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月の花  作者: 雨咲はな
本編
23/34

act20.上を向いて歩こう(後編)



 もしもその時、鏡花が、風間に対して怖れを見せたり、逃げようとしたり、怒ったりしたなら、その場の状況は、おもに悪い方向へと、転がっていたかもしれない。

 風間はそれくらい頭に血を昇らせていて、ちょっとのきっかけ、背中を押す何かがあれば、暴発する一歩手前にいた。

 ……けれど、彼女はやっぱり少し困ったような顔をしただけで、そのうちのどの行動も選択しなかった。


「違うの」


 慌てることも叫ぶこともなく、口から出した声も、いつもと同じ、穏やかで落ち着いたものだ。

 風間はそれを耳にして、昂揚していた気分が不思議と静まっていくのを感じた。返された言葉が、自分が考えていたものとは全然違っていた、という理由もあっただろう。

 ともあれ、頭が冷めたら、今度は自分がとっているこの体勢を恥ずかしく思う意識も戻ってきて、「違うって?」とぶっきらぼうに問い返しながら、壁に突いていた手を外し、彼女から身を離す。内心では、かなりホッとして。

 鏡花はそんな風間を正面から見つめ、口を開いた。


「違うの。ごめんね、私、上手に言えなくて……あのね、私が拓海と付き合うのを決めたのは、土下座されて頼まれたからじゃ、ないんだよ」



          ***



 その春の日は、爽やかな青色が空いっぱいに広がる好日で、ぽかぽかとして暖かくもあり、桜は満開、競って咲き乱れる花々の甘い匂いで、むせかえるほどだった。

 よくあることだが両親は仕事、妹は部活と不在で、鏡花は一人で家にいた。そこにその訪問者は突然やって来たのだ。真新しい制服を身につけて。


 グレーの上着と、濃紺のネクタイは皺一つなく、すらりとした体型によく似合ってもいたけれど、彼と玄関先で二人向かい合ったまま、鏡花はかなり当惑した。


 その制服が、自分が通う高校のものであることは一目で判る。そういえば、今日は入学式だっけ……ということも思い出した。しかし、どうしてまたそんな日に、こんな格好のまま、この家にやって来たのかが、まるで判らない。

(同じ高校に通うことになったって、わざわざ挨拶に来てくれたのかな)

 と、頭の中は混乱しつつも、そんな呑気な結論しか導き出せなかった。

 玄関先に固い表情と態度で立った拓海は、鏡花と真っ向から向かい合い、同じように固い声で、


「キョーカちゃん」

 と名を呼んだ。


「……はい。何でしょう」

 その拓海の表情があまりにも真剣であったので、鏡花も思わず姿勢を正し、大真面目に返事をした。もしかしたら、ハタ目にはかなり滑稽な図であったかもしれない。

 拓海はそんな鏡花を笑いもせず、それどころかいっそう整った顔立ちを厳しく引き締め、いきなり、がばっとその場に手と膝をついた。掃除はしてあるとはいえ玄関の土間、新品の制服が汚れるのもお構いなしだ。

「拓海?」

 その突然の行動に、鏡花はもちろん驚いた。顔には出なくても、ものすごく、驚いた。──つい、今までは出さないようにしていた昔の呼び方を、口にしてしまうくらい。

「どうしたの? あの、制服が汚れ」

「キョーカちゃん」

 鏡花の言葉を遮るように強い口調で拓海はもう一度名を呼んだが、顔を上げはしなかった。鏡花から見えるのは、子供の頃よりひとまわり大きくなった、彼の頭のてっぺんくらいだ。

 うろたえる鏡花に、拓海はその姿勢のまま、低い声ではあったが一息に言葉を吐いた。


「……お願いだから、俺と付き合ってください」


「…………」

 鏡花は無言になり、次いでゆっくりと膝を曲げ、しゃがみ込んだ。それでも、土間よりは一段高い場所にいるので、そこでぺったり身を低くしている拓海の顔を覗き込むのは不可能だった。

