act17.夢で逢いましょう
──小さな女の子が泣いている。
小学校に入ったばっかりくらいの、幼くあどけない女の子だ。ところどころに花が散った淡いクリーム色の可愛いワンピースは、彼女によく似合っていたけれど、ちょうどお腹の真ん中のところが泥のようなもので汚れていた。
どうしたの? と訊ねてみる。耳に入ってくる自分の心配そうな声は、少し高めで、舌ったらずだった。
どうしたの? キョーカちゃん。
女の子はぱっとこちらを振り向くと、大きな瞳をぱちぱち瞬きさせた。その拍子に、溜まっていた涙がぽとんぽとんとピンク色をした頬を伝って転がり落ちる。
自分の姿を認めると、女の子は、急いで自分の手を目のところに持っていって、乱暴なほどごしごしと強く擦った。しゃくりあげるのを必死で抑え、洋服の袖口が濡れるのも構わずに。
「……なんでもない」
なんとか涙を拭き終えて、そう言う彼女はいつもどおりの顔をしていた。
きっと、自分では気づいていないのだろう。
いくら涙を拭いたところで、瞳の端にも、頬っぺたにも、たくさんの涙の跡が残ってしまっていて、それが尚更その顔を痛々しく見せていることなんて。
目線を下げた女の子は、ワンピースについた汚れを見て、転んじゃった、とぽつりと呟いたけれど、そんなの子供の自分にだって、嘘だと判る。
また男の子に苛められたんだ。何をされても、言い返すことも、やり返すこともしない彼女は、よく悪戯っ子たちの標的になって、理由もないのに理不尽な目に遭っていることは知っていた。そして、そのクリーム色のワンピースを、女の子がとても大事にしていたことも。
誰にやられたんだよ、俺が仕返ししてやるよ、と激しい怒りをこめて詰め寄ると、女の子は眉を下げた困惑顔になり、自分の顔を見つめ返した。
……ああ、心配していたのは自分だったのに、いつの間にか立場が逆転している。
今、彼女に逆に心配されているのは、すぐ感情的になって相手が大きな男の子だろうと無鉄砲に突進してはやられてしまう、幼い自分のほうだ。
それから女の子は、大丈夫だよ、と穏やかな声で言って、淡い微笑みを浮かべた。
宥めるように、安心させるように、「姉」が「弟」に向ける労わりと慈しみそのものの表情になって。
「大丈夫だから。……拓海」
その言葉が、どんなに自分を切なく歯痒い気持ちにさせるかなんて、きっと彼女は判っていない。
女の子は確かに普段から他人に対して甘えることが苦手だったが、自分に甘えてこないのは、それとは違う理由によるものだ。それだけ自分に力がなく、彼女にとって頼りにならない存在であるからだ。
彼女から見ると、自分はどこまでも「庇護してやるもの」でしかなく、「守ってくれるもの」にはなり得ないのだ。
それが自分にとって、どんなにどんなに悔しいことであるかなんて、彼女は知らない。
……でも、いつか。
いつか、俺がちゃんと守ってやるからね、キョーカちゃん。
もっと背が伸びて、大きくなって、力もついたら、きっと。
きっと──
***
ふわーあ、と大きな欠伸をする拓海を、陽介と宙人はじろりと睨んだ。
「お前な、わざわざお前のために放課後の時間を割いて付き合ってやっている俺たちの前で、よくもそう堂々と欠伸なんかが出来るもんだな」
陽介が嫌味たっぷりに言ったが、拓海にはちっとも気にする様子はない。それどころか、友人たちのほうに目をやりもしない。彼がずっと見ているのは、開けられた教室のドアの向こうの廊下だった。
「ちょっと夢を見てさあ、明け方に目が覚めたら、そのまま眠れなくて。だから寝不足なんだよね」
視線をそちらに向けたまま、悪びれもせずにそんなことを言う拓海の目は、確かに少々充血しているようだ。瞼もわずかに腫れていて、その状態で横を向いていたりすると、流し目をしている、ように見えなくもない。
それで今日は一日中、「なんだか今日の拓海君って、妙に色っぽいよね」とさわさわ囁きあっている女子達の声が、あちこちから洩れ聞こえたわけか、と陽介と宙人は納得した。単なる寝不足なのに、顔のいい男はとことん得である。
