第一話
プロローグ
もう、うんざりだ。
繰り返される世界。繰り返される人生。繰り返される、物語。
ドラマなんかいらない。喜劇なんかいらない。悲劇なんかいらない。
私はただ、お母さんと仲良く暮らしたかった。それだけ……それだけが、私の本当の望み。
でも、世界はそれを許さない。神はそれを許さない。
私はひたすらに、この役割を演じることしか出来ない。
だけど、もう限界だ。こんな世界は、もう嫌だ。
与えられた私は、もう御免だ。
誰にも邪魔なんかさせない。たとえそれが、神であっても。
私は、自分の意思で歩く。
第一幕
人影もまばらな、夕方の校舎。その中でも、特にこの図書室には人がいない。皆、あまり本を読まないのだろうか? ここにいるのは、いつも私だけ。
ふと、目を凝らす。周りには、もちろん誰もいない。窓から差し込む夕陽が、部屋の中を紅く照らしているだけだ。
ふと、耳を澄ます。聞こえてくるのは、私が本をめくる音だけ。騒がしい現代社会の中――まるで、ここだけが現実とはかけ離れた、全く別の世界であるかのようだ。
ふと、鼻を利かす。やや古ぼけた紙とインクの匂い――芳しい本の匂いがする。人によってはカビ臭いだなんて言って顔をしかめるだろうが、私はこの匂いが大好きだ。
私は本が好きだ。特に童話と呼ばれるものが好きだ。童話は良い。悲しい物語もあるけれど、その多くは夢や希望に溢れている。
今、読んでいるものもそうだ。ヒロインのお姫様は、母親に何度も殺害されそうになってしまうが、最後には王子様と結婚して、幸せになる――そう、ご存知『白雪姫』だ。
やはり物語――特に童話は、ハッピーエンドに限る。悲しい結末は、どうも苦手だ。
「……ふぅ」
小さく感嘆の息を漏らし、私はパタンと本を閉じた。
名作は、何度読んでも素晴らしいものだ。かくいうこの物語も、物心ついた時から数えきれないほど読み返してはいるが、今でも読み終えた後は心が躍る。
――彼女はこれから、一体どんな生活を送るのだろうか?
そんなことを考えるのが、堪らなく楽しい。きっと世界中の女の子が憧れる、夢のように幸せな生活を、愛する人と共に送っていくのだろう。何とも羨ましい限りである。
と、その時だった――天井に取り付けられたスピーカーから、下校の時間を知らせる放送が流れてきた。
窓に映る夕焼けも沈みかけている。もう数分もすれば、辺り一面真っ暗になってしまうだろう。完全にそうなってしまう前に――早く帰った方が良さそうだ。
だがその前――帰る前に、この本を元の棚に戻しておかなければならない。私は隣の椅子の上に置いていたバッグを手に取ると、『白雪姫』をもう片方の手に持ち、ゆっくりと席を立った。
童話が置かれている本棚は、この無駄に広い図書室の隅の方にある。日の光が当たらない――電灯がなければ、昼間でも薄暗い場所だ。
その本棚の、ちょうど一冊分空いているスペースに、私は『白雪姫』を納めた。その同じ段には、『シンデレラ』や『赤ずきん』などの有名なお話から、『手無し娘』といった少しマイナーなものまで、多種多様に並んでいる。利用者が少ないというのに、何とも蔵書数だけは優れた図書室だ。まぁ、私にとっては嬉しい限りなのだけれども……。
「さて、それじゃあ帰――ん?」
その時――隅の棚の、そのまたさらに隅の方に、一冊の変な本があるのを私は見つけた。背表紙にはタイトルも、著者も、何も書かれていない。ただ単に黒い――真っ黒な本だ。
「何、この本……?」
こんな本、今までこの棚にあっただろうか? この学校に入学してから、暇さえあればここで本を読んでいるけれども、全く覚えがない。もしかして別の棚にあったものを、誰かが片付けの際に、面倒臭がってここに入れてしまったのだろうか。だとすれば、マナーがなってない。
私はおもむろに、その本を棚から抜き取った。
一般的なサイズの、パッと見ただけでは何の変哲もないハードカバー型の本。その表紙と裏表紙は、背表紙と同様にひたすら黒い。しかも不思議なことに、蔵書管理をするためのバーコードがどこにも貼られていなかった。
「変な本……。一体どういう意図で作られたんだろ? というか、これって、もしかして図書室の本じゃないんじゃ……」
パラッ。私はページを一枚めくってみた。まさか中身も黒一色なのではないか――そう思ったが、決してそんなことはなかった。ただその代わりに、ひたすら何も書かれていない――真っ白が続いていたわけだが。
「……メモ帳なのかな?」
もう一枚、パラリとめくる。広がっているのは、変わらず白一色――かと思いきや、今度はページの冒頭部分に小さくアルファベットが打たれていた。
「Grimm……グリム?」
と、その刹那――
「……え?」
突如、キィインという耳障りな音が辺りに鳴り響いた。いや、耳障り――不快なんてものじゃない。長時間に及んで聞いていると、気が狂ってしまいそうだ。
「何……? 何なの、これ!?」
私はその場で――まるで倒れるように――膝をついた。それと同時に、手に持っていたバッグと黒い本が、バサッと床に落ちる。だが、いきなり謎の怪音に襲われた今の私にとっては、そんなことはどうでもよかった。
両手でしっかりと耳を塞ぐが、これっぽっちも効果はない。まるで頭の中で鐘が鳴っているようである。
「うっ……!?」
気持ち悪い。吐き気がする。このままでは鼓膜が破れてしまいそうだ。思わず、私は両手を耳に当てたままで、その場にうずくまる。だがしかし、それでも頭の中の鐘は鳴りやまない。むしろ段々と、その音量を上げていっているくらいだ。
「いや……あぁああぁあっ!?」
次の瞬間――テレビの電源が落とされた時のように――操り人形の糸が千切れてしまった時のように――この謎の音に耐えきれなかった私の意識は、そこでプツッと途切れた。
第二幕
どれくらい時間が経っただろうか――ふと香ってきた甘い匂いに鼻を刺激され、私は目を覚ました。
どうやら頭の中の鐘の音は、もう鳴っていないらしい。私はゆっくりと体を起こし――そして目の前の光景に、思わず自分の目を疑った。