 彼が今、どんな顔をして、どんな表情をしているのか、まったく見えない。

 手と膝をつき、顔を伏せて、拓海は身動きもしない。


 ──その姿は、まるで、許しを乞う罪人のようだ。


「……どうして?」

 と、鏡花はなるべく穏やかに訊ねた。

 小さな頃から幼馴染という関係を続けていた自分たちではあるが、ずっと近しい位置にいたわけではない。ここ数年離れていた相手にそんなことを言うのなら、相応の理由があるのだろうと思ったからだ。

 からかったり、ゲームのように楽しむ目的で、こんなことを口にする子ではないと鏡花は思っているが、断言できるほど、今の自分が、拓海のことを知っているわけではないことも自覚している。それほど、現在の二人の間は希薄になってしまっていたのだ。

 それなのにどうして今になって、という違和感ばかりがあった。

「…………」

 鏡花の質問に、拓海は少しの間沈黙した。

 それは、適当な口実を考えたり、事情を口に出すことを躊躇うというよりも、彼の中で、最も自分の心と折り合う言葉を捜しているように、鏡花には感じられた。

 そうして、拓海は顔を上げないまま、はっきりと言った。


「──今のキョーカちゃんの、いちばん近くにいたいから」


 その時、拓海の口から出たのは、「好きだから」という理由ではなかった。実際に付き合うようになってからは、拓海は、何度も何度も鏡花に向かって言ってくれるようになったが、交際を申し込むにあたって、彼は、その言葉を選ばなかった。


 けれど、その率直で真摯な言い方は、なぜか、鏡花の胸に真っ直ぐに届いた。


 多分、「好き」という、考えようによってはあやふやな、掴みどころのない言葉では、きっと耳には甘いかもしれないけれど、鏡花の心までは動かなかっただろう。

 そう言われていたなら、鏡花はもしかしたらこの時、拓海の申し出を断っていたかもしれなかった。土下座されようとなんだろうと。

 実は、鏡花がこういうことを言われたのはこれが初めてではなくて、今までにも、「好きだから付き合って」と男の子に言われた経験もあった。それを断っていたのは、「好き」ということと、「付き合う」ということの意味が、鏡花には今ひとつ、ぴんとこなかったからなのだ。

 でも、拓海の言葉を聞いて、その時の鏡花はなんだかひどく、納得してしまった。

 どうしてなのかは自分でもよく判らないのだけれど、ああ、そうなんだ、という気持ちがあって、その言葉が自分の中のあるべきところに、すとんと収まったような気がしたのである。

 だから、鏡花は頷いた。


「……いいよ」


 どうして拓海が唐突にそんなことを言い出したのかはやっぱり判らないままだったし、自分の中には困惑もまだ残っている。

 けれど、その時の鏡花にとって、それは自然な流れで出てきた答えだった。

 その返事に、拓海がばね仕掛けのように顔を跳ね上げ、鏡花を見た。

 ……そして、笑った。

 ものすごく、嬉しそうに。



          ***



「私ね、昔から、人付き合いが上手に出来なくて。誰かを楽しませたり、喜ばせることが苦手だった。むしろ、怒らせてしまうことのほうがよっぽど多くて、そういう自分が、すごく、情けなかった」

 鏡花は淡々とした口調で言ったが、その顔には、少し影が差している。きっと、器用に自分を表現することが出来ない彼女は、昔から誤解を招きやすいタイプだったろう、というのは風間でも簡単に推測できることだった。彼女の資質の一面だけを見て、突き放すような人間は、現在の彼女の周囲にもいる。

 大人しく無口な鏡花に対して威圧的になるような奴も多かっただろう。自分よりも弱そうな者を見つけると、従わせたくなるのは強者の性だ。

 ある時は力で、ある時は言葉で、ある時は怒りという感情で。

「…………」

 そこまで考えて、風間はいたたまれず視線を落とした。


 ──それはまるきり、さっきの自分のことじゃないか、と思ったのである。


「そんな中で、いつも私に笑いかけてくれていたのが、拓海と妹。二人はいつでも私に優しくて、慰めてくれたり、庇ってくれたり、時には私のために怒ってくれたりもした」

 目を細める鏡花は、遠い過去に思いを馳せているようだった。「怒ってくれる」、なんて言葉を自然に出してしまうことの切なさを、きっと、自分自身はまったく判っていないのだろう。鏡花はどうも、自分を軽んじる傾向がある。

