チャンス #1
……あ……。
お手洗いに行きたい。ちょっとだけしていた緊張がほぐれてしまったからか、渚は不意にそう思った。もちろん、護が隣にいるから、緊張が解けたのである。
何か話したわけではない。護が隣にいるだけ。それだけでいいのだ。
キョロキョロと、周りを見渡す。
自分達の近くにいた咲夜は離れてしまい、成海達の方にその歩みを向けている。杏も佳奈も話し込んでいる。
……なら……。
ここは護に頼むべきなのだろう。護はこの家のことを知っている。女の子のトイレに付き添う。そのこと自体が嫌だったりするかもしれないけれど、護は断らない。断らないということを、渚は知っている。
……ということは……。
二人きりになれる。
ただ、トイレに行くだけ。何もおかしなところはない。誰かが不信に思うこともない。
これは、絶好のチャンスなのかもしれない。いや、絶好のチャンスであろう。
ちょうどいいことに、護は皿に取った分を食べ終えたようで、今ならフリーだ。
「ま、護君………………っ」
「何ですか? 」
「護君は……、ここに来たことがあるんだよね……? 」
「あ、はい……。そうですね」
「じゃぁ…………、お手洗い……ついてきてくれない……? お願い」
……おとととと……。
渚先輩からの、とんでもない頼みごと。いや、別に普通といえば普通かもしれない。分からないけど。
「俺が………………ですか? 」
「う、うん……」
恥ずかしいのか、渚先輩の顔は少しだけ赤くなっている。そりゃ、そんな頼みごとをしようものなら、そうにもなるだろう。
俺に頼んだということは、佳奈、杏先輩、咲夜さんには頼めないということなのだろう。
待っていればいいと思うのだが、それほど急ぐということなのだろう。
まぁ、別に断る理由ないし、いいか。
「分かりました」
「ありがと。護君」
「ごめんね。護君」
「気にしなくていいですよ」
中庭から家の中に戻る。
洗面所があったあの場所に、トイレもあったはずだ。近いから、この広すぎる家を動き回る必要はない。
部屋の扉は引き戸になっているから、扉を引いて、渚先輩を先に。俺は後から。
「ありがとう。護君」
「いえいえ」
後ろ手で扉を閉める。
佳奈の家の部屋は、どこも広い。この洗面所もそうだ。普通の家では考えられないほどの広さがある。
「ここで、待っててもらえる? 護君」
「あ、はい…………」
待つんですか。先に帰ってもいいですか、と聞こうとしたんだが、その言葉を言う前に飲み込むことになった。まぁ、別に困りはしない。
渚先輩が、トイレの中に消えていく。
……護君が……。
すぐ近くにいる。このトイレの扉を挟んだその先にいる。
この洗面所。この部屋に二人きり。あの場に戻るまで、護と二人きり。そんな時間を過ごすことが出来る。
……好き、なのかな……。
この感情の所在が、ちょっとだけ分からない。
護が好き。その気持ちは、間違っていないだろう。ベクトルは違っても、正しい気持ちだ。
……無駄には……。
無駄にはしたくない。この気持ちを。
この気持ちを無駄にしないためには、護と付き合うことが必須の条件。
無駄か、そうでないのか。それは、自分の気持ちの持ちようだ。自分が思えば、そういうことになってしまう。
護が渚以外の誰かと付き合ってしまったら、今持っているこの好きだという気持ちを沈めざるを得ない。
絶対報われないのに、思い続けても意味がないからだ。
だから、悩んでいるのだ。
今、この二人きりの、この空間。これは、チャンスだ。チャンス以外の何物でもない。
このチャンスを生かすべきなのだろうか。いな、生かすべきなのだろう。
でも、悩む。
護を想っているこの気持ちを無駄にしたくないから。絶対に、絶対に、絶対に。
「ねぇ、護君…………」
「何ですか? 」
護はそこにいる。待っていてくれている。
……やっぱり……。
「佳奈先輩の家って広いね…………」
……ダメだ……。
言えない。もう少し後になってからにしよう。
「ここまでくると、掃除とかかなり大変だと思いますけどね。羨ましくはあります」
佳奈も掃除をしているだろうが、一番大変なのは咲夜さんだろう。この家のメイド? 執事? なんだから。
そう考えたら、本当に、咲夜さんは凄いと思う。
今日だって、全部料理を作ってくれたのだ。疲れることだってあるだろう。それなのに、咲夜は、そういうことを表に出したりはしない。
「護君の家だって大きいよぉ? 私、びっくりしたもん」
「そうですか? まぁ……、そうかもしれませんね」
まぁ、広いと言われれば広いのだろう。だけど、あんまり気にしない。狭かろうが広かろうが、そこには人が住んでいる。
「また、行かせてね? 護君の家に」
「はい。いつでも構いませんよ」
姉ちゃんが家にいる時だったら何を言われるか分からないけれど。別に姉ちゃんがいたら困るわけではないけれど、色々と詮索される可能性があったりするから、それがちょっとだけ。
……約束……。
約束だ。護の家に行くという約束を。
二人だけの秘密。この場での約束だから、もちろん、自分達しか知らない。他の皆は、知り得るはずがない。
もしかしたら、バレてしまうかもしれない。自分のせいで。
護の家に行ける。そのことだけで、嬉しくなってしまう。顔がにやけてしまう。
それを勘付かれてしまったおしまいだ。この思いを胸に秘めておかないといけない。誰にも知られないようにしなければならない。
だって、二人きりになれるのだから。今日みたいに、他の人のことを気にしなくてもいい。正真正銘の二人きりになれるのだから。
「いつがいいですか? 渚先輩」
「うーん。そうだねぇ……」
やっぱり、テストが終わってからだろうか。それとも、夏休みに入ってからだろうか。
……そっか……。
夏休み。夏休みだ。
さらっと流してしまいそうになったが、もうすぐしたら夏休みなのだ。学校で護と会えなくなる。部活はあるだろうが、その数だって限られている。毎日あるわけではない。
「夏休みになってからでもいい? 」
「詳しい日は、後で決めますか? 」
「うん。そうしよ? まだ夏休みのどの日が空いてるとか、分からないことも多いから」
部活がある日は除きたい。部活がない日に会いたい。せっかくだから。