「ここ……どこ?」
涼しげな風が頬を撫でる。まるで唄を奏でているかのように、鳥達が囀っている。そして木洩れ日が辺りを照らし、目の前には色取り取りの可愛らしい花々が咲き乱れている。
私は、森の中の花畑に、ひとり佇んでいた。
「……え? どういう……こと?」
これは夢だろうか? いや、しかし夢にしてはリアルすぎる。つまり、これは現実? だが、それでも自分の目の前に広がっている光景が信じられず、私は自身の頬をギュッとつねった。痛い――ということは、やはりこれは夢ではないのだろうか……。
しかし夢でないというのなら、これは一体どういうことなのだろう? 私は学校の図書室で気を失ったはずだ。それが目覚めてみると、そこは屋外――しかも図書室にいた時は沈みかけていた太陽が、今は遥か上空で燦々と輝いている。
何十時間も気絶していて、その間に外に運ばれたとでもいうのか? 誰に? 何のために? 考えるほど分からなくなる。
と、その時――私はハッと、あの『黒い本』のことを思い出した。思えば、あの本を開いてから変なことが起こったのだ。あの本に、何かあるのかもしれない。
私は黒い本を求めて、辺りを見回した。だが、いくら探しても本は見つからない。それどころか、私のバッグもない。いや、それよりも不思議なことに――私自身が着ている服すら、おかしなことになっていた。
先程まで――私が気を失う前まで着ていたはずの制服がなく、その代わりに、水色の袖付きワンピースと白いエプロンが私を包んでいた。まるで兎を追いかけて不思議な国に入り込んだ、あの有名な少女のような姿である。
「一体何なの、これ? 何が何だか……」
呟きながら、私は再び辺りを見回した。
誰か人はいないのだろうか? せめて、ここが何処かということだけでも聞きたいのだが……。
と、花畑の向こうに見える遊歩道らしき道の、さらに向こうの方に人影があるのを、私は見つけた。赤い頭巾を被り、手にはバスケットを持った小さな女の子で――楽しそうにスキップをしながら、真っ直ぐにこちらを目指している。
「わぁ~、本当に素敵なお花畑。このお花を摘んでいけば、おばあちゃんもきっと喜ぶわ」
花畑に到達した女の子は、まるで見えない誰かに語りかけているかのように独り言を漏らすと、その場にしゃがみ込み、鼻歌まじりでせっせと花々を摘み始めた。どうやら目の前の花に夢中で、私の存在にはこれっぽっちも気付いていないらしい。
地味な方ではあると思うが、そこまで存在感が薄いだろうか、私……。
「あ、あの……」
私は女の子の傍まで近寄ると、恐る恐る声を掛けた。
――これでも無視をされたらどうしよう?
一瞬、そんな心配をしたが――さすがに今度は、彼女も私の存在に気が付いてくれたようであった。
「あら、こんにちは。あなたは、お花の妖精さん?」
「え!? い、いや、妖精ではないんだけど……。あの、ここが何処か教えてくれないかな?」
「ここ? ここは森よ。あっちに行けばあたしのお家があって、そっちに行くとおばあちゃんの家があるのよ」
女の子はそれぞれ別々の方向を指差して言うと、そのまま言葉を続けた。
「あたし、今からおばあちゃんの家にパンとワインを届けに行くの。それと、このお花も持って行くのよ。おばあちゃん、きっと喜んでくれるわ。だってこんなに綺麗なんだもの」
そう言ってニコニコと笑う――まさに無邪気、純真などという言葉が似合うだろう――女の子。そんな彼女に、私はとても不思議な印象を受けていた。
そもそも恰好からして変わっている。フワッとしたワンピースに、赤い頭巾。そしてパンとワインの瓶が入ったバスケット――まるで童話の『赤ずきん』のような姿だ。非常に似合ってはいるが、とても普段着とは思えない。
それに何と言うか――喋り方や立ち居振る舞いが、何だか自然ではないのだ。そう、まるでお芝居や劇で、役を演じているかのようである。
「あ! そろそろあたし、おばあちゃんの家に行かなくちゃ! それじゃあ妖精さん、また今度遊びましょう」
「え? あ、ちょっと……!」
女の子は今しがた摘んだ花の束をバスケットに入れると、私の制止も聞かずに、足取り軽やか――スキップで、早々と花畑を去って行った。それを、私はつい追いかけることなく見送ってしまう。
そして、花畑は再び私一人だけの空間になった。
「行っちゃった……」
私は女の子が消えていった方を見ながら、深く溜息をついた。
今思えば、あの女の子と一緒に行けばよかった。そうすれば、あの子のおばあちゃんに会い、ここが何処かということを聞けただろうに……。
……いや、まだ遅くはないか? この位置からはもう姿は見えないが、子供の足なら、まだそんな遠くには行っていないはずだ。今追いかければ、まだ間に合うかもしれない。
「……うん、行こう。いつまでもここにいたって仕方ないし……」
考えても意味がない――とにかく動こう。そう思い、私は花畑から、女の子が消えた森に足を踏み入れようとした。
しかしその時――
「キキ……キキキっ……」
どこからともなく響いてきた、地を這うように低く、怪しく不気味な声。その声に、私は思わず足を止め、すかさず辺りを見回した。しかし、周りには人どころか、鼠一匹いない。それでも、声は再び聞こえてきた。
「イレギュラー……キキッ……発見次第……殲滅……殲滅……」
「何……? 誰!? どこにいるの!?」
次の瞬間、不定形の黒い塊が――まるで地面から染み出してくるかのように――私の前に姿を現した。さらに私が驚いて後ろに下がると、黒い塊は少しずつ形を変え、最終的には二本の角らしきもの生やした、三メートルはあろうかという巨人に変化――その顔の部分にはギョロッとした目が一つあるだけで、それ以外は黒い。全身が、塗りつぶしたように真っ黒だ。
「ば、化け物……!?」
私は、一体何が起きているのか理解できなかった。こんなこと、とても現実のものとは思えない。だってこんな……まるでファンタジー小説みたいなこと、実際にあり得るはずがない。こんな状況、あり得ない!
