境の山
――雨の匂いは,記憶を呼び起こす.
霧の多い土地だった.山が低く連なり,境界が曖昧で,遠くのものほど輪郭を失う.人も同じだった.誰もが互いをよく知っているようでいて,決して踏み込まない距離を保っている.
診療所の裏に山がある.
遊歩道があり,地図にも載っている.だが,誰も入らない.
理由を聞いたとき,受付の女性は静かに言った.
「行かない方がいいですよ」
危ないのかと尋ねると,彼女は首を振った.
「そういうことじゃないんです」
それ以上は,説明されなかった.
子どもが一人,いなくなったのは,梅雨入り前の夕方だった.
母親は診療所に運び込まれ,何度も同じことを繰り返した.
「あの子,山に……」
それを聞いた瞬間,周囲の空気が沈んだ.
誰もが目を逸らし,言葉を飲み込んだ.
警察は来たが,山には入らなかった.
外側をなぞるように捜索して,形式だけ整えて帰っていった.
納得できなかったのは,私だけだった.
夕方,ひとりで山に入った.
道は整っていた.
人の気配がないはずなのに,踏み固められている.
少し進むと,音が消えた.
鳥も,風も,自分の呼吸さえ遠い.
足音だけがやけに大きく響く――はずだった.
ふと気づく.
自分の足音が,聞こえない.
立ち止まっても,確かめても,何も戻らない.
ただ,静けさだけがある.
道の脇に,古びた祠があった.
その前に,子どもの靴が揃えて置かれている.
泥で濡れているのに,妙に整っていた.
そのとき,背後で,気配がした.
振り返る.誰もいない.
だが,確かに「見られている」と分かる.
霧の向こうに,輪郭の曖昧な人影が立っていた.
こちらを見ている.動かないまま,距離だけが近い.
逃げなければと思うのに,足が動かない.
いや――動いているのかどうかさえ分からない.
「先生」
後ろから声がした.
振り返ると,行方不明の子どもが立っていた.
濡れた髪で,静かにこちらを見ている.
「帰りましょう」
そう言って,手を差し出した.
その手は,小さくて,異様に軽かった.
ためらいがなかったわけではない.
だが,私はその手を取った.
冷たさが,骨の奥まで染みてきた.
気づくと,診療所の前に立っていた.
雨が降り出している.
山は,いつも通りそこにあった.
子どもはいない.
ただ,手のひらに,乾ききらない泥の感触だけが残っていた.
翌日,母親が来た.
「見つかりました」
そう言って,深く頭を下げた.
どこで,とは聞かなかった.
聞くべきではない気がした.
周囲の誰も,何も言わなかった.
それ以来,山には入っていない.
雨の日になると,ふと手のひらを見る.
泥はもう残っていない.
だが,ときどき,冷たい感触だけが,はっきりと蘇る.
ーーー
ある帰り道のことだった.
雨に濡れた舗道を歩いている.
街灯に照らされて,影が長く伸びる.
水たまりを踏むたびに,はねる音がする――はずだった.
私は足を止めた.
もう一歩,踏み出す.
それでも,
自分の足音だけが,どこにもなかった.