「だから、昔から、私にとって、二人は大事な大事な宝物だったの。妹は活発で愛らしくて、自分の意見をはっきりと言える子だったし、いつも笑顔の拓海は、人への思いやりも持った、とても優しい子で、周りにいるすべての人たちから愛されてた。──私、そういう二人を見るのが、とても好きだったし、見ているだけで、幸せだったんだよ」

 ふんわりと微笑む鏡花は、本当に幸福そうだった。

 彼女が言う「昔」の中で、不器用な自分はつらい思いだってたくさんしたのだろうに、そのことは、彼女の口から一言も出ることはなかった。

「ずっとずっと、二人には笑っていて欲しかった。──ある時期から、拓海は急に私から離れていって、それは、少し寂しいことだったけれど、それでも、あの子が笑っているのを遠くからでも眺めて、私は満足だった」

 それは本当に、「少し」寂しいという程度だったのか、そして本当にその状態で満足だったのか、風間には判らなかった。

 鏡花は口許に浮かんだ淡い笑みを、決して動かそうとしなかったからだ。


 ……こうやって、彼女はいつも、自分の感情を隠してきたのだろう、と風間は思った。

 無表情の裏に、微笑みの後ろに、ひっそりと。

 ずっと自分の傍にいた、「宝物のような」幼馴染が、いきなり遠い存在になってしまっても、寂しさも、痛みも、傷ついた心も押し隠して。


 ──笑っていてね、と。


「拓海は、多分、またいつか、私から離れていくんだと思う」

 と、鏡花はまるで決まりきった事実を述べるように、さらりと言った。

「え……どうして?」

 驚いて訊ねる風間に、人は離れていくものだから──と、聞こえないほど、小さな声で答えた。

「でも、少なくとも、『今』の私のいちばん近いところにいたいって、拓海は言ってくれた。私もその時、また、拓海の笑顔をいちばん近くで見ることが出来たなら、それはなんて幸せなことなんだろう、って思ったの。拓海がそう望んでいてくれる間は、私はその場所にいたい、って」


 だから、付き合うことにしたんだよ、と言って、鏡花は風間に笑いかけた。


「……うん」

 その笑顔は、自分が望んでいた種類のものではなかった。そのことに、胸がちくちくとしたのも事実だけれど、鏡花が本当に一生懸命誠実に、自分のことを語ろうとしてくれているのは痛いほど感じられて、風間はそう頷くしかない。

 どこかほんの少し歪んだ固定観念が、鏡花にはあるようだと思ったが、それは彼女の心の奥に関わる重要な部分のようで、自分に口出しできることじゃない、ということも風間には判った。悔しいけれど、判ってしまった。


 それを変えられる──あるいは、真っ直ぐに直すことの出来る人間は、今の時点では一人しかいないのだ、きっと。


「……鏡花ちゃんは、あいつのことが、好きなんだ」

 確認するようにそう言えば、鏡花はわずかに考えるような顔をした。

「正直言って、以前まで、好き、っていうのは、よく判らなかったの。でも私は、拓海が笑ってくれると嬉しくて、いないと寂しい。拓海のこと、私はまだよく知らないところもあって、気づいてないところも、多分たくさんあるんだと思う。私はこれから、それを知っていけたらいいなと思うし、気づく努力をしたいとも思うんだよ」