「眠れなくなったって、どんな夢だよ。怖い夢とか?」
「キョーカちゃんの夢」
「…………」
なんとなく、二人揃って黙り込んでしまう。その沈黙の意味を察してか、拓海が彼らのほうを向き、「……別にイヤラシイ夢とかじゃないから」と、付け加えた。
「そ、そうか」
「そういう夢も、よく見るけどさ」
「…………」
あっさりと言われて、彼女のいない男二人はまた黙る。そんなことを言われたら、そういう夢ってどういう夢なんだ、なんてことを考えずにはいられなく、もやもやとしたものが頭を過ぎってしまうのだが、口にした拓海本人はまるでけろりとしている。
「……お前に、恥という概念はないのか」
陽介にとって長年の疑問でもあったことを訊ねると、拓海はきょとんとした顔で見返してきた。
「え。だって、健康な若い男だもん、それくらいいいでしょ。実際には、手を出さずにガマンしてるわけだし。俺のこの忍耐強さをこそ、褒めて欲しい」
「別に褒めるようなことでは全然ないが、そういえば、お前、なんでそう我慢してるんだよ。付き合い出したのが春で、今はもう冬だぞ。お前の性格からして、さっさと次の段階にまで進んでもいいくらいだろ」
話が具体的に生々しくなってきたせいか、拓海に比べてよっぽど純情な宙人がもじもじしだした。こういうところが、「まだまだ彼女が出来そうにないね」と拓海に哀れまれたりする理由だと思われる。
拓海は机に頬杖をついて、ふうっと息を吐き出した。前髪がはらりと額にかかり、睡眠不足のアンニュイな雰囲気も手伝って、そこはかとない哀愁まで感じさせ、確かに色気がある。話の内容は、どう考えてもワイ談なのだけれど。
「……まあ、そりゃ、俺だって、健全な高校生なんだしさ」
と、拓海は伏し目がちに言った。
「キョーカちゃんの身体を隅から隅まで舐め回したい、なんて欲求を抑えるのが困難なことも時にあるんだけど」
「いや、それ高校生男子の健全な妄想というより、どっちかっつーとエロ親父の発想だから」
「大体、こんな真っ昼間から、そんな真顔で恥ずかしげもなく口に出すようなことでもないから」
陽介と宙人から一斉に入ったツッコミを、拓海は全く聞いちゃいない。台詞の中身とはまるでそぐわない、真面目な顔つきをしていた。
「……けどさ」
と、小さな声で呟いた。
「けど、キョーカちゃんの心を全部手に入れたって自信もないのに、そんなこと、出来ないだろ。──怖くて」
思わず、陽介と宙人はお互いの顔を見合わせた。
今──ものすごく珍しく、拓海の「本音」が覗いたような。
「今日もさあ、夢の中に、昔のキョーカちゃんが出てきてさ。今も可愛いけど、あの頃も可愛くて、それでなんか色々考えているうちに眠れなくなっちゃって」
「あの頃も可愛くて」と「色々考えて」とに、どういう因果関係があるのかさっぱり判らん、と思ってしまうのは、自分に理解力がないせいか? と宙人は疑問に思う。何か故意に、間の言葉が相当省略されてやしないだろうか。
それに、さっきちらりと顔を出した拓海の本心らしきものと、この夢の話がどう繋がっているのかも、まるで判らない。どうやら、拓海の中では、それとこれは同じ道筋に並んでいるものらしいのだが。
「……キョーカちゃん、まだかなあ」
口を噤んでしまった二人を余所に、拓海は独り言のように言って、再び教室のドアに目を戻した。飼い主を待つ犬、あるいは、母親の帰りを待つ子供のような表情をしている。
「進路相談だろ? 順番も後の方だって言ってたし、まだ時間がかかるんじゃないのか」
それを伝えに鏡花は今日の昼休み、拓海のいるこの教室までやって来たのだ。「だから先に帰ってね」と言うつもりだったようだが、その言葉が彼女の口から出る前に、拓海は「じゃあここで待ってるから終わったら来て」ときっぱりした口調で言い切ったのである。
鏡花はそれを聞いて、ちょっとだけ困ったように首を傾げた。
「でも、大分長くなるかもしれないから、退屈でしょう」
「大丈夫大丈夫、陽介とチュー太君がいるから」
