act15.宣戦布告は両手で受け取れ
昼休み、いつものように窓際の自分の席に座って、友人の和葉とお喋りをしていたら、不意に、横手から近づいてきた人影があった。
鏡花が顔を上げると、そこにはクラスメートの男子が立っている。
はっきりと自分たちに身体を向けて、真っ直ぐこちらを見下ろしているから、たまたま通りがかったというわけではないようだ。
「なによ? 風間」
訝しげに問いかけたのは鏡花ではなく、前の席に座る和葉のほうだったが、風間はそれには答えずに、じっと鏡花に視線を据え付けていた。
その視線が、妙に怒っているように感じるのは、鏡花の気のせいなのだろうか。
「? あの……なに?」
続く沈黙と視線に耐えかねて、鏡花も同じ質問をした。彼に用事があるとしたら、それはどうやら自分に向けたものなのかと思ったからだ。しかし、風間はそこでふっと唇を吊り上げて笑い、「いや、別に」と言うと、唐突に手近にあった椅子を無造作に引き寄せ、どすんと腰を下ろした。
格好としたら、三人で仲良く机を囲んで談笑するような形だが、その態度に、和葉は明らかにむっとしたらしい。
「なによ、別にって。そしてなんでそこに座るのよ。あたし、あんたに同席を許可したっけ?」
和葉の文句を再び無視して、風間は鏡花の方を向き、笑いかけた。その笑顔も、なんだか少し、不自然だ。
「俺も少しお喋りの輪に入れてくれよ。いいだろ? 鏡花ちゃん」
「あ──うん。別に、構わないけど」
いきなり名前で呼ばれて、鏡花は一瞬口篭った。
この学校は一年生から二年生までがクラス持ち上がりのため、和葉だけではなく、この風間とも、去年から続くクラスメートである。話をしたことも何度かあるが、彼は今までずっと鏡花のことを姓のほうで呼んでいて、こんな風に名前を口にしたことはなかったのに。
戸惑う鏡花の内心を代弁するように、和葉が「はあー?『鏡花ちゃん』?」と、眉を寄せながら繰り返した。
「なんでいきなり名前で呼んでんのよ。あたし、それも許可した覚えはないわよ」
「うるっせえな、いちいち。俺が誰の名前をどう呼ぼうが俺の勝手だろうが。なんでお前の許可が要るんだよ」
ようやく和葉のほうを振り向いた風間は、あからさまに苛々した口調で、乱暴に言い切った。
どうしたんだろう、風間君、と、それを見て鏡花は困惑するばかりである。
あまり男子とは個人的に仲良くすることもない鏡花だが、風間とは、去年一年間ずっと同じ委員をしていた関係で、よくお喋りもしたほうだ。快活で気さくな性格の風間は女の子からも人気があり、鏡花に対しても、いつも明るく丁寧に接してくれていた。こんな言い方をするところも、こんな怒ったような顔をするところも、これまで一度だって見たことがない。
(私、また、何かしたのかな)
自分でも気づかないうちに、風間を怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。自覚もないまま、他人を不愉快にさせてしまうようなことを。
……また。
そう思って、鏡花がわずかに表情を翳らしたのを敏感に気づいたのか、和葉が更に不機嫌な顔になった。
「要るに決まってんでしょ。あたしは拓海君公認の鏡花のボディーガードなんだから」
「だから、あの一年坊主とその仲間が名前で呼んでるんだったら、俺が呼んだって別に構わないだろ、ってことだよ!」
「…………」
語気荒くそう言った風間に、今度は和葉は言い返さなかった。その代わり、はあん、というような、したり顔になってにやりと笑った。風間が舌打ちしながら顔を赤くしたが、何がなんだか判らない鏡花は、ただ二人の顔を見比べているしかない。
「ふふ、読めたわよ」
こういう顔をした時の和葉の「読み」が、あまり当たったことはないのだが。
「……つまりそれは、ヤキモチね」
瞬間、風間はあからさまに表情を強張らせた。和葉はにやにや笑いを止めもしない。