 こんな時でも、きちんと考えながら答えようとしている鏡花の姿に、風間は眩しい思いで目を眇める。

 泣きたいような気分はもちろんあったが、それでもそれは、先ほどの暗い感情とは確実に違っていた。

「なので、土下座をされても、風間君とはやれません」

「……あのね、鏡花ちゃん」

 意味が判っているのかいないのか、そんなことを生真面目に断られ、風間は顔を赤くした。彼女のこういうところも、彼の好みに合っていて、本当に困ってしまう。

 ──と、その時、バンッと喧しい音を立て、校舎の階段へと通じる屋上のドアが勢いよく開いた。


「キョーカちゃん!!」


 と怒鳴りながら、血相を変えて飛び込んできたのはもちろん拓海だ。風間はうんざりした表情をし、鏡花は目を瞬いた。

「どうしたの?」

 と問う彼女の声は、どこまでものほほんとしている。わざとなのか天然なのか、まったく判らない。風間は噴き出すのを辛うじて堪えた。

「ど──どうしたのって」

 拓海も鏡花の態度に拍子抜けしたことは明らかだったが、すぐにつかつかと近寄ってくると、鏡花の腰に手を廻して、じろりと風間を睨み付けた。母親を独占する三歳児か、という突っ込みが喉元まで出かかるが、我慢する。

「和葉さんが、自分のいない間に風間にキョーカちゃんを連れ出された、って教えにきてくれたんだよ。それで俺、あちこち駆け回って探して……。大丈夫だった? キョーカちゃん。風間に何も変なことされなかった?」

 痴漢扱いすんな、と風間は憮然としたが、それを堂々と口には出来ない事情もあるのは確かなので、こっそりと目を逸らす。

「一年坊主が、上級生を呼び捨てにするなよな」

「じゃあ、『風間の馬鹿』に、変なこと」

「てめえ、喧嘩売ってんのか!」

 風間は声を荒げたが、鏡花の方は「変なことって……なに?」と不思議そうだ。ものすごく判っていないのか、それとも判っていてとぼけているのか、その表情からは、やっぱりまったく何も読み取れなかった。

「風間君とは、ここで話をしてただけだよ」

「そうだ、その通りだ。まったく人聞きの悪い」

 とか言いつつ、ちょっと視線が明後日の方向に流れてしまう自分は、鏡花に比べたらまだまだ修行が足りない。


 拓海は訝るように風間の顔を覗き込んでいたが、「……でも、もう話は終わった」と風間が呟くのを聞いて、ようやく表情から険を消した。


「じゃ、キョーカちゃん、教室に戻りなよ。こんな寒いところで上着も着ないで、風邪ひいちゃうよ? 今日は寒いのによりにもよってこんな風の強い場所で上着もなく」

 拓海は鏡花に向かって優しげな声を出し、あからさまな嫌味を繰り返した。ほんっとに、可愛くない下級生である。

「あ、うん。でも……」

「俺も、すぐあとで行くからさ。先に行ってて」

 にっこりと笑って拓海が言うと、鏡花はちらりと風間の方を見て、頷いた。心配するかなと思ったのだが、意に反して、鏡花は案外あっさりとその場から退場した。

 ……ひょっとして、鏡花の「誤解」は、まだ続いてんじゃないか、とその態度を見て、風間は不安になった。そういえば、結局、自分は鏡花に「好きだ」と言わずじまいだったわけだし。


 じゃあ何か、告白もしないのにフラレて、その上相手はフッた自覚もないってか。けっこう最低だ。


 鏡花が去っていくと、拓海はおもむろに風間の方に向き直った。風間はめんどくさげに片手を振る。

「……なんだよ、もう殴り合いなんてしないぞ。痛いのは嫌いなんだ」

「──もう、諦める気になった?」

 問いかけられて、口を結ぶ。

 少し黙ってから、ふっと息を吐いた。我ながら軽い息だったのでほっとして、ついでに口許を上げた。

「なんかなあ、俺、ますます鏡花ちゃんのこと好きになっちゃってさあ」

 素直に言うと、拓海が絶句して、すぐに眉を吊り上げた。ホント子供だよなあ、と風間はその顔を面白くない気分で眺める。


 こんな男の、どこがいいのかねえ。


「けど、まあ、納得した。諦める、ってのとは違うけど、判った。理解した」

「理解?」

「腑に落ちる、っつーか。今までも頭では判ってたつもりだったんだけど、やっと心から判ったっつーか。……世の中には、自分がどんなに想っても頑張っても、どうしようもないことがあるんだってこと」


