act5.夕焼け小焼け
「ゴメン! キョーカちゃん、俺今日用事が出来て、一緒に帰れない!」
と拓海に言われ、その日、鏡花は珍しく一人きりでの帰宅となった。
拓海と付き合うまではこれが常態だったわけだから、特になんとも思わないけれど、寂しくないといえば、それはやっぱり嘘になるかもしれない。
電車に乗って、降りて、自宅までの道を歩く。駅から家までの間には、川沿いの土手に接した道路をずっと進んでいくことになる。この道は、春になると桜並木がずっと続いてなかなか壮観だ。まだ陽が落ちるまでにはたっぷり時間があるから、そこらで遊ぶ子供の歓声めいた声がちらほらと風に乗って聞こえてきた。
てくてくと歩く道のりが、いつもより長いような気がする。こんなにも自分の足音ってよく聞こえるものなんだと感心してしまった。
口数少ない鏡花を補うように、いつもは拓海が二倍も三倍もお喋りをして、自分を楽しませてくれていたのだなあ、と一人になって思い知る。まだ付き合い始めて数ヶ月、というところなのに、拓海の存在は鏡花の中でけっこう大きなものになりつつあるらしい。
……本当は、こんな風になってはいけないのかもしれないのだけれど。
拓海はいつでも鏡花を喜ばせること、楽しませることに心を砕いてくれているが、きっと自分の方は、まるで拓海を楽しませることが出来ていないだろうと思うからだ。自分がつまらない人間であるということは、鏡花は嫌というほど自覚している。
──だから、きっと、いつか遠くない未来には。
拓海は鏡花から離れ、自分ではない他の女の子を選ぶのだろう。
今現在、彼が鏡花を好きでいてくれるという気持ちを疑ったりはしないけれど、いつかはそういうことになるのだろうなということは、鏡花にとっては明らかな未来として見えていることだった。
それは、しょうがないことだとも、思う。
せめて──せめてその時、あの優しい男の子が鏡花の手を離す時、少しでも彼自身を責めたりしないでいてくれるといいな、と、鏡花が望むことといえばそれくらいだ。
もう、幼馴染としてもいられなくなってしまうかもしれないけれど、申し訳ないなんてことは思って欲しくない。そんな風に思わないで済むように、鏡花はその時だって、普段どおりの「なんでもない顔」をしてみせるから。
鏡花のあまり変わらない表情から、敏感に何かを読み取ることが出来る拓海も、その時だけは、周囲の人たちと同様に、鏡花の表情の裏にあるものに気づかないでくれるといい。
そこに、悲しさとか、寂しさとかがあることに。
***
不意に、か細い泣き声が耳に入ってきた。
顔を上げて(いつの間にか、下を向いていたらしい)前方に視線を向けると、小さな女の子が道の端で泣きじゃくっている姿が目に入った。ぐるりと周囲を見回しても、友達や、親らしき人物はどこにも見えない。
まさか高校の制服を着た自分を不審者だとは思わないだろうと判断して、鏡花は女の子を驚かせないようにゆっくりと声をかけてみた。一応、笑顔を浮かべる努力もしたのだが、その努力が実になっていたかどうかは、判らない。
「どうしたの?」
女の子は一瞬、びくりと身を竦ませたが、鏡花の顔を見ると、安心したように力を抜いた。よく、無表情なところを怖いとか不気味だとか言われる鏡花だが、それでも多分、若い娘という一点において、女の子は「安全」の判定を出したようだ。
「……おうち、わかんない」
たどたどしい言い方だったが、言いたいことはもちろん判った。
膝を折り、目線を女の子と同じにして、ハンカチで顔を拭いてやる。
ひっくひっくとしゃくりあげてはいるが、泣き止もうとする努力はしているらしく、その健気さが愛しかった。
「どうやって、ここまで来たの?」
「歩いて」
「お母さんは?」
「おうち」
……という、じれったいほど進まない会話をしばらく続けて、鏡花にも朧げながら事情が呑み込めた。
かな、と名乗った女の子は現在幼稚園の年長で、小学二年生の姉がいる。その姉が学校から帰るや否や友達と遊ぶと言って家を飛び出していき、自分もその中に入れてもらおうと慌てて後を追ったのだが、外に出たらもう姉の姿はなかった。姉とその友達の姿を探して、あちこちをうろついているうちに、かなは家への帰り道が判らなくなってしまった……と、いうことであるらしい。