「キキキキキキ……殺す……殺す殺す……」
化け物はそう呟くと、ゆっくりと私に近づいてきた。その目は、ジッと私のことを射抜いている。
一方、私は化け物とは対照的に、距離を取ろうと後ずさりをする。本当は後ろに振り返って、全速力で走って逃げた方がいいのだろうが――今の私には、そんなことに気付く余裕すらなかった。ただひたすら目の前の存在が信じられず、自分の目を疑うことだけに精一杯で、現実的なことにまで頭が回らなかったのだ。
「な、何――何なの!? 来ないで……!!」
喉から絞り出した声で、私は叫んだ。だが、化け物はそんな私の言葉を聞こうともしない。
と、その時――草に足を取られ、私はその場で盛大に尻もちをついてしまった。ジーンとした臀部の痛みと共に、すぐ目の前にまで迫った恐怖感が私を襲う。
恐怖の塊は、私を遥か眼下に見下ろすようにして立つと、その漆黒の腕をブンッと振り上げた。太く、巨大な、まるで丸太の様な腕――もしもあんなものが振り落とされてしまえば、私は……私は――。
「き……きゃあぁああぁあッ!?」
私の悲鳴と同時に、怪物の腕がピクリと動いた。
しかしその刹那、私の視界に『何か』が横から入り込んできた。それを、私は思わず目で追ってしまう。次の瞬間、『何か』は化け物の目に直撃した。
化け物に当たった『何か』――それは、一本のナイフであった。ナイフが突き刺さった化け物は、腕を振り下ろすのも忘れ、声にならない声を上げつつ、苦しそうにもがき始めた。そして少しすると――まるで出現時を逆再生したかのように――忽然と地面に姿を消したのであった。
「はぁ……はぁ……」
私は肩で息をしながら、ゆっくりと立ち上がった。
泣きそうだ。まだ足が震える。今の化け物は、一体何だったんだ? これは本当に、現実なのか?
と、そこに――ガサッという草の音がして、私は慌ててそちらの方に振り返った。するとそこには、私と同じ――もしくは少し年上くらいの女性が二人、立っていた。
一人はとても綺麗な人だ。黒檀のように黒い髪と、雪のように白い肌、血のように赤い唇――そして切れ長の凛々しい目を持っている。動きやすそうなズボンタイプの衣服に、腰には右側と左側にそれぞれ一つずつウエストポーチ――基調は白色。手にナイフを携えているところを見ると、さっきのは、この人がやったのだろうか?
もう一人――黒髪の女性に負けず劣らず整った顔立ちをしている女性は、金色の長い髪を風に揺らし、質素な白いワンピースタイプの衣服に身を包んでいる。恥ずかしがり屋なのか――その両の目を伏せがちにし、隠れるようにして、黒髪の女性の背中からモジモジとこちらの様子を窺っていた。
「大丈夫?」
黒髪の女性は、私の前にまで来るとそう言った。私はそれに、首を縦に振って答える。
「あ、あの……ありがとうございました」
「いいわ。それより気をつけなさい。私達イレギュラーは、常にあいつらに狙われているのよ」
「イ……レギュラー?」
聞き覚えのない単語を耳にして、私はクエスチョンマークを頭に浮かべた。
「あなた……エラと同じで、自分の意思でイレギュラーになった者じゃないのね」
「エラ……?」
「連れの名前よ」
そう言うと、黒髪の女性は、彼女の後方に控えている金髪の女性を顎で指した。するとエラと呼ばれた女性は、一瞬体をビクつかせると、少し慌てた様子でペコペコと頭を下げた。
「あなた――あなたの名前は?」
エラさんに会釈を返し、続けて私は黒髪の女性に返答をする。
「あ、私は有栖が……」
「アリスね。私は白雪よ。よろしく」
「へ? い、いや、違っ……私は有栖川――」
「さて……アリスが今置かれている状況を説明するには、まずこの世界について話す必要があるわね」
「いや、だから……!」
いくら私が名前の訂正をしようとしても、白雪さんは一向に聞こうともしなかった。どうやら彼女の中で、私の名前はアリスで確定してしまったらしい。あまり人の話を聞かない質なのか――もしくは、わざとか……。
――ん? というか……『この世界について話す』? この一文――何だか、その……とても現実的でない雰囲気がするのだが……?
「この世界は、おそらくアリス――あなたの知っている世界ではないわ」
唐突に、白雪さんはそう口を切った。それに対し、私は目をパチクリとさせる。
……私の知っている世界ではない? それは、つまり……どういうことだ? ……いや、そんな……あり得ない。今、私が考えていることのはずがない。この考えは、非現実的だ。現実逃避としか思えない。しかし――
「そ、それは、その……異世界ってこと……ですか?」
私の問いに、白雪さんはコクリと頷いた。
異世界……異世界って――まさか、そんな話を信じろと? 馬鹿な……。漫画や小説じゃないんだから、そんなことが現実にあるわけがない!
が……気になるのは、先程のあの化け物だ。あんなものも、現実に存在するはずがない。ということは、あんなものが存在しているここは、私の世界とは違う『異世界』ということになる……のか?
「異世界って……そ、それじゃあ、ここはどんな世界なんですか?」
私は恐る恐る、白雪さんに尋ねた。すると白雪さんは短く一言で、
「さぁ?」と答えた。
「この世界には、私達も今来たばかりなの。だから、ここがどういう世界かは知らないわ」
「今来たって……じゃあ、白雪さんとエラさんも、私と同じ――異世界の人ってことですか?」
「そうよ。神が作り出した二百以上に上る様々な世界――そこで、私達はそれぞれ自分の役割をこなしていたわ。アリス、あなたも同じだったはずよ。しかしある日、その役割から抜け出した――神の束縛から解き放たれた――それが私達、イレギュラーなのよ」
「か、神……?」
「そう、神――創造主――グリム」
その名前を聞き、私は思わずハッとなった。図書室にあった黒い本に書かれていた名前と同じなのだ。いや、同じなのだが――それよりも、私の頭の中では気になることがあった。
二百以上の世界――赤い頭巾の少女――白雪、そしてエラという名前――そして、グリム。これは……これはまるで――
「グリム童話……」
「……そうね。繰り返される物語――童話の世界といっても、いいかもしれないわね」
……それじゃあ、あの少女は、本当の『赤ずきん』だったということなのか? そして私は、童話の世界に迷い込んだ――そういうことなのか!?