 どうしようもない──しょうがない。

 自分がどれほど鏡花のことを好きでも、鏡花にこちらを向く気がないのだから、しょうがない。

 鏡花のあの笑顔が拓海にしか向かないのも、鏡花が求めているのが拓海の笑顔だけなのも、しょうがない。

 風間にとって、他の女の子にいくら笑ってもらっても、それではやっぱり駄目だったように、自分がどれだけ笑って見せても鏡花には駄目なんだろう。

 ……それは、しょうがない、としか言いようのないことなのだ。

 しょうがない、と溜め息をついて諦めるには、それはあまりにもつらく苦しく悲しいことで、これからも自分は拓海に微笑む鏡花を見ては、胸を痛め続け、少しずつ血を流していくのだろう。風間は、遠くから拓海の笑顔を見て幸せになるような鏡花の心境には、とてもじゃないけど至れない。

 ──でも、それはしょうがないことなんだと、理解することは出来た。ささやかな一歩かもしれないけれど、前進には違いないと思う。多分。

 きっと、恋なんてもんは、どれもそういうもんなんだ。同じ気持ちを双方向に向け合えた奴がたまたまラッキーなだけ。そうでない奴なんてのは実は星の数ほどいて、そんな連中は、華やかな舞台の影に一人きりで立ち、「しょうがない」と涙を流したり、苦笑いするしかないんだ。

 不公平だよな。不公平だけど、しょうがないんだよな。

 選ばれなかったのは、自分のせいでも、相手のせいでもない。


「あーあ、『大人になる』って、結構つまんねえなあ」

 ぼそりと吐息混じりに呟くと、拓海は嫌そうに眉を寄せた。

「風間君は全然、大人になんてなってないでしょ。大人になったってんなら、すっぱりとキョーカちゃんのことは諦めて、俺とキョーカちゃんの幸せを草葉の陰から祈っててよ」

「勝手に殺すな。無理無理、俺、お前のことキライだし、これからも機会あるごとに邪魔してやろう」

 かなり本気でそう言うと、拓海が更に嫌な顔になったので、風間は胸がせいせいした。これくらいの意地悪は許される、絶対。

 それでも、報われない片思いを続けるなんて趣味ではないから、風間はこれから、少しずつ鏡花のことを諦める努力を続けることになっていくのだろう。他の女の子に目を向けたり、遊んだり、勉強に精を出したり。

 そうやって、傷口を塞ぎつつ、気持ちの整理がつけられたなら、その時は、拓海の言うように、鏡花の幸せを祈るのも、悪くない。


 隣にいるのが誰であろうと、あの子が、いつまでも笑っていられるといいな──と。


「……知ってるか? こういう時は、上を向くんだぜ、一年生」

 風は強く冷たいけれど、雲がすべて流れて澄んだ青空が広がっている頭上へ目をやりながら、風間は言った。お前は知らないだろう、という含みを言外に持たせるのも忘れずに。

 想いが届かない、どうやっても通じないなんてことは、この男にはなかっただろう、と頭から決めていた。

 離れていた期間でさえ、鏡花に大事に思われていた、この憎たらしい男には。

「あの古い歌でしょ。わりと乙女だよね、センパイ」

 付け足しのようにそんな呼び名を使う拓海は、本当に可愛げのない奴だと思う。

 けれど、拓海はそのまま静かに背を向けて、屋上のドアを開けた。

 それが再び閉じられる寸前に、「……知ってるよ」という、かすかな声が聞こえてきたようにも思ったが、気のせいだったかもしれない。

 ドアがパタンと閉じる音を聞きながら、風間は上を向いたまま、黙って空を眺め続けた。


 涙が、こぼれないように。





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