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境の山

作者: くるみ
掲載日:2026/05/04

――雨の匂いは,記憶を呼び起こす.


霧の多い土地だった.山が低く連なり,境界が曖昧で,遠くのものほど輪郭を失う.人も同じだった.誰もが互いをよく知っているようでいて,決して踏み込まない距離を保っている.


診療所の裏に山がある.

遊歩道があり,地図にも載っている.だが,誰も入らない.

理由を聞いたとき,受付の女性は静かに言った.


「行かない方がいいですよ」


危ないのかと尋ねると,彼女は首を振った.


「そういうことじゃないんです」

それ以上は,説明されなかった.


子どもが一人,いなくなったのは,梅雨入り前の夕方だった.

母親は診療所に運び込まれ,何度も同じことを繰り返した.


「あの子,山に……」


それを聞いた瞬間,周囲の空気が沈んだ.

誰もが目を逸らし,言葉を飲み込んだ.

警察は来たが,山には入らなかった.

外側をなぞるように捜索して,形式だけ整えて帰っていった.


納得できなかったのは,私だけだった.


夕方,ひとりで山に入った.

道は整っていた.

人の気配がないはずなのに,踏み固められている.

少し進むと,音が消えた.

鳥も,風も,自分の呼吸さえ遠い.

足音だけがやけに大きく響く――はずだった.


ふと気づく.

自分の足音が,聞こえない.

立ち止まっても,確かめても,何も戻らない.

ただ,静けさだけがある.


道の脇に,古びた祠があった.

その前に,子どもの靴が揃えて置かれている.

泥で濡れているのに,妙に整っていた.


そのとき,背後で,気配がした.

振り返る.誰もいない.

だが,確かに「見られている」と分かる.

霧の向こうに,輪郭の曖昧な人影が立っていた.

こちらを見ている.動かないまま,距離だけが近い.

逃げなければと思うのに,足が動かない.

いや――動いているのかどうかさえ分からない.


「先生」

後ろから声がした.

振り返ると,行方不明の子どもが立っていた.

濡れた髪で,静かにこちらを見ている.

「帰りましょう」

そう言って,手を差し出した.

その手は,小さくて,異様に軽かった.

ためらいがなかったわけではない.

だが,私はその手を取った.

冷たさが,骨の奥まで染みてきた.


気づくと,診療所の前に立っていた.

雨が降り出している.

山は,いつも通りそこにあった.

子どもはいない.

ただ,手のひらに,乾ききらない泥の感触だけが残っていた.


翌日,母親が来た.

「見つかりました」

そう言って,深く頭を下げた.

どこで,とは聞かなかった.

聞くべきではない気がした.

周囲の誰も,何も言わなかった.


それ以来,山には入っていない.

雨の日になると,ふと手のひらを見る.

泥はもう残っていない.

だが,ときどき,冷たい感触だけが,はっきりと蘇る.


ーーー


ある帰り道のことだった.

雨に濡れた舗道を歩いている.

街灯に照らされて,影が長く伸びる.

水たまりを踏むたびに,はねる音がする――はずだった.


私は足を止めた.

もう一歩,踏み出す.


それでも,

自分の足音だけが,どこにもなかった.

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