この顔、他人をからかって遊ぶ時の顔だなあ、と友人の性癖を知り尽くしている鏡花なので、気分的には和葉の軽口に付き合うくらいのつもりで、台詞の意味まではほとんど考えもせずに、「ヤキモチ?」と聞き返す。
「鏡花、風間はね」
と、鏡花の方を振り向いて、もったいつけて和葉が言った。風間は、「おい──」と焦ったような顔をして、続きを阻止すべく椅子から腰を浮かしかけた……が。
「どうやら、拓海君のことが好きみたいよ」
そこで、椅子もろともひっくり返った。
「もう、和葉──」
「お前、なに言ってんだ?!」
またそういう……と言おうとした鏡花の言葉は、すぐに立ち上がり、更に顔を赤くした風間の叫びに遮られた。
「忍ぶ恋の相手である拓海君が、あんまりキョーカちゃんキョーカちゃんって人目も憚らず連呼するもんだから、悔しくて悔しくて、ついに我慢できなくなっちゃったのよ。拓海君が大事にしてる鏡花にヤキモチやいて、自分も好きな人と同じように呼びたくなったわけね」
「ちょ、お前、ホントに何言ってんの?!」
悲鳴じみた声を上げる風間に、もちろん、驚いたのは鏡花だ。まさか、和葉のいつもの冗談に、こんな風に激しい反応をするとは、思ってもいなかった。
風間はうろたえきって和葉に食ってかかり、赤い顔でちらちらと鏡花の方を気にする素振りを見せている。そんなどう見ても挙動不審な態度を見た鏡花が、
──え、じゃあ、本当に?
などと思ってしまっても、無理はない(かもしれない)。
高笑いをする和葉は、もう完全にこの状況を面白がっているようだった。
「やーね、図星を言い当てられたからって、そんなに動揺しちゃって。顔が赤いわよ」
「お前が俺の予想とは百八十度違うことを言うからだ! つーか、誰だって突然そんなこと言われりゃ動揺するだろうがよ!」
「あららーあ? 百八十度って、なんのことかしら。どんなこと言われる予想をしてたのか、今、この場でクラスの皆に聞こえるように大声で言っていい?」
「ダメに決まってんだろ! お前、何もかも判ってて言ってんな?!」
などという言い争いの声は、実は、この時の鏡花の耳にはほとんど入っていなかったりするのだった。なぜって、鏡花は鏡花で、いろいろと混乱していたからである。無理もない(かもしれない)。
……だって、まさか、風間が「そういう人」だったとは、思ってもいなかった。
そういう恋愛関係を描いた本などがたくさん出ているのは鏡花だって知っているし、現実にもそういった人達がいるのも知っている。しかしそれはあくまで本の中とかテレビの中とか、自分からは少し離れた場所にあるものだとばかり思っていたので、こんな身近に存在するそういう人に対して、どういう風に思えばいいのかよく判らないのだ。しかも、この場合、彼の想い人は鏡花の恋人と呼ばれる人である。ますますどう対応していいのか判らない。
(そういえば風間君って、女の子に人気があるわりに、彼女がいるって話、聞いたことがないし。拓海と一緒にいる時に、なんだか睨まれているように思ったこともあったけど、じゃあ、あれは気のせいじゃなかったんだ)
表情はあんまり変わらないものの、俯きがちになって、いろんなことをぐるぐるぐると頭の中で思い巡らしている鏡花に、和葉と言い合いをしていた風間は、この相手だけはどうしようもないということを悟ったのか、きっとばかりに勢いよく顔を向けた。
「鏡花ちゃん」
「……はい」
眦を吊り上げた風間の鋭い視線は、怖いくらいに真剣だ。
ああそうか、この場合、風間君にとって私は恋敵になるわけだから、それくらい憎らしく思えるんだろうな……と鏡花は納得し、けれどやっぱりなんて言っていいのか思いつかず、黙ってその視線を受けるしかない。
「言っとくけど、俺、本気だから」
それだけをきつい口調できっぱりと言って、風間は倒れた椅子もそのままに、くるりと背を向けて足早に立ち去ってしまった。
