act10.ところにより大嵐(後編)
誰に? と問う拓海の声は、まるで鞭打つように峻烈なものだった。
とてもじゃないけれど今更誤魔化せることも出来ず、いや、正直に言ってしまえばその剣幕があまりにも怖くて、里紗は口篭りながら、「あ、あたしと同じクラスの三人で……」と告げるより他にない。
間髪いれず訊ねられた何組かという問いにも、もごもごと答えたが、三人の名前だけはかろうじて口を閉ざした。庇うというより、なんだか、この状態の彼には言ってはいけないような気がしたからだ。
里紗からはそれ以上聞き出せないことを悟ったのか、拓海は厳しい表情のまま、さっと背中を向けて足早に立ち去ってしまった。
自分の迂闊さに泣きたいような気分になりながら、少しの間その場に立ち尽くし、結局拓海の後を追うようにして、里紗は小走りに廊下を駆け出した。
拓海は、里紗のクラスの教室にまでやって来ると、入り口に立って室内を睥睨するように見回した。
女の子達が彼を見て、あっ、という嬉しそうな顔をしたものの、すぐに戸惑ったように笑顔を引っ込める。それくらい、表情をなくした今の拓海からは、異様な雰囲気が立ち昇っていた。
教室内で固まって何事かを話していた三人は、そんな拓海を見て、明らかに動揺した様子を見せた。
やはり、彼女達は彼女達なりに、やりすぎたんじゃないかという危惧は抱いていたのだろう。そこにまったく悪意がなかったとは言わないが、きっとそれはあくまで彼女達にとって、「他愛ないイタズラ」の延長線上にあったものだったのだ。
拓海はその三人の変化を目敏く見つけた。迷いもせずに机と机の間を縫って大股で歩み寄り、彼女らの前にすらりと立って冷たく見下ろす。
普段ずっと愛想の良い笑顔を貼り付けているだけに、こんな能面のような顔になると、なまじ整っている分、ぞくりと鳥肌が立つほどに怖かった。
「──俺の彼女に怪我させたの、誰?」
無表情の上に、薄っすらとした笑いだけを浮かべる。聞いたことのないような、低く静かな声だった。
三人はすっかり怯えてしまっていて、しばらくは声も出ない様子だった。顔からは色が失せ、気の毒なくらいだ。里紗だってそうだが、普通に甘やかされてぬくぬくと育てられた彼女達も、こんな風に、他人の強烈な怒気を真正面から受けるなど、これまで経験したことがなかったに違いない。
「あたし達、なにも……」
三人のうちの一人が震える声で口にしたのは、否定の言葉だった。里紗でさえ、それはマズイよと忠告したくなるほど、選択肢の中でも最悪のものだ。拓海の顔に、険しさが増した。
今までただ驚いて事態を見ていたクラスメート達は、ここに至って薄々ながら状況が判ってきて、これは放っておくとやばいんじゃないかと察知したらしい。拓海を知っているらしき男の子が、故意に軽い笑顔を浮かべながら、彼に近付いていった。
「おい、拓海、なに──」
なに熱くなってんだよ、とでも、その男の子は冗談めかして言うつもりだったのだろう。
けれど、その言葉の続きは、突然のけたたましい大音響によって封じられた。
──いきなり長い足を振り上げた拓海が、ものも言わずに手近にあった机を思い切り蹴飛ばしたのだ。
机は側にあった椅子もろとも派手な音を立てて勢いよく倒れ、引き出しの中の教科書やノート、ペンケースなどが無残にも床にバラバラに放り出された。
三人は、ひっ、と声にならない悲鳴を漏らし、教室内が水を打ったようにしんと静まり返る。
「……うわ、拓海の奴、完全にキレちゃってるよ。どうする?」
「あれは俺たちじゃ止められないな。……先生が来るまで、間に合うといいんだけど」
教室のドアのところで、心臓が縮まるような思いで成り行きを見ていた里紗の背後で、ひそひそと囁く声がして、振り返ったら、バタバタと二人の男の子達が廊下を走っていく後ろ姿が見えた。ちょっと逃げないで止めてよ、と里沙は詰るように恨めしくそれを見送るしかない。
「……ねえ、俺の彼女、君達に何かした?」