と、次の瞬間――不意に白雪さんが氷のように冷たい視線で私を貫くと、手で弄んでいたナイフをバッと私に向かって投げた。そのナイフは、いきなりのことで全く反応出来なかった私の顔擦れ擦れを通り抜け、いつの間にか後方に出現していた化け物の眼に命中――化け物は自身の眼を手で覆い、悶えると、そのまま跡形もなく霧散していった。
「そしてアレがハンター。私達を狩る存在――神の手先よ」
何事もなかったかのように白雪さんは言う。一方、私は危うく地面にへたり込んでしまいそうになるのを、近くの樹に寄りかかることで、なんとか防いだ。
「あ、ありがとうございます、白雪さん……」
ドクドクと、張り裂けんばかりに鼓動している胸を押さえつつ、私は白雪さんに礼の辞を述べた。彼女は、それに短く「いいわ」と返すと――ウエストポーチから二本目(いや三本目か)のナイフを取り出し、再びそれを弄び始めた。
そ、それにしても……童話の世界、か。その話を信じるのならば、この二人は名前からして、『白雪姫』と『シンデレラ』……なんだろうか?(知らない人も多いと思うが、シンデレラとはCinderellaと書き、灰かぶりのエラという意味だ)しかし、だとすると二人とも、かなり私のイメージと違う気がするのだが……。
まず白雪さん。私の中での『白雪姫』は、どちらかというと清楚で可愛らしいイメージだったのだが……目の前のこの人は、ハッキリ言って怖い。冷やかな目でナイフを投げるその様には、戦慄すら覚える。
次にエラさんだが――私のイメージでの『シンデレラ』は、苦しい環境に置かれても頑張る、健気な少女である。だが、白雪さんの後ろに隠れてオドオドとしているエラさんは、とてもそんな風には見えない。(失礼だが)継母達に虐げられたら――まるで小動物のように――そのままストレスでお亡くなりになってしまいそうだ。
「あ、あの……白雪……さん……」
その時、ふとエラさんが、小さい声で白雪さんの名前を呼んだ。ここでようやく聞くことが出来たその声は――失礼な言い方になってしまうが――やはり、なんとも弱々しいものであった。
「何? どうしたの?」
白雪さんは振り向きざまに尋ねる。
「あの、その……あ、アリスさんも……連れて行くん……でしょうか……?」
「……嫌なの、エラ?」
「い、いえ……!? 仲間が増えるのは……心強い……です……」
最後の方は、もはや声量が小さすぎて聞こえなかった。その消え入りそうな声に呆れたのか――白雪さんは小さく溜息をつくと、再び私の方に向き直り、口を開いた。
「さて……私は掻い摘んで、今あなたが置かれている状況を話したのだけれど――アリスは、これからどうしたいの?」
「え!? ど、どうしたいって……?」
「イレギュラーになった以上、残された道は二つだけよ。大人しくハンターに狩られるか、とことん神に逆らうか。あなたは、どっちの道を取りたいの?」
どっちの道って……私は、そのどちらでもない――私は、ただ家に帰りたいだけだ! 白雪さん達は、私も彼女たちと同じ童話の住人だと思っているようだが、それは違う。私は童話の世界とは関係がない。何の関係もない! けど……そんなことを言ったところで、はたして通じるのだろうか?
現実的に――奇妙な話だが――今の状況を、現実的に見てみよう。(白雪さんの話を信じるのなら、だが)私は童話の世界に入り込み、そして神への反逆者と見なされたらしい。そんな私が何を言っても、あのハンターと呼ばれる化け物が聞いてくれるとは到底思えない。
ならば、私が家に帰るにはどうすればいい? 神とやらに会って、事情を話す? 元の世界に帰るための手掛かりを探す? ……ハッキリしたことは分からない。でも、あの化け物の手にかかるのだけは、絶対に違う気がする。おそらく奴らに狩られれば、そのまま命を落としてしまうだけだ! なら……なら、今、私が取るべき道は――
「……白雪さん達について行けば、私は安全ですか?」
「何とも言えないわ。私達も所詮はイレギュラー……むしろ、余計に危険が付きまとうかもしれない。安全とは、決して言えないわ。でも――」
白雪さんは、そこで一度言葉を区切った。そして改めて私の目をジッと見つめると、再び口を開いた。
「でも、一緒に来るというのなら……私は、アリスを守るわ。出来るだけ、だけど」
「……分かりました。白雪さん、それにエラさん……。あの、お願いします。私も一緒に連れていってください!」
私は目の前の二人に向けて、勢いよく頭を下げた。するとその時――頭を下げていたため、ハッキリとは分からなかったのだが――白雪さんがフッと、ほんの少し口元を綻ばせた……ような気がした。
「いいわ。一緒に行きましょう、アリス。歓迎するわよ」
「あ、あ、あの……よ、よろしく……お願いします……あ、アリスさん……」
「は、はい!」
私は元気よく返事をし、ハッと顔を上げた。その瞬間には、すでに白雪さんは元の無表情なクールビューティーに戻っていた。
「あ、そういえば……お二人も、違う世界からここに来たんですよね? 一体どうやって世界を移動したんですか?」
ふと、私は思いついた疑問を口にした。
もし二人が異世界間を移動する力を持っているとすれば、もしかしたらそれを使って、私は元の世界に戻ることが出来るんじゃないだろうか? たとえそれが適わなくても、少なからず、私が家に帰るための手掛かりにはなるはずだ。
「異世界への移動において、私達がすべきことは特にないわ。ただ時間が経って――その世界が終わる時、別の世界に飛ばされるのよ」
「せ、世界が終わる時……ですか?」
白雪さんの説明に、私は思わず唾を呑んだ。世界が終わるとは――何だか、あまり穏やかな雰囲気じゃない。
すると、そんな私の表情を読み取ったのか――白雪さんは今しがたの発言を訂正するように、再び口を開いた。
「物語――と言った方がいいわね。神の作った物語が終わると、それは新しく――また一から同じストーリーを始めるの。そうして延々と繰り返す……それが、この世界の理よ」
つまり、今いるこの世界から抜け出すためには、『赤ずきん』が終わるまで待っているしかないということか。そして残念ながら、今すぐに私が帰る手立てはない、と……。
うぅむ……何度か白雪さん達と共に世界を移動していれば、元の世界に戻ることが出来るのだろうか? それとも、この童話の世界で、あの黒い本を探す必要があるとか? ……いくら考えたところで、やはり今は何とも言えそうにない。
となれば、とりあえず今のところは、この『赤ずきん』の世界から他の世界に移動することだけを考えよう。とはいえ、白雪さんの話によると、ただ待っているだけでいいらしいが――。