「……本気」
ぽつりと言って、深い息を吐く鏡花の目の前では、和葉が呼吸困難になるくらい、お腹を抱えて笑い続けていた。
***
放課後、いつものように鏡花のいる教室までやってきた拓海は、その話を聞いて、風間と同じように、表情を硬く強張らせた。ちなみに、止める間もなくそんなことを拓海につるっと喋ってしまったのは、もちろん和葉である。
「……へえ」
低い声でそれだけを一言呟く拓海の周囲の気温が、一気に五度くらい下がったような気がする。
その顔に困惑の色は見られなかったけれど、やっぱり拓海もいろいろと複雑なのかなあ──と、鏡花は思った。いくら拓海がもてるからって、多分こういうことは、そうはないだろうし。
当然、複雑なのは鏡花だって同じだ。今まで女の子から拓海のことで悪感情を向けられることはよくあったが、男子からのそれには慣れていない。相手が見知らぬ女の子だって、鏡花はどう対応していいのか判らないのに、ましてや今回はクラスメートの、それも何度も言うが男子である。
「もてる人を交際相手として持つと、心労が絶えなくて、なにかと大変よねえ~」
妙な言い回しで、和葉がしみじみと言った。そんな和葉をじろりと睨んでから、厳しい顔をした拓海が鏡花を振り向く。
「あのねキョーカちゃん、キョーカちゃんが何考えてるか知らないけど、いや大体は見当がつくんだけど、取り敢えず何も気にしなくていいんだからね、判った?」
早口で言う拓海の言葉に、鏡花は何も答えないで、視線を落とした。
それは聞き慣れた言葉だった。普段から、拓海を好きな女の子たちに鏡花が何かを言われたりすると、拓海は毎回のようにそう言うからだ。
──キョーカちゃんは何も気にしなくていいんだから。
それが鏡花を庇おうとして言ってくれているものだということは判っている。拓海が他の女の子に対して殊更に素っ気ない態度を取るのも、鏡花を気遣ってのものなのだろう。
その気持ちを素直に嬉しいと思う自分がいるのも本当だし、その女の子たちに罪悪感めいたものを抱いてしまうのは、きっと鏡花の傲慢だ。それが判ってしまうから、鏡花はいつも、自分の取るべき態度を決めかねて迷う。
結局、鏡花に出来ることといったら、拓海の言葉どおり、「気にしない」ように振舞うことくらいだと思っていた。面と向かって、あんたなんか拓海君とは釣り合わない、と言われても、鏡花自身その通りだと思うから、何も言い返さない。何を言われても、何をされても、素知らぬ態度で通すしかない。
それくらいしか、自分には出来ることはないと思っていた。
……でも、本当に、それでいいのかな。
と、鏡花はここで、改めて迷ってしまう。迷いの原因は、きっと、風間のあの言葉だ。
「本気だから」と言い切った時の、射抜くような瞳。言われた鏡花は、何も返すことをしなかった。追いかけて、何かを言うことだって出来たのに、そんなことはしなかった。いつもと同じであるにも関わらず、今回は鏡花に悔いが残っている。
あれは逃げたも同然の行為だったのではないか、庇ってくれる拓海の陰に隠れるような、卑怯なことだったのではないか、と。
鏡花は時に、他人を不愉快にさせたり、怒らせてしまうことがあって、その理由が、いつも自分ではよく判らない。そんな、他人の感情に対して鈍感な自分を自覚しているので、どうしても他人と向き合うことを避けがちになってしまう。どう言えばいいのか判らなくて、自分の心を上手に表現するすべも思いつかなくて、結果としてなにも言わずに済ましてしまうのだ。
けれどそれはもしかすると、何かを言って怒らせるのよりも、もっと間違ったことなんじゃないのかな、と、鏡花は今更のように気がついた。
今日風間に言われたように、誰もが、拓海を好きだという想いは、真面目な「本気」なのかもしれないのに。
──何も言い返さない、気にしないという私の態度は、あるいは、彼女達のそういう気持ちに対する、侮辱なんじゃないのかな。