机が倒れたことにも、クラスの全員が息を呑んで見ていることにも、まるで頓着せず三人に問いかける拓海の声は、聞きようによっては優しいくらいのものだった。口の端が上がっているが、けれどそれはもう、「笑み」なんてものじゃない。空気だけが、痛いほどぴりぴりと張りつめていた。
「どういう理由で、階段から突き飛ばしたりしたの? 一歩間違えば、足首を捻るどころじゃ済まなかったことくらい、判りそうなもんでしょ、幼稚園児でもないんだからさ」
「そんな……怪我、させようと思ったわけじゃなくて」
とうとう認めて口にしたそれは、紛れもない言い訳だったが、本心からの言葉でもあったのだろう。多分、もともとの思いつきは、「ちょっと驚かせてやろう」くらいのものだったのだ。それは確かに、幼稚な嫉妬から出たものではあっただろうけれど。
拓海はそれを聞いて、目元をピクリと動かした。……駄目だ、ますます怒りが増大している。
「させようと思ったわけじゃなくて、何? 単なる嫌がらせのつもりだった? なんのために? 君ら、俺の彼女と話したこともないでしょ。知らない人でも無差別に階段から突き落とすのなんて、通り魔と変わらない発想だよね。……何か、気に入らないことでもあった? 顔? 声? 仕草? それとも」
拓海の顔から、今度こそ一切の表情が抜けた。
「……それとも、俺と付き合ってること?」
「…………」
三人は、全員が無言だった。気まずげに、それぞれが目を逸らす。
こうして正面切って言われると、それがいかに理不尽なものであるか、当人達も思い知ったようだ。
だが、拓海は追及の手を緩めなかった。暴走、という言葉がしっくりするくらい、本人も感情のコントロールができない状態なのではないか、と里紗は段々、不安になってきた。
「また、『あんまり楽しそうに見えないから』って理屈なわけ? ねえ、無闇に笑顔を振りまくのって、そんなに重要なことなの? 喜怒哀楽をオーバーなくらい表に出すのが当たり前で、そうじゃない人間は、見ているだけでムカつくって? 俺の彼女がそういう人だから、ちょっと痛い思いをしてもらおうって──そういうこと?」
声だけは穏やかに言いながら、また近くにあった机を、力任せに蹴りつける。
今度は倒れはしなかったが、三人は一斉にびくりと身を縮めた。
これくらいで切り上げるべきだ、と里紗はハラハラしながら思った。きっと、三人は今の時点でもう自分達のしたことを自覚して、反省している。これ以上やると、今度はそれを通り越して反発心が湧いてしまう。そしてそれは、誰に向かってどういう形で発散されるのか、予測が出来ない。
(……止めなくちゃ)
この事態の責任の一端は、間違いなく里紗も担っている。だとしたら、ここは自分が止めるべきだとようやくのことで決心して、足を前に進めようとした、その時。
すい、と自分の傍らを通り抜ける人影があった。
その人物は、片足を引きずるような不自由そうな歩き方で、ゆっくりとだが一直線に、誰もが硬直して身動きしないクラスメート達の間を通り、騒ぎのおおもとに近付いていった。
そして、まず、倒れている机に目をやり、丁寧にそれを起こした。床に散らばった教科書やノートをきちんと綺麗に揃えて、その中にしまう。
「……キョーカちゃん」
拓海の声は、どことはなし、呆然としていた。
鏡花は、淡々と片付けを終えて元通りに整然とした形に戻すと、拓海よりも先に、三人の女の子達に視線を向けた。
何を言われるのかと身構えた彼女らに、鏡花がしたのは、静かに頭を下げることだった。
「……驚かせて、ごめんなさい」
その言葉に、激昂したのは拓海のほうだ。
「なんでキョーカちゃんが謝るんだよ! 階段から突き飛ばされて、怪我させられたのは、キョーカちゃんじゃないか! お人よしも大概にしなよ!」
まるで責めるような口ぶりだった。彼はこの瞬間、他の誰よりも、自分の彼女に対して怒りを覚えているようでもあった。
「私、自分で足を踏み外したんだよ」
拓海を真っ向から見返す鏡花は、まったくいつもと変らない顔で、嘘をついた。眉を吊り上げ、更に何かを言おうとした拓海に、ついでのように付け足す。