と、私がそんなことを思っていたその時だった――不意に、エラさんの様子が変わった。先程までは、ただオドオドもしくはモジモジとしていただけだったのが――急に自身の頭を抱え、ガタガタと体を震わせながら、地べたにペタンと座り込んでしまったのだ。その顔は悲痛に歪み、まるで見えない何かに恐れ戦いている様である。
「エラっ!」
何が起こったのか分からない私を余所に、白雪さんはエラさんと同じように地面に膝をつくと、その戦慄いている体をギュッと抱きしめた。すると少しずつエラさんの震えは治まり、その顔も段々と落ち着きを取り戻していったようであった。
「うぁ……し、しら……白雪……さん……」
「……あいつが来るのね、エラ?」
白雪さんの問いかけに、エラさんは何度も何度も――千切れてしまいそうなほどに――その細い首を縦に振る。するとそれを見た白雪さんは、小さく舌打ちをして、エラさんを支えるように――ゆっくりと彼女と共に立ち上がった。
「ど、どうしたんですか、白雪さん? エラさん、大丈夫なんですか!?」
「エラは大丈夫よ。ただ少し――いえ、かなり面倒なことになったわ。でも説明は後。今は一刻も早く、この世界の中心人物を探さないと……」
「え? 中心人物……ですか? それなら、私さっき――白雪さん達と出会う前に会いましたけど……」
「本当、アリス? そいつは何処へ行ったの?」
白雪さんは眉をひそめ、掴みかかってくるようにして私に尋ねてきた。……正直、少し怖い。
な、何だか分からないが、どうやら緊急事態が起こってしまったらしい。正直に――嘘をつく理由もないのだが――あの赤い頭巾の女の子が行った方向を教えた方が良さそうだ。
「あの、あっちの方に――おばあちゃんの家に行くって……」
「向こうね……。行くわよ、二人とも!」
言うやいなや、白雪さんは私が指し示した方向に向かって、一直線に駆け出した。そして、それにやや遅れて、エラさんも同方向に走り始める。
本当に、何が起こっているんだ? エラさんがいきなり震えだして、白雪さんはいきなり走り出して――展開が早すぎて、私には今の状況が理解できない。誰かに丁寧に説明していただきたいくらいだ。
だが、とりあえず今この瞬間は、彼女たちを追いかけなければいけないだろう。さもなければ、また私は一人ぼっちになってしまう。右も左も分からぬ世界で、それだけは避けたい!
「ま、待ってください!」
訳も分からないまま――先を行く二人を追って、私は慌てて走り出した。
……この向こうに、一体何があるというのだろう?
第三幕
前を行く二人から逸れないように――その背中を見つめながら、私は木々に囲まれた細い道を駆け抜ける。するとしばらくは同じ景色が続いていたのだが――ふと、私達は少し開けた場所に辿り着いた。
先程までいた花畑と同様に、半径数十メートルにかけて樹が生えていない所――その中心には、質素な造りの一軒の木造建築があった。キャンプ地などによく建っているバンガローを、少し小さく、簡素にしたものと言えば分かりやすいだろうか。室内のカーテンが閉められているため、中の様子を窺い知ることは出来ないが――おそらく、『赤ずきんのおばあちゃん』の家に間違いないだろう。
「ここね……」
白雪さんは――ゼェゼェと肩で息をしている私とは対照的に――汗一粒も流さずに、キョロキョロと辺りを見回し始めた。エラさんも同様だ。二人とも、何かを探すように、そこかしこに目をやっている。
「……どうやら、まだ来てはいないようね」
「そ、そう……ですね……」
目による探索を一時中断して、ふぅ――と、二人は小さく息をついた。私はそこを狙って、今まさに抱いている疑問を投げかける。
「あの……一体どうしたんですか? ここに何か――」
「敵よ」
私が言い終わる前に繰り出された、単純で簡潔な言葉。その単語に、私は思わず体をビクつかせた。
「敵って……ハンターですか? あの黒い化け物……?」
「そうよ。でも、それだけではないわ。もっと嫌な奴が来るのよ……」
スッと、軽く目を伏せる白雪さん――その姿は、その『もっと嫌な奴』というものが、如何なる存在であるかを物語っているようであった。
「でも敵が来るなら、何で逃げないんですか? ハンターって、私達のことを狙ってるんですよね? だったら、早く逃げましょうよ!」
「それが、そうもいかないのよ。あいつは、神から幾つかの権利を委託されている。あいつは、イレギュラーでない者ですら――」
と、その刹那――突如、目の前の家から、女の子の叫び声が響いてきた。この声は……あの子――赤ずきんの声だ!
次の瞬間、素早く白雪さんが動いた。弄んでいたナイフを順手に持ち替え、弾かれたようにダッと走り出す。そして入口のドアノブを手に取ると、勢いよくそれを開け放ち、中に入っていった。
一方、その一部始終を見ていた私は、思わずその後を追った。敵が来るという話を聞いたせいで、白雪さんから離れてしまうことを好ましくなく思ったのだろう。そして、その白雪さんを追った先で広がっていた光景――家の中の状況を目撃して、私は思わず体を強張らせた。
「んン~? 何だ何だぁ?」
これは白雪さんの言葉ではない。私の後方――私達とは別に、家の外で待機しているエラさんの言葉でもない。もちろん、私のものでもない。これは奴――老婆の衣服に身を包み、腹を大きくパンパンに膨らませた、直立二足歩行の狼が発した言葉だ。
狼は流暢な言葉遣いで、そのまま続ける。
「美味そうな女が一、二……三。ぐひひっ! おいおい何だよ、今日は最高の日かぁ? へへっ……食いきれねぇかもしんねぇなぁ……」
べロリと、大きく舌舐めずり。そして狼は、鋭い牙の生え揃った巨大な口を歪に二ィッと曲げた。
それを見て、私は思わず二、三歩ほど後ずさりをした。すると、奴のギロッとした双眸が――まるで狙いを定めるかのように――私を射抜く。その視線によって、あたかも金縛りにあってしまったかの如く、私は数瞬、ピタリと動きを止めてしまった。
狼――それは、この物語において、とても重要な役にある。赤ずきんを言葉巧みに誘導し、彼女とその祖母を食す――言わば、この物語における恐怖の部分だ。
いやしかし、これは何も『赤ずきん』に限った話ではない。多種多様にある童話作品の中で、狼という存在は至る所に出現している。三匹の子ブタしかり、狼少年しかり、狼と七匹の子ヤギしかり――そのほとんどで、狼は恐怖の存在として描かれている。
それは何故か? 難しい話ではない――単純な話だ。そう、ただ単純に、狼は怖いもの――その認識、事実が存在しているだけ。現代でこそ動物園に行かなければ見ることのできない見世物のような存在ではあるが、昔は違った。そこら中に跋扈し、その強靭な力で時に人を襲う――まさに恐怖が姿を成したような存在であったのだ。