「和葉さんもさあ、いちいち事をややこしくするの、やめてくれない? 俺のキョーカちゃんは、時々子供みたいに素直なんだから」
「へー。じゃあ、思ったことをありのままストレートに、鏡花の前で言っていい?」
「ダメに決まってんでしょ! それより、判ってるよね、和葉さん」
「はいはい、段取りはつけといてあげるわよ。静観する気はないんでしょ?」
「あるわけないじゃん。なーにが『本気』だよ。くそったれ、十年早いっつーんだよ」
「拓海君が言うと、意味深よねー」
真顔で怒っている拓海と、感心するような和葉のよく判らない会話は続いていたが、鏡花は黙って、ずっと別のことを考えていた。
***
──そして、翌日。
朝の登校時に鏡花の家まで迎えに来た拓海は、どういうわけか、口許に大きな絆創膏を貼っていた。
「どうしたの、拓海」
驚いて訊ねてみても、拓海は仏頂面で、「なんでもない」と答えるだけだ。その声もいつもと違って掠れている。まるで、大声を出し続けたあとのように。
鏡花が隣に並ぶと拓海はさっさと歩き出したが、よくよく見れば、彼の右手の指の付け根のあたりが赤く腫れていた。もう一度訊ねようとした鏡花の視線を感じ取ったのか、拓海はそのまま右手を制服のズボンのポケットにしまい込んでしまう。
どうやら、追及して欲しくない事柄であるらしいと察しがついたので、しょうがなく口を噤んだが、心配なことには変わりない。
「……あのね、キョーカちゃん」
ぼそりと拓海が言葉を落とした。顔は前方に固定されたまま、少し怒ったように唇が一文字に結ばれている。戸惑いながら、鏡花は「うん?」と返事をした。
「俺はね、絶対に、退かないからね」
「……? うん」
判らないなりに返事をすると、拓海はちらりと鏡花を見た。
困ったように眉を下げた鏡花の表情に気づいて、瞳に柔らかな光を取り戻し、ゆるやかに笑う。
その顔はひどく優しげで、随分と大人っぽくも見えて、鏡花はちょっとだけ頬を赤く染めた。
「俺、諦めないから」
と、教室に着くなり鏡花に言い放った風間は、拓海と同じ怒ったような顔つきで、こちらは目の下あたりに痣を作っていた。同じように、ガラガラの声で。
どうしたの、と訊ねようとしたのだが、こちらに向けられる視線の強さに思わず怯み、その言葉を飲み込んでしまう。
風間はそんな鏡花を真っ向から見つめ、もう一度口を開いて言った。
「幼馴染だろうと何だろうと、関係ないから。絶対にこっちを振り向かせてみせるから。覚悟しといて」
「…………」
ああ、これは宣戦布告なのか──と、鏡花は思った。
その態度はとても潔くて、清々しいほど堂々としている。感嘆するように思いこそすれ、嫌な気持ちはまるで湧かなかった。その思いに嘘はなく、揺るぎもない。
ここから逃げたらダメなんだ、と鏡花は痛感した。風間は正面切って、鏡花に対峙している。真っ直ぐな心を、突きつけている。だったら、自分もちゃんとそれを正面から受け止めて、応えなければいけない。
拓海が鏡花のことを好きでい続けてくれている限り、鏡花は拓海の傍を離れるつもりはないのだから。
──そう、今までだって、鏡花はそういうことをこそ、きちんと女の子たちに言わなければならなかったのだ。
拓海が鏡花以外の女の子を好きになって離れていくのはしょうがないことなのかもしれないけれど、少なくとも、鏡花の方からは離れていくつもりはない、と。
そういう自分の正直な気持ちを伝えておくべきだった。それを理解してもらえるかどうかは、また別の話。
せめてそうやって、真摯に向き合う努力をしなければいけないのだ。
自分も風間や彼女達と同じ、拓海のことを好きな人間として。
「……うん。私も、頑張るよ。風間君に負けないように」
と、自分なりに真剣に言った鏡花の言葉に、風間は非常に奇妙な顔をし、教室のどこかからは、和葉が盛大に噴き出す音が聞こえてきた。