勝手に決められ、はあ?! と目を剥いて大声を出そうとした陽介と宙人は、そこで鏡花に申し訳なさそうに顔を向けられ、それを呑み込んだ。拓海ではないが、いつも無表情な鏡花がたまに感情を表に出すと、なんとなく逆らえないのだ。あの和葉でさえそうらしいので、実は拓海の彼女は人類最強の存在なのかもしれない。
ともかくそんな次第で、陽介と宙人は、しょうがなく、鏡花の進路相談が終わるのを待つ拓海に付き合って、こうして放課後の教室に居残っているわけだ。
「……進路相談、かあ」
ぽそりと低い声が拓海の口から漏れた。
「俺たちも来年から本格的に考えなくちゃならないよな」
「うん、二年まではクラス持ち上がりだけど、三年生から進路別に分けるらしいし。三年になったら、受験受験で追いまくられるんだろうなー」
少し真面目になって、しばらくの間、陽介と宙人はこれから自分たちが進むことになる苦難の道について話し合ったが、その間拓海はずっと無言だった。
「鏡花さんは、もう何処の大学を狙うか決めてんのか」
陽介が振ったそんな質問にも、気乗りがしないように首を振る。
「さあ……。なんか、薬学部志望らしいけど」
「へえ、そうなんだ? 薬剤師とかになりたいのかな」
宙人が驚いたように声を上げた。薬学部というのはともかく、言っては悪いがあの何処かしらぽーっとした鏡花が、すでに自分の進みたい方向を決めているというのが意外だったのだ。
「いや、会社に入って、薬を作ったり研究したりしたいって。キョーカちゃんのお母さんはバリバリのキャリアウーマンだからさ、ちっちゃな頃からその背中を見てきて、自分も長いこと続けられるような仕事をしたいとは、ずっと思ってたみたいだね。だから専門的な知識を学びたいって」
拓海は淡々として続けた。いつもだと、彼女の話をする時はやたらとノロケ口調なのに、今は自慢げな素振りもない。
「……へえ、結構、堅実なこと考えてんだ」
陽介が感嘆するように言っても、まったく乗ってこない。それどころか、ますます顔からは笑みが失せ、視線は妙に頑なに、ドアの方へ向けられたままだ。
「キョーカちゃんは、昔からしっかりしてるよ。一見、頼りなさげに見えるから、雪菜なんかは一生懸命自分が守って庇ってやんなくちゃって思い込んでるみたいだけどね。実際にキョーカちゃんに守られてんのは自分の方だって、判ってないんだ、あいつ。……本当は」
少しだけ、視線が下に落ちた。
「本当は、キョーカちゃんは、誰かに守られなくたって、自分で自分の面倒くらい、ちゃんとみられる人なんだ」
それから、「……あーあ」と力なく声を出し、机に突っ伏してしまう。
「俺、あんまり先のこととか、考えたくない。キョーカちゃんが大学に行った後のことも、自分の今後のことも。……昔はよかったな。なーんにも考えずに、キョーカちゃんキョーカちゃんて、後ろにくっついて廻ってさ。将来はきっと大きくなって強くなるんだって、明るい期待ばっかりがあって。大きくなりさえすれば、自分がなんでも出来るようになるって疑いもせず信じてた。あの頃に戻りたいよなあ」
「で、お前は鏡花さんの『彼氏』から、また『弟みたいな幼馴染』の地位に逆戻りするわけだな」
「それはやだ」
陽介の皮肉に、速攻で答える。そこはやはり、譲れないらしい。
顔を伏せたままの拓海に、陽介は眉を寄せて、少し苛立たしそうに、指の先で机をとんとんと叩いた。
関わりたくないのに、結局忠告めいたことを言わずにいられない自分に腹が立つ。忌々しいので、拓海のほうは見ないようにした。
「──何を考えようが、そりゃお前の自由だけどさ、鏡花さんの前ではそういうこと言うなよ? これから先のことが見通せなくて不安なのは、何もお前に限ったことじゃなく、俺も宙人も、鏡花さんだってそうなんだからな? いくらしっかりしていたって、そこはおんなじなんだぞ。役に立たなくたって、進路についての相談を受けたら、ちゃんと親身になって聞いてやれよ。大体……」
「陽介陽介」
説教の途中で宙人の声に遮られ、ん? と顔を上げると、宙人は憐憫の目をこちらに向けている。