故に、私が奴の目の力だけで動けなくなってしまったことも、決して不自然なことではない。私の中で、先人たちの恐怖心が今なお息づいているのだ。別の言葉にすると、本能という単語が、一番しっくりと来るかもしれない。要は理屈じゃないのだ。ただ目の前の存在が怖かった――それだけだ。
と、その時だった――不意に、場違いな笑い声が聞こえてきた。
「ふふ……。ようやく見つけましたよ、イレギュラー」
「この声――やはり来たわね……」
どこから聞こえてきたのか分からない謎の声を耳にした途端、白雪さんはさらにもう一本のナイフを取り出し、それを構えた。狼は、一体何だと言わんばかりに辺りをキョロキョロと見回している。するとそんな狼に、白雪さんはナイフを構えたままで言葉を投げた。
「早くここから逃げなさい。あなたに死なれたら、私達は困るのよ……おそらく」
「あぁン? 俺様が死ぬ? 何言ってんだ、お前? ……つかテメェ、俺様が怖くねぇのかよ? 俺様は泣く子も黙る――」
次の瞬間、ビリっと、空間が割れた。比喩表現などではない。本当に、私達の正面――家の一番奥に位置していた場所が、縦に裂けたのだ。スナック菓子の袋が破られた――そういう感じだろうか。その袋の内側はアルミニウムの銀の色などではなく、黒。そして中身は、一人の女性だった。
女性は、茶と金が混じり合った髪を後頭部で結び、ポニーテールにしている。白雪さんとは対照的な黒を基調としたドレスタイプの衣服に身を包み、その手には銀のガントレット……いや、違う――あれは、付けているんじゃない。両手共に銀――銀の手だ。そしてそのギラギラと輝く左手で、長さがおよそ百数十センチメートルはあろうかという巨大な鉄の剣を携えている。あまりにも大きいため、鞘はなく、刃がむき出しだ。さらに腰に巻いてあるベルトには、細い刀身のサーベルを差していた。こちらはおそらく一般的な大きさなのだろう――きちんと鞘に納められている。
「どれだけ振りでしょうか? まったく……あなた方を捜すのは、毎度のこと骨が折れますね」
そう言って優しそうに微笑むと、女性は引き裂かれた空間から足を伸ばし、私達と同じ世界に踏み入った。するとその刹那、黒の空間はスッと消え去り、先程と同じ家の景色が再び広がった。
「しかし、追いかけっこもここで終わりです。この場所で、あなた方にも元の世界に――神の元に帰っていただきます」
「……嫌と言ったら?」
「ふふ……そんな決まり切ったことを聞いても、意味がありませんよ?」
ニコリと、女性は笑った。まるで邪気のない――天使のような笑顔だ。しかし、白雪さんとの会話を考えると……この女性が、つまり――
「し、白雪さん……この人は……?」
一応、確認を――と思い、私は前方で女性と睨み合っている白雪さんに尋ねた。すると白雪さんは、体は一切動かさずに、相手を牽制するかのようにナイフを構えたまま、
「手無し娘。ハンターを纏める存在――敵よ」
――やっぱり。この突然現れた女性――手無し娘が、エラさんの怯えていた、敵……。しかもハンターを纏める存在って……つまりこの人が、あの黒い化け物の大将ということか? こんな優しそうな女性なのに――にわかには信じ難い。だが、その優しそうな女性が物騒な凶器を持って、私達の前に立ち塞がっているというのも、また事実だった。
と、その時――すっかり話しに入れなくなっていた狼が、ふと大きな声を張り上げた。おそらく彼の人生において、こんなにも自身の存在を蔑ろにされたことがなかったのだろう。そのストレスの捌け口は、より彼の近くにいた手無し娘へと向けられた。
「俺様を無視してんじゃねぇぞ、コラッ! つぅか、何なんだ、テメェは!? 変なところから出てきやがって……テメェから喰ってやろうかぁ!!」
「……はぁ。うるさいですよ、狼さん。少し、静かにしていてください」
次の瞬間、手無し娘は驚異的なスピードで腰に差していたサーベルを抜き取ると、そのまま横一文字に狼をなぎ払った。
「……え?」
気が付くと――私達の目の前で、狼は二つに分かれていた。ちょうど胸部の辺りだろうか――そこから上下に、奇麗にスッパリと途切れている。そのいきなりの出来事に、私は声を出すことも忘れ、只々ほんの前まで狼だったものを見つめていることしか出来なかった。
ボトッという音と共に、狼の上半分が床に落ちる。それから少し遅れて、下半分も崩れるようにして床に倒れ込んだ。不思議なことに、その断面は既にほとんど塞がってしまっている(そういえば聞いたことがある――非常に洗練された技術で人を斬ると、出血を起こす前に傷が塞がってしまうことがあるとか)。
が――しかしそれでも、僅かに染みだした血が、床をしっとりと濡らし始めていた。
「これで静かになりましたね。さぁ、次はあなた方の番ですよ、イレギュラー」
サーベルを軽く振り、手無し娘は刃に付着していた僅かな血を床に飛ばした。
するとその刹那、白雪さんが持っていた二本のナイフを手無し娘に向かって投擲し――その直後、ウエストポーチからさらにもう一本を取り出し、同じく勢いを付けて投げつけた。
標的を捉え、まっすぐに飛んでいく計三本のナイフ達。しかしそれらは、命中するというその手前で――まるで羽虫を追い払うように――彼女のサーベルによって弾かれてしまった。カツンと、そのうちの一本が床に突き刺さる。
「ちっ……」という、白雪さんの舌打ち。するとそれを見た手無し娘は、クスクスと笑いだして、
「無駄なことです。私は神の代行者……あなたの芸当など、私には通用しません」と――鉄の剣から手を離し、左手でパチンと、指を鳴らした。
「し、し……白雪さん……!」
すると、鉄の剣が大きな音を立てながら床に落ちるのと、ほぼ同時――もしくは少し遅れて――私達の後方から、室外にいるエラさんの慌てふためいた声が飛んできた。
「どうしたの、エラ!?」
「か……かこ、囲まれてます! は、ハンター……ハンターに……!?」
な、何ということだ!? どうやら、あの黒い化け物によって、この家は完全に包囲されてしまったらしい。エラさんの話によると、確認できるだけでもその数は十体以上――あの化け物が、外に十体もいるというのか!? 考えただけでも恐ろしく――私は思わず、その光景を見ることを尻込みしてしまった。
と、そんな私を間に挟んで――白雪さんの驚くべき発言が、エラさんの方へと飛んでいった。
「余裕がないわ。エラ、そっちの方はあなたで何とかして!」
さらに、それに対するエラさんの返答は――
「あ……は、は、はい!」
何とかしてって……エラさんに――あのエラさんに、十体以上のハンターの処理を任せるというのか!? そして、それに頷くエラさん――大丈夫なのか!? だって、あのエラさんだぞ? (私が言うのも何だが)あの白雪さんの背中でずっと怯えていたエラさんに、化け物の相手が務まるとは到底思えない!
