因が、本当は拓海にあったということも。

 ──そのことを黙ったまま、鏡花と付き合っている拓海の卑怯さも。



 本当のことを知っても、君は、俺のことを受け入れてくれるかな。





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