姉の想い
「護はいつ帰ってくるかなぁ……」
沙耶は、一人で護を待つ。一人で。これはいつものこと。母も父も仕事だから、一人で当然。何もおかしくない。慣れている。慣れているはずなのに。
……寂しい……?
時より、そんな感情を抱くようになった。いや、なってしまった、というほうが正しいか。
前までは、こんなことを思うことなんてなかった。ここを離れて一人暮らしをしていた時は護がいないのが普通だったし、ここに戻ってきてからも、護の帰りを待ち遠しい、なんて思う時もあったのだ。
「なんでだろうねぇ………………」
前にもまして、護が気になる。護と同じ時間を過ごしたい。家にいる時はもちろん、いつだって。
……弟離れ……。
しないといけないのだろうか。したくない。でも、どうなんだろう。
護と距離をあける。それは試した。試して、大丈夫だったのだ。護のいない生活が普通になっていた。
だけど、一人暮らしというものに飽きて戻ってきた。それが間違いだったのだろう。
本当の自分の家に戻ってきた。ということは、そこに護がいる。そんな当然なことを忘れていた。忘れていたというわけではないかもしれない。少しだけ、護に会いたい、そう思ってしまったのだろう。
「まもるぅ……………………」
リビングの床、フローリングにのべぇー、と寝そべる。普通ならしないこと。
護は弟。弟。弟じゃないほうがよかった。そうどれだけ思ったとしても、その事実は変わらない。変わるわけがない。護は弟であり、沙耶は姉なのだ。
「おっと……」
慌てて飛び起きる。玄関の扉が開かれたような、そんな音が聞こえたから。
「ただいま」
護の声だ。護が帰ってきた。
「おっかえりー。まもるぅ」
「ん。ただいま」
二度目のただいま。一人暮らしだとこういう声を聞くことができないが、今なら聞ける。何回も、毎日。
「どこいってたの? 護」
今日は終業式。御崎高校には沙耶も通っていたのだから、そのくらいのことは分かっている。昼には終わっているはずなのに、護が帰ってきたのは今。もう夕方。その間、時間が空いている。何をしていたのか。姉としては気になるところ。
そう。姉として。他意はない。
家に帰るといつものように姉ちゃんが出迎えてくれた。そして、いつものように。
「どこいってたの? 護」
と、言ってくる。
「先輩の家」
悠樹の家。悠樹の誕生日を祝うために行った。姉ちゃんには目的も言わなくちゃいけないけど、後回し。
「そう」
姉ちゃんは追及してこない。いつもと違う。俺が言わなかったから、わざわざ聞いてこないのか? いつもならこうではない。どんなに口を固く閉ざそうとしても、姉ちゃんは強引に聞いてくるのだ。
いつもの姉ちゃんではない。たったこれだけのやりとりだけで、そう分かってします。姉であり家族であり、もっとも分かり合える存在だから。
……そう……。
言ってしまえば、悠樹より、ということになってしまう。負けず嫌いの悠樹だから、それでは嫌だというだろう。いや、負けず嫌いじゃないとしても、そう言うのがおそらく普通なのだろう。
姉ちゃんは家族であり、悠樹とは恋人の関係。どっちも大切。大切に決まってる。でも、sn大切のベクトルが違う。
姉ちゃんがリビングに戻ろうとしたから、俺は後を追いかけるように靴を脱いで中に入る。
「何か良いことあった? 」
クルっとスカートを翻しながら、姉ちゃんは俺のほうに向きなおる。
「え……? いいこと? 」
「そ。いいこと。護にとっていいこと」
俺にとって。このタイミングで聞かれるということは、もちろんあのこと。悠樹と付き合うようになったこと。悠樹と恋人の関係になったということを、姉ちゃんに伝えないといけない
「どうなの? 」
姉ちゃんが距離を詰めてきた。一瞬、そんな錯覚をおぼえた。姉ちゃんの声に力が入った、ただそれだけのことだった。
……言うのか……。
分かってる。分かっている。ただ、どんな反応を示すのかが分からない。普通に、おめでとう、と言ってくれるだろうが、それだけで終わるわけがない。だって、姉ちゃんだし。
「あったよ……」
どう続けるべきか。どう言えばいいか。悠樹と付き合うことになった。素直にそう言えばいい。ただそれだけのことだけど、口がうまく回らない。気恥ずかしさが先行してしまう。
「やっぱり。護は顔に出やすいタイプだかんねぇ」
姉ちゃんはクスっと笑う。あまり見ない笑み。姉ちゃんが笑うところをめったに見ないとかそういういみではなくて、何か寂しそうに笑うのが珍しい。
「そういうの、直したほうがいいとおねえちゃんは思うよー。まぁ、分かりやすいのは大歓迎だけどね」
考えていることが顔に出やすい。分かりやすい。よく言われることだ。
……とうとう……。