すると、お次はそんなことを思っている最中の私に、白雪さんから――
「アリス、そこのドアを閉めて! それから……危険だから、あなたは出来るだけ私から離れてなさい!」
「え、え? あ、や……は、はい!」
言われた通りに、私は後ろにある入口の戸を閉めた。その瞬間、エラさんとの物理的な隔たりが生まれ、よりいっそう彼女の様子を知ることができなくなってしまう。
……エラさんは快く返事をしていたけれど、本当に彼女に任せて大丈夫なのか? しかし、かと言って私に何か出来るというわけでもなく……。
私はただひたすらに、白雪さんに促されるがまま――対峙している二人から少し離れた位置にある戸棚に、身を隠すことしか出来なかった。
「わざわざ自分から逃げ道をなくすとは……。背水の陣、のつもりですか?」
「エラのためよ。あの子はシャイだから……人に見られるのが苦手なの」
手無し娘はサーベルの刃先を白雪さんに向け――その一方、白雪さんは左右のウエストポーチから新たなナイフを二本取り出し、左手に持った方を順手に、もう一方を逆手に構えた。
二人の間に、少しの沈黙――静寂が流れる。
と、次の瞬間――二人は、ほぼ同時に動いた。手無し娘は白雪さんとの間合いを一気に詰めると、ちょうど首の高さで横一線に振り払う。しかし白雪さんはそれを、姿勢を低くすることで避け――手無し娘の腹部目掛けて、やや斜め下から順手に持った方のナイフを突き立てようとした。
が、間一髪のところで手無し娘はバックステップ――後退して、ナイフをかわした。だが白雪さんは、それを読んでいたと言わんばかりに――手の力を緩め、そのままナイフを前に押し出した。勢いがある――とは言えないが、ナイフは一直線に、手無し娘に向かって飛んでいく。すると手無し娘はサーベルの刃でそれを弾き――その宙に漂っているナイフを、器用にもう片方の手で掴み取った。
再び開いた二人の距離。それを、次は白雪さんが縮めに行った。
手無し娘の眼前にまで迫り、その逆手に持つナイフを思い切り左から右に振り抜く。すると、その攻撃は手無し娘を捉えた――と思いきや、斬り取ったのは標的の服の一部だけで、手無し娘はギリギリのところで体を後ろに反らし、刃を避けていた。
と、手無し娘は体を反らしたままの体勢で、右手に持ったサーベルを前方の左上から右下にかけて、勢いよく斜めに振り下ろした。
次は、サーベルの鋭い刃が白雪さんを狙う。すると白雪さんは――避けることは不可能だと判断したのか――素早く左のウエストポーチからナイフを取り出し、それでサーベルの刃を真っ向から受け止めた。しかし、やはりナイフでは受け止めきれなかったようで、キンッという音と共に、白雪さんの左腕は軽く後方に弾かれてしまう。
だが、白雪さんの行動は無駄ではなかった。完全に受け止めることが出来なかったとはいえ、少しばかりサーベルの勢いを殺すことが出来たのだ。もちろん、それを白雪さんは見逃さなかった。体を低くしつつ右方向に滑り込むことで、振り落とされるサーベルから見事に逃げ切ったのである。
――このまま右手のナイフを動かせば、奴の左わき腹にナイフを深々と突き刺すことが出来る。だが、同時に奴のサーベルが私の体を掴み取るだろう。ここは、一度後ろに下がり、体勢を整えよう。
おそらくそう考えた白雪さんは――次の瞬間、床を強く蹴り、手無し娘と距離を置こうとした。手無し娘の足は動かない。どうやら、そのまま白雪さんを追うようなことはしないようだ。
だが、彼女が大人しく敵の動きが終わるのを待っているはずがなかった。
手無し娘は、離れていく白雪さんに狙いを定めると、先程手に入れたナイフをバッと投げつけた。するとナイフは、そのまま彼女の狙い通り白雪さんを――もとい、白雪さんのウエストポーチを繋ぐベルトを、ピンポイントで切断したのである。
「しまっ……!?」
白雪さんの元を離れ、床に落ちる左右両方のウエストポーチ。それと同時に、中のナイフが数本、バラバラと散らばった。
「あら、落ちてしまいましたね。どうぞ、拾ってくださって構いませんよ?」
ニコッ――微笑む手無し娘。しかし、白雪さんがその言葉に従って、落ちたウエストポーチを回収することはなかった。当然だ――拾おうと体をかがめた瞬間に、手無し娘がサーベルを振るってくるのだろうから。
そして白雪さんは、そのまま――二本のナイフのみを持ったままで、手無し娘へと向かっていった。先程までと同様に、攻防入り乱れる凄まじい戦いを、二人は繰り広げる。だがしかし――素人考えなのかもしれないが――客観的に見ていて、どうも白雪さんの方が、余裕がないように感じられた。
やはり武器の大半を失ってしまったのが痛かったのだろうか――その顔には、陰りが見える。よく見れば、攻撃の幅も狭まったせいで、動きが先程と比べて単調になってしまっているような気もしないでもない。
しかし、だからと言って床に落ちているナイフを拾うわけにもいかない。もしそんなことをしようものなら、容赦なく相手の刃が振り下ろされるのだ。故に、白雪さんが自身の手で再びナイフを手に入れることは、不可能に思えた。
では、どうすればいい? 白雪さんが新しい――別のナイフを手にするためには、どうすればいい? 白雪さんは今考えた通り無理だ。エラさんも、今は外で戦っている(のか?)。ならば、あと唯一残っているのは一人しかいない――私だ。私が白雪さんにナイフを渡す他、この状況を打破することは出来ないのである!