自分にも妹はいるが、雪菜は昔から、ぼんやりした姉の手を引いてずかずか進んでいくくらいしっかりした子だったので、鏡花としてはそういうこともあるんだなと思うしかないのだが、女の子の不安と心細さは痛いほど伝わってきた。
母親にも言ってこなかったということだから、今頃この女の子の家では、大騒ぎになっているかもしれない。このまま連れて行ってあげるのが一番いいのだろうけれど、かなはまだ、自分の家の住所や電話番号などは言えないようだった。
「じゃあ、お姉ちゃんと一緒にお巡りさんのところに行こう。すぐに、おうちに帰れるよ」
そう言うと、かなは少し怯えるような顔をした。「お巡りさん」が怖いというより、これ以上未知の場所に行くのが嫌なのだろう。
「大丈夫、お姉ちゃんが傍にいるから。お母さんのところに連絡してもらおう、ね?」
ちいさな手を握って、励ますように言うと、かなはこくりと頷いた。
「お姉ちゃんにも、妹がいるんだよ。雪菜っていうの。かなちゃんと『な』が同じだね」
交番まではちょっと距離があるので、かなが不安にならないよう、手を繋いで歩きながら、鏡花は思いつくままどうでもいいような話を続けた。ここに拓海がいれば、かなを面白がらせたり笑わせたりすることも出来るのだろうが、なにしろ口下手なので、残念ながら鏡花にはそこまでは出来そうにない。
「……そういえば、お姉ちゃんも小さい頃、おうちに帰れなかったことがある」
ふと思いついたその話題は、幸い、かなの興味を引いたようだ。
「幼稚園の時?」と訊ねられ、「ううん、小学校三年生の時」と返したら、そんなに大きいのにおうちが判らなくなっちゃったの? と呆れた顔をされた。
──まったくもって恥ずかしい話なのだが、当時、鏡花にしつこく絡んで意地悪をしてくる男の子がいて、帰り道に待ち伏せされて叩かれたり、追いかけられたりしたことがあった。
その時も、ずっと追われて髪を引っ張ったりされて、すっかり怖くなってしまった鏡花は、どんどん角を曲がって走っているうちに、彼からは逃げられたが、家の場所も判らなくなってしまったのだ。
「お姉ちゃん、ちゃんとおうちに帰れた?」
「うん、帰れたよ。たまたまお巡りさんが見つけてくれて、家に連絡してくれたから」
かなはそれを聞いて、ほっとしたようだ。
「お母さんに、怒られた?」
「ううん、怒られなかった。きっと、かなちゃんのお母さんも怒らないと思う。怒ったとしても、それはかなちゃんのことを、ずっとずーっと心配してたからだよ」
「……うん」
幼いなりにいろんなことを考えているのか、かなは小さく頷いた。それを見て、鏡花はつい続けようとした言葉を、急いで喉の奥に呑み込む。
──お姉ちゃんの場合、妹と幼馴染の男の子に、めちゃくちゃ怒られたんだけどね。
***
かなと交番に到着したら、やはり母親から既に捜索依頼の電話があったらしく、すべてが呆気ないほどスムーズに進んだ。
警察官からの連絡を受けて飛んできた母親は、大泣きしてはいたけれど、かなを頭ごなしに叱りつけたりはしなかった。しっかりと母に抱きついて、わんわんと泣くかなを見届けて、鏡花は家に帰ることにした。
最後に、かなは泣きながら、可愛らしい手をぶんぶんと何度も振ってくれた。
再び、かなと会った土手沿いの道まで戻って来ると、もう陽は落ちかけていて、周囲は濃いピンク色に染まっていた。
子供の遊ぶ声は聞こえず、その代わりのように、夕飯の支度をしているらしい香ばしい匂いがそこかしこから漂ってきている。そういえば、今日も母は遅いのだった。早く帰って自分も夕飯の支度をしないと、雪菜がお腹を空かせているだろう。
そう思って、足を速めようとした、その時。
「キョーカちゃんっ!!」
という、怒鳴り声が背後から投げつけられた。
振り返ると、険しい形相をした拓海が、こちらに向かってすごい勢いで走ってくる。
彼は、鏡花のすぐ近くまで来ると、乱暴なくらいの激しさで肩を掴んだ。
「キョーカちゃん、何処に──何してたんだよ?! 俺よりもよっぽど早く学校を出たってのに!」
はじめて、拓海に真剣に怒られた。
いや……はじめてじゃない。以前にもあった、こういうことが。
気づいてみれば、拓海はもう制服ではなく、私服に着替えている。一度自宅に帰ったあとで、鏡花の家に遊びに行き、そこでまだ帰っていないと知らされて驚いたのだろう。
「おね……お姉ちゃん! 何してたのよ!」
次に息せき切って胸に飛び込んできたのは雪菜だった。こちらはもう泣いている。よっぽど心配をさせたのだと判って、鏡花は頭を下げた。
