修羅場のはじまり #1
体育館の扉をゆっくりと開けると、胡桃ちゃんが言っていた通り、薫と咲、そして葵が待ってくれていた。
「お帰り、護。胡桃ちゃんも」
「おぅ」
「待っててくれてたんですか。すいません」
ぺこり、と胡桃ちゃんは頭を下げる。
「気にしないで。胡桃は着替える? そのまま帰る? 」
汗をかいた体操服で家まで帰るのか。ちゃんと別の服に着替えて帰るのか。その選択。
もちろん、薫と咲は着替えていた。葵も、ここに来た時と同じ服に戻っている。手には、体操服が入っているだろうと思われる袋。そりゃ、洗濯しないといけないしな。
「着替えたいのは着替えたいですけど………………。持って来るの……忘れたような気がします…………」
「あちゃー。そうなのか。仕方ないねぇ」
あ、何か、俺もやらかしてるような気がする。
そして、確認する必要もない。俺は家で着替えて、ここに手ぶらで来た。着替えなんて持ってきてるはずがない。
まぁ、家近いし、戻ればいいだけの話。
「護は着替える? 着替えるなら、あたし達は待つよ? 」
薫がそう言ってくれるが、大丈夫。持ってきていない。完全に気が抜けていた。
「俺も着替え持ってきてないんだわ…………」
「護も忘れたの? 」
「護君……手ぶらでしたしね」
「すっかり忘れてたわ……」
この後、七夕パーティーがあるから、風呂とかも入らないといけない。
昼くらいには風見駅には行っておこう、なんて葵と話をしていたが、それは無理。お昼ご飯だって、食べないといけないし。まぁ、遅れない程度。でも、早目に。他の人を待たせたりはしたくないし。
佳奈の家で行われる七夕パーティー。参加するのは、青春部は全員。これは当然。そして、その皆の友達やらなんやらで、計一四人。
心愛、薫、葵、悠樹、成美、渚先輩、佳奈、杏先輩、遥、真弓、ラン、ララ、咲夜さん。これで全員。楽しくなること間違いなしだ。
「あ、そだそだ。お昼時だけど……皆はやっぱり家戻って食べる? 」
「そりゃ、そうだな……」
あ、でも、元々家に戻るのは今日の夜のはずだったし、さっき、家に着替えるために戻った時も、昼ごはんはいらないから、なんてことを言ったような気がする。外食するお金あるのだろうか。
まぁ、いざとなったら葵が貸してくれるかもしれないが、そういうことは頼みたくない。女の子の勘定を持つことはいいが、勘定を持ってもらうのはちょっと嫌かもしれない。変なプライドかもしれないけど。
「やっぱりそうだよねぇ…………」
「そういう咲はどうなんだ? 」
「ん? あたしは久し振りに護の家に行ければなぁ、なんて思ってたりしたんだけど、そんな唐突には無理だよね。予定とかもあるだろうし………………」
……宮永さんの家で……?
もちろん、会話の流れ的にお昼ご飯を食べるということになるのだろう。そして、もしこの案を、咲が提案したものを護がOKしたなら、咲、薫、葵の三人は、確実に護の家に行くだろう。
胡桃だって行きたい。だけど。
「ゴメンゴメン。本当に急すぎるよね……。今のは忘れて」
あはは、と乾いた笑を浮かべながら、咲は自分で出した案を取り下げる。
自分でも無茶なお願いだと分かっていたのだろう。それなのに、口からポロッと出てしまった。その気持ち、分からなくもない。
「頼んでみてもいいぞ? 」
……え……?
「頼んで……くれるの? 」
「そんな、護のお母さんにも悪いし…………」
「無理しなくてもいいんですよ? 護君」
本当は行きたいはずであろう薫と葵も、自分の思いを抑えている。もちろん、咲も。
「無理はしてねぇよ。この時間ならまだ母さんもご飯作ってないだろうし。そもそも、母さんは大勢で食べる方が好きだからさ」
「それは……そうだけど……」
薫が護の言葉に同意する。それもそうだ。薫は護の幼馴染。家族ぐるみで仲が良い。知ってて当然なのだ。
「本当に頼んでくれるの……? 」
「あぁ」
行けるかどうか。それはまだ分からない。だけど三人の表情は、行ける、ということは確信しているようだ。
胡桃は護の母のことを知らない。だけど、護の母親。優しいに決まっている。何か理由がない限り、断るということはしないだろう。
キュルルルル。
……あ……。
何やら可愛らしい腹の虫の音が聞こえた。それも二重だ。誰から発せられた音なのか。すぐにわかった。
「わわ…………」
「あはは。久し振りに白熱しちゃったからかなぁ……」
葵と咲が、恥ずかしそうに自分のお腹を押さえる。
「ほら、それなら俺の家の方が良いだろう? 二十分もあれば家に着くわけだし」
「そだね」
「すいません……」
その音が決定を決めるものとなった。
「胡桃ちゃんも来るか? 」
「え……………………? 」
自分には振られない話だと思っていた。そこに自分が入るのは烏滸がましいと思っているからだ。
それに。
……優しくしないでください……。
胡桃はそう言った。保健室で、二人きりの空間で、そう言ったのだ。これ以上、護を好きになりたくなかったから。
それなのに、自分で壁を作ったというのに、その壁はいとも簡単に崩れようとしている。その壁は護側から崩されようとしている。
理由は簡単。胡桃が優しさだと思った今のことを、護はそうだと思っていないからだ。当然なことだと思っているからだ。
やさしくしないでください。それは無茶な注文だったのかもしれない。護的にも自分的にも。
「胡桃ちゃんもお腹、すいてるだろ? 」
「でも……体操服ですし……。汗もたくさん……」
そうだ。断る理由がある。断るのに相応しい理由がある。
護の家には行きたい。だって、これまでに行ったことがないのだから。
でも、この姿ではいけない。やっぱり、少し気にしてしまう。