「ひょっとして、誰かとぶつかったかもしれないけど、落ちた時に記憶が飛んだらしくて、覚えてない」
「…………」
あんまりにもとぼけたその言い草に、拓海はそのまま言葉を出せなくなってしまった。わざとなのか天然なのかはまったく計り知れないが、どちらにしてもすごい、と里紗は感動すら覚えてしまう。
その時ちょうどチャイムが鳴った。
鏡花が何事もなかったかのように、拓海に向かって声をかける。
「もう昼休みも終わりだよ。教室に戻ろう、拓海」
その言葉を合図のようにして、素早く教室に入ってきた二人の男の子が、拓海のほうへ駆け寄っていった。「けど──」と尚も不満げに言いかける拓海の両腕を左右からそれぞれ強引に掴み取り、
「よし、帰ろう帰ろう」
「どーもー、お騒がせしましたー」
と言いながら、引きずるようにして教室から連れ出してしまう。さっき、自分の後ろで話していた二人組だと、里紗は気がついた。
──そうか、拓海の彼女を呼びに行っていたのか。
教室を出る間際、顔を悔しそうに歪めた拓海が、ぽつりと、「……ちくしょう」と呟く声が、入り口の近くに立つ里紗の耳に届いた。
一行が立ち去り、暫くの静寂のあとで、
「──何よ、あれ」
と、涙混じりに言われた声は、三人の女の子達のうちの一人のものだと判ったが、クラス内の誰一人として、返事も同調もする者はいなかった。
……きっと、皆、里紗と同じで、少しだけ羨ましかったのだと思う。
あんな風に、人を好きになれる拓海のことが。
***
──授業が終わって、約束どおり、鏡花を自転車に乗せて帰路を走りながら、拓海は学校を出てからずーっと無言を通している。
何も知らない他人からすると、破局寸前のカップルにでも見えるのかもしれないな、とぼんやり考えたりするが、それでも口を開く気にはなれなかった。
ただただ気まずくて、何も言うべき言葉が見つからなかったためだ。落ち込んでいる、と言ってもいいかもしれない。
とにかく、悔しくて、腹立たしくて、切なくて、堪らなかった。
……こんなにも。
こんなにも、守りたいという気持ちは大きいのに。
離れていても、傍にいても、結局、自分はいつも、ちゃんと彼女を守ってやれない。
鏡花がつらく悲しい思いをする時、その元凶はいつだって拓海だ。
後ろの鏡花も、同じく無言のままだった。やっぱり気まずいからなのかと思っていたのだが、もしかすると怒っているのかもしれないと思いついたら、たちまち心配になってきた。鏡花が怒ったところなんて、子供の頃から今まで、ほとんど見たことがないから、尚更だ。
だから、不意に、
「……拓海」
と呼びかけられ、動転した拓海は思わずハンドルを揺らしてしまった。自転車が不安定な動きをして、怖かったのか、鏡花が少しだけ腰に回した腕の力を強める。
「はい? なに?」
かなり情けないことに、拓海の声は完全に上擦っている。
「ちょっと、降ろして欲しいんだけど」
「…………」
やっぱり怒ってるんだ、と拓海は絶望的な気分になった。もう一緒に帰りたくないという意味なのだろうか。ここからは電車で帰ると言い渡されるのだろうか。もしそうだったら、地面に這いつくばってでも謝ろう。
相当プライドのない決心をしながら、おそるおそる自転車を止めると、鏡花はぎこちなく座席から降りて、片足を引きずりながら歩き出した。ごめんなさいちょっと待って、と追い縋ろうとして留まったのは、彼女の向かっている先が、自動販売機であることに気づいたからだ。
自分の財布を出した鏡花は、そこで二本の缶ジュースを買った。一本は紅茶、一本は拓海がよく好んで飲むスポーツドリンクである。
「喉、渇いちゃった。拓海も飲む?」
「あ……うん」
ホッとした気分で渡された缶を受け取り、歩道の隅に寄せた自転車に跨りながら、プルトップを開ける。珍しく、立ったまま缶ジュースを飲むという、あまり行儀のよくないことをしている鏡花を、こっそりと横目で窺ってみた。我ながら、結構いじましい。
やっぱりこれは、俺が何かを言うべきなのかなあ、と内心で迷う。