この日がきてしまったのだろうか。本格的に、護との距離を置く日が。
良いことがあった。護はそう言った。護はそれ以上は言ってこない。沙耶が追及してないからだ。
いつも聞き過ぎていた。護のことを気にしてなかった。護に隣にいてほしいから、護の交友関係が気になった。
……姉として……。
もちろん、姉としてだ。姉として。姉。姉。姉。
「姉ちゃん」
護の声が背後から聞こえる。もちろん、姉ちゃんと護は呼ぶ。おかしくない。おかしくないのだ。
「俺って、そんなに分かりやすい? 」
「うん」
リビングに入り、護の方を振り向くことなく声を作る。護を見ない。
「まぁ、私はお姉ちゃんだからね。護の」
言い聞かせるように。自分に。自分に制限をかける。かけないといけない。
「護をずっと見てきたから余計にね」
「それはそうかもしれんが…………。先輩とかにも言われるし」
「あはは。それは仕方ないよ」
「仕方ないのかよ」
「うん」
護の家族としての沙耶よりも護と一緒にいる時間が短いのに、分かる。それは、護が本当に分かりやすいとか、そういうことではないのだ。
……そう……。
短い時間。それだとしても、護と過ごす時間は濃厚なのだ。短くても、内容が濃いから長い時間と匹敵するのだ。でも、感じる時間は短い。
だから、だから、感じるのだ。想ってしまうのだ。より、護のことを。無意識に、こうなってしまう。
無意識だから。
「止められない………………」
「ん? 何か言った? 」
すでに、護はソファに腰を下ろしていた。
「何も」
立ったままだとおかしいから、沙耶も隣に。ずっと立っていてもいいのだけれど。
護は、服をパタパタさせて、中に風を送っている。ずっと家にいた沙耶でも暑いと感じるのだから、家に戻ったきたばかりの護は暑いと思っているに決まってる。
座ったばかりだけど、沙耶は立ち上がる。
「はい。うちわ」
テーブルの上に一つ、うちわが置いてあった。さっきまで自分が使っていたもの。
「さんきゅ。姉ちゃん」
護が右手でそれを受け取る。それを見て、沙耶はさっきとは逆の方、護の左側に座る。
護がうちわを動かすたびに、沙耶の方にも風がくる。うん。一石二鳥。いや、一石三鳥くらいか。
……護の匂い……。
ずっと感じてきた匂い。昔から。一緒のベットで寝たこともあるし、抱きついたりすることもよくある。だから、護がいつもどんな匂いをしているのか。それくらいのことが分かってしまう。
今は、汗の匂いがたくさん。少しだけ、護の頬に汗が流れている。
……護……。
いつもと同じであり、しかし、どこか違う。そんな時の流れ。
……護の匂い……。
護の匂い。沙耶が家に戻ってきてからは、頻繁に他の女の子の匂いが、護の匂いと一緒に混じっていた。
何種類も。
何種類も、ということは、それだけ護と触れ合ってる女の子が、護と同じ空間にいる女の子が多いことを意味する。
……変だよ……。
無論、自分が、だ。こんなことを考えてしまう、自分が。
沙耶は姉なのだ。姉である以上。その関係しか護に求められない。他の女の子とは、そこが決定的に違う。最後の一歩が踏み出せない。
……いや……。
無意識のうちにやっていた。そんな可能性だってある。過度なスキンシップ。ちゃんと自覚している。だけど、抑えられないのだ。
……この匂いは……。
意識しないように。そう思っていても、流れ込んでくる。護が沙耶の中に。そして、女の子の匂いも。
……悠樹ちゃん……?
何回か会っている。会っているから、悠樹の匂いを覚えている。おかしなことだ。護との関わりのある女の子だから、なおさらだ。
「そういうこと……」
ボソッと、ひとりごとのように、沙耶は呟く。もちろん、護の耳には届いてない。
悠樹の匂い。護の身体から発せられる、悠樹の匂い。
それは強いものだった。普通にしていれば、ここまで匂いが移るわけがない。
……はぁ……。
何をしていたのか気になる。ある程度のことは予想出来てしまうのだけれど。
……いいこと……。
そうなのだろうとは思っていたし、護もそう言ったわけだし、もう確定でいいだろう。
「それにしても、本当に熱いねぇ……」
いつもを装いながら、沙耶は立ち上がる。このまま護の隣にいることがいたたまれなくなったから。
「クーラーの温度下げるか……」
護もそう言っている。
「んじゃぁ、下げるね」
「ありがと」
設定温度を二七度から二六度へ。これで、一段と部屋の中は、護と一緒にいるこのリビングが、涼しくなる。
「座らないのか? 」
リモコンを元あった場所に戻してもなお護の隣に戻らない沙耶。当然といえば当然だし、不自然といえば不自然となる。
「まぁね」
ソファは護が座っているやつの一個だけではない。その向こう側にもある。でも、座らない。そこに座るのはよりおかしいから。