「拓海、寝てる」
「…………」
すーかすーかと安らかな寝息を立てている拓海を見て、さすがに陽介の額にも筋が立つ。
「こいつ、殺していいか」
「まあまあ」
宥めるように宙人は言って、「……珍しいよね、拓海がこんなこと言うの」と小さな声で呟いた。
「……まーな」
渋々ながら返事をし、陽介もなんとか怒りを抑え込んだ。よほど眠かったのか、拓海は本気で寝入っているようだ。
そこまで眠れないほどいろいろ考えてしまった夢というのは、どんなものだったのかな、とふと思う。昔のちっちゃな鏡花さんは、拓海に何を言ったんだろう。
──あの頃に戻りたい、なんて拓海に思わせるほど、それは幸せな夢だったんだろうか。
子供の頃は誰だって、大きくなりさえすれば、世界はなんでも自分の思い通りになると思い込んでいるものだ。年齢を重ねるうちに、世の中はそんなに都合のいいもんじゃないということを知るのだし、自分だって自分で思っていたほどそんなに大した人間でもないことを知るのだけれど。
今の拓海にもきっと、幼い頃に自分で願っていたようにはうまくいかない何かがあって、それを悔しく情けなく思っているのだろう。見えない未来への不安もあり、だから、らしくもなく、こんな風に弱気になってもいるんだろう。
それをだらしないと叱咤することは簡単だ。もっと大人になれば、そこにはより過酷な現実が控えているんだから、と。もう、それを見ない振りしていられるほど、子供じゃないだろ、と。
……でも。
と、陽介は拓海を見ながら思う。宙人も同じことを考えているのだろう、二人の溜め息が重なった。
でも、たまに、夢の中に逃避するくらいは、いいんじゃないのかな。
子供ではなくても、まだ、大人にもなりきれない自分たちなのだから。
(今は、どんな夢を見ているのか知らないけど)
目が覚めたら、眠気と一緒に弱気もふるい落として、きっとまた、いつもの能天気さを取り戻し、前を向いて進み始めるだろう。
拓海はアホなやつだが、決して愚かな人間ではない。
──それからしばらくして、ようやく鏡花が教室に姿を見せたが、依然として拓海は眠り続けていた。
その拓海の寝顔を見た時の、彼女の顔は、そりゃあ見物だった。
淡い桜色に頬を染め、今にも笑い出しそうに口許を綻ばせ、やんわりと優しく目を細めて。
陽介も宙人も、鏡花のそんな表情を間近で見たのは初めてだったから、かなりうろたえた。その表情は、「キョーカちゃんて可愛くて」と惚気る時の拓海とそっくりだったから、尚更。
「……ええっと、叩き起こしますか」
焦りながら言った宙人に、鏡花は静かに首を横に振った。
「ううん、起きるまで、待ってる。二人とも、どうもありがとう」
そんなことを言われたら、はい、と大人しく頭を下げて、その場から退散する他にない。教室から出て行きがてら、ちらっと振り返ったら、鏡花は拓海の前の席に座り、じっとその寝顔を見つめていた。
「弟」に向けるものとは明らかに違う、ひどく、愛しげな瞳で。
***
で、翌日。
学校で顔を合わせると、拓海は二人に昨日の続きを教えてくれた。
「もうさあ、びっくりした。目が覚めたら真っ暗で、キョーカちゃんがすぐ前にいて、『おはよう』って、なんでもない顔で言うんだもん。なんか俺、一時間以上眠ってたみたいなんだよね。キョーカちゃん、起こしもしないんだからなー」
その戸惑ったような表情が面白かったので、陽介と宙人は、昨日の鏡花の様子を、事細かに拓海に説明してやった。
そして、そのあとですぐ、後悔する羽目になった。それを聞いた拓海が、「お前らばっかりキョーカちゃんのそんな顔見てずるい、なんで写メ撮っといてくれなかったんだよ!」と、本気で地団駄踏んで悔しがったからだ。面倒くさい男である。判っていたことだが。
陽介がからかうように言った。
「いいじゃねえか、お前は夢の中でも鏡花さんに会えるんだろ」
「……現実のキョーカちゃんのほうがいい」
子供のように口をへの字に曲げてぼそっと答える拓海の様子に、堪らなくなって、陽介と宙人は声を合わせて笑った。