「ごめんね、二人とも。迷子を見つけて、交番に連れて行ったの。まさか、携帯が通じないとは思わなくて、確認もしてなかった」
この場所が圏外である筈もないし、充電切れでも起こしていたのだろうか。つい最近充電したと思ったのだけど──と思いながら謝ると、なぜか二人は揃って無言になった。
「……そうよ! ケータイにかければ済んだことじゃない! バッカじゃないの、拓ちゃん!」
「何言ってんだ! 雪菜が真っ青になって、『変質者に攫われたのかも』とか『車に撥ねられたのかも』とか『川に落ちて溺れたのかも』とか次から次へとろくでもないこと捲し立てたからだろ! そんで俺も動揺しちゃったんじゃん!」
「…………」
どうやら、慌てるあまり、まず携帯にかけてみるという単純な発想が湧かなかったらしい。
お互いに責任をなすりつけ合ったあとで、雪菜が脱力したように長い息を吐いた。
「あー、なんかどっと疲れた。もう時間も遅いし、今日のご飯は適当に済まそ、お姉ちゃん。あたし、先に帰って準備しとくから」
「え、だって雪菜……」
一緒に帰ればいいじゃない、と言おうとしたところで、雪菜がこっそりと耳打ちした。
「……今日は、しょうがないから拓ちゃんに譲ってあげる。拓ちゃん、休みもしないでずーっとこのあたり一帯を駆けずり回ってお姉ちゃんを探してたのよ。努力賞ね」
「…………」
今更のように拓海に目を戻すと、着ているTシャツがべったりと汗で張り付いてしまっている。もう夕方のこの時間、外は随分と涼しくなっているのに。
耳打ちの内容は聞こえなかったらしく、走り去っていく雪菜の後ろ姿に、「なんだあいつ、珍しい」と拓海は怪訝な顔をした。
「拓海、帰ろう」
声をかけると、うんと頷いて隣を歩く。こちらを見もしない拓海は、ちょっとバツの悪そうな顔をしていた。
「心配させてごめんね、拓海」
「……うん、心配はしたけど、キョーカちゃんのせいじゃないし。俺のほうこそ、怒鳴ってごめん」
もごもごと曖昧に言葉を濁す拓海は珍しい。俯き加減にしながら、片手をジーンズのポケットに突っ込み、もう片方の手で鏡花の手をぎゅっと握った。
かなよりも数段大きなその手は、少し汗ばんでいて、でも、かなと同じように温かかった。
「──ずっと前も、こんなこと、あったね。覚えてる?」
鏡花が迷子になった時のことだ。そういえば、あの時も綺麗な夕焼けが空を支配していた。
覚えてないだろうなと思いながら聞いたのに、拓海からは即座に「覚えてる」という返事が返ってきた。
「あの時も、雪菜と拓海に怒られた」
「……怒った、かな」
「うん、すごくね」
あの時も、雪菜は怒りながら泣いていたし、拓海はあちこちを汗だくになって探してくれていたのだっけ。自分がかなに向かって言った言葉を思い出す。
怒るのは、ずっとずーっと、迷子になった子供を心配し続けていたからだ。
拓海は肩を竦めた。
「ま、あの時迷子になったのだって、キョーカちゃんのせいじゃないんだけどね。あのガキはさ、キョーカちゃんのことが好きだったんだよ。だからしつこく追い回して、意地悪したんだ。加減てやつを知らないあたり、子供だよね」
そうなのかなあ、と返事をしようとして、鏡花は首を傾げた。
……私、迷子になった理由は、誰にも言わなかった筈なんだけどな。
そういえば、迷子になった日を境に、ぴたりと男の子の意地悪も止んだのだった。不思議な話ではある。
「なんかね、私って、幸せかも」
ぼそりと呟くと、拓海がやっとこちらを向いた。からかうような瞳をしている。
「そりゃそうでしょ。俺にこんなにも一途な愛を捧げられてさ。幸せもんだよ、キョーカちゃんは」
「うん」
「…………」
素直に頷いたら、反応がなかった。
あれ、なんかまずいことを言ったかな、と思いながら隣を窺うと、拓海はこちらに向けていた顔を、また前方に戻してしまった。顔が赤く見えるのは、夕日に照らされているからなのだろうか。
拓海はそれきり何も言わなかったけれど、握られた手の力がぐっと強まるのだけは感じられた。
鏡花は、そっと、その手を握り返す。
……この手がいつか、離れていってしまうのかもしれないし、隣を歩くのは、自分でなくなるのかもしれない。
そう思うと、胸がぎゅうぎゅうと苦しいくらい痛んだけれど、それを顔に出すことはしなかった。
感情表現が苦手であるのを、この時ほど感謝したことはない。