突っ走りすぎたかという後悔は多少はあるものの、かといって、「あの三人にちゃんと謝るんだよ」などと言われたら、間違いなく自分はまた怒り出すに決まっている。事を荒立てて、鏡花には悪いことをしたなとは思うが、あの三人への怒りは、ちっとも収まっていないからだ。けれどそれが基で自分と鏡花が喧嘩になるのは何かおかしいと思わずにいられないし、拓海自身だってそういう展開はこれっぽっちも望んでいない。そうすると、この場で何を真っ先に言うのが相応しいのか、まったく判らない。
ううーんと苦悩しながら缶の中身を喉に流し込んでいると、「拓海?」と、再び呼びかけられた。驚いて、むせそうになる。
「……はい」
神妙に返事をした。なんだか、教師に叱られる小学生の気分だ。
呼んでから、鏡花は少し視線を落とし、手に持っている紅茶の缶を見つめた。何かを躊躇っているようにも見える。
──しばらくして、彼女の口から出たのは、
「ごめんね。……怒ってる?」
という、謝罪の言葉だった。
「え?!」
びっくりして、思わず大きな声を出してしまう。まさかそんなことを言われるとは思ってもいなくて、大いに焦った。
じゃあ、今まで自転車に乗りながら、鏡花は鏡花で、ずっと拓海が黙っているのを怒っているものと思い込み、居た堪れない思いをしていたのだろうか。
「え、なんで、キョーカちゃんが謝るの? 悪いのは、どう考えても俺でしょ。いや、もっと悪いのは、あの三人だけど」
どうしても、余計なことまで言ってしまう。
「でも──」
と、言いかけたところで、口を噤んでしまった鏡花を見て、拓海はにわかに不安になった。
何か、絶対に何か、変なことを考えている。鏡花の思考回路は、時々、常人には追いつけない奇天烈な回り方をするのだ。また、「私のことは気にしないで他にいい子を見つけて」などと言われたら、本気でヘコむ。
「うん、悪いのは俺なんだって」
慌てて、強い口調で言い張った。これ以上鏡花に、ものを考えさせてはいけないような気がすごくしたからだ。
「ほら、俺って、単純で、感情的で、考えなしでさ。中身ガキだから、一旦怒ると自分でも制御できなくて、今回みたいに、周りも見ずに突進しちゃうんだよ」
「それは、別に否定しないけど」
「……ちょっとは否定して欲しいな、キョーカちゃん……」
あっさりと返ってきた返事に、ガックリとして肩を落としたら、「でも」という言葉が続いた。顔を上げた拓海を、大きな瞳が、なんだか不思議そうに覗き込んでいる。
「……でも、それは全部、拓海の『いいところ』でしょう?」
「…………」
首を傾げてそんなことを言う鏡花は、本心からそう思っているようだった。
「私は、拓海のそういうところ……」
言いかけて、再度、口を噤む。「そういうところ?」と期待してぐぐっと身を乗り出したら、鏡花はちょっとだけ頬を染めながら目を逸らし、
「……尊敬、してる」
と、ぼそりと続けた。ええー……と、またまた肩を落とす。
──俺、別に、キョーカちゃんに尊敬してもらいたいわけじゃないんだけどなあ~。
ちぇーっと唇を尖らしてふてくされた拓海を見て、鏡花が柔らかく目を細めた。拓海、ともう一度呼ぶ声は、いつもより、ほんの少しだけ甘さが滲んでいるようにも聞こえる。
「……私のために怒ってくれて、ありがとう」
「…………」
自転車に乗ったまま、倒れそうになった。なんだこれ、なんだこの可愛さ。
鏡花の言葉ひとつ、仕草ひとつで、拓海の心は簡単に、沈みこみ、浮き上がり、飛ばされそうになってしまう。怒りも喜びも、鏡花次第でコロコロと変化する。恋しさも、愛しさも、煽られる。
それはまるで、嵐のように。
「キョーカちゃん、今ここでキスしてもいい?」
「…………。今は、無理」
まだ人通りも多い往来のど真ん中でしてみた拓海のおねだりはすげなく却下され、ちぇっとまたむくれながら、けれど「今は」無理でも、あとでならオッケーてことだよな、とも抜かりなく計算し、元気よく手の中の空き缶を握りつぶす。
「じゃ、帰ろうか、キョーカちゃん」
にっこりと笑って言うと、鏡花もほんのりとした笑顔になって、「うん」と頷いた。