だが……渡す――床に散らばったナイフを何本か拾い集め、白雪さんに渡す。この行為を、手無し娘に邪魔されないように――もしくは手無し娘の邪魔を掻い潜って、遂行しなければならない。そんなことが、私に出来るのか? 果たして可能なのか? いや、それ以前に、私はこの場から動き出すことが出来るのか? 一歩でも動いた瞬間、あのキラリと刃先の光るサーベルが、私のことを打ち貫きにくるのではないか――そんな恐怖感が私を襲う。
しかし……やらなければいけないだろう。謎の使命感が、私の背中を嫌でも押し進める。あのエラさんですら戦っているのだ――私だけ、指をくわえて見守っているわけにもいかない。
……はて――普段の私なら、はたしてこんなことを思うだろうか。おそらく、今いるこの世界が、未だに幾らか現実味が足りていない所為だろう。
いや、そんなことはどうでもいい。とにかく今は、ナイフを拾い上げるのが先決だ! 大丈夫……手無し娘は、白雪さんとの交戦で手一杯のはず――やるなら今しかない!!
「――ッ!」
グッと意を決し――私は戸棚の陰から飛び出すと、一番近くに落ちているナイフ――最初に投げたものの、敢え無く弾かれてしまったナイフ――に向かって一直線に駆け出した。手無し娘は少し離れた位置で、しかも私に背を向けている――イケる!
と思ったのも束の間、床に落ちていた何かに蹴躓き、私は自分の標的を前にして派手に転倒してしまった。膝を強く打ってしまい、ビリビリとした痺れの様な痛みが、脚部を中心に私を襲う。
「いっつ……!?」
一体何だ? そう思い、軽く後ろに振り返る。するとそこには、かつて狼だったものがドンと横たわり、人の通行の邪魔をしていた。
何故こんな大きな物体の存在に気が付かなかったのだろう? よほど眼前の目標物にばかり、意識が行っていたのだろうか……。だがしかし、この程度の障害で、へこたれるわけにはいかない。見れば、ナイフはもう目と鼻の先――手を伸ばせば届く位置にあるじゃないか。よし、これを白雪さんに何とか手渡すことが出来れば――
その時だった――ふと何かが影となり、私の手元を僅かに暗くした。そしてそれが、何が作り出した影なのかを知った時、私は思わず顔を引き攣らせた。
「おや、何をやっているのですか?」
私を見下ろす、優しい聖女のような微笑み――しかしその目は、むしろ獲物を狙う鷹に近かった。
「ひぅっ……!?」
小さく悲鳴のようなものを漏らしながら、私は後ろに飛びのいた。そのまま――床に腰を下ろしたままで――手を使って後ずさりをする。が、その途中で例の障害物に当たってしまい、これ以上、この体勢で後ろに行くことを妨げられてしまった。
「ふふ……逃げる必要なんてないんですよ? あなたは今から――ただ、神の御許に帰るだけなのですから」
そう言って、手無し娘はゆっくりと、その手に握られたサーベルを天高く構えた。その刃先には、赤い血痕のようなものがある。
あの血……まさか、私が目の前のナイフにばかり気が行ってしまっていた間に……!?
「あ……うぁ……」
バクバクと音を立てながら鼓動する心臓。ガタガタと震えだす体。荒くなる息。周りを見るなんて余裕はない――もはや視線は、私を捉えんとする刃の切っ先にしか向かなかった。
と、その時――後ろで、何か鋭利な物が私の指に触れた。私は思わずハッとなり、直接目で見ないまま、それが一体何なのかを触って確かめる。
これは――確証はないが――ナイフ……だろうか? どうやら、ナイフの刃が床にサックリと突き刺さっているみたいだ。とすれば、この部分が柄、か?
しかし……だからどうしたと言うんだ? これがナイフだとして、それがどうだと言うんだ? 私は白雪さんとは違う――ナイフ片手に、目の前の敵に対抗するなんてことは出来ない。……だけど、こんな所で訳も分からないまま殺されるなんて嫌だ。なら……せめて――せめて少しの抵抗くらいしたらどうなんだ、私!
考えるのはやめだ。私は、ギュッとナイフの柄らしき部分を握る。少しの抵抗といっても、これで何が出来るのかは分からない。しかしそれでも、何もしないよりは遥かにマシなはずだ。
「うっ……わぁああぁあああ!!」
ナイフを握る手に力をグッと入れると、私はそれを床から引き抜き――そのまま勢いよく横に振り抜いた。だがしかし、ブンッという音と共に、私の渾身の一撃は無残にも空を切る。
その瞬間、私の儚い抵抗は無駄に終わってしまった――と思いきや、この攻撃には、私も予期していなかった『続き』があった。
ナイフが突き刺さっていたのは、血を垂れ流している狼の遺体の近くであった。おそらくそのせいであろう――ナイフの刃には、血がべっとりと付着していたのだ。そしてその血は、私がナイフを振ったことで、飛沫となって飛び散っていった。その飛び散った先こそが、なんと手無し娘の顔面――偶然にも、血は見事に敵の目に命中したのである。
「なっ……!?」
突如受けた目潰し攻撃に、さすがの手無し娘も怯んだ。今まさに振り下ろさんとしていた手も動きを止め――もう片方の手で、なんとか目に入り込んだ異物を拭い去ろうとする。
と、その時――何かが手無し娘の後方にフラッと見えたかと思うと、不意に彼女の体がビクッと震えた。私が驚いて目をやると、そこにいたのは――
「……油断したわね、手無し……」
顔や体の各所に傷を負い、荒々しく肩で呼吸をしているものの――(珍しく)小さく二ヤリとした笑みを見せている白雪さんが、手無し娘の背中に一本のナイフを突き刺していた。それに対し手無し娘は、体を私の方に向けたまま、目だけを後ろの白雪さんにやって――
「ぅぐっ……。まだ動けたのですか……」
「生憎、私はしぶといのよ……!」
グゥッと力を入れて、白雪さんは余っていた刃の部分を、一気に手無し娘の体に押し込んだ。その刹那、手無し娘は痛みを訴える呻き声を上げると――とうとうサーベルを床に突き刺し、そのままドッと片膝をついたのである。
それを見て、白雪さんはナイフから手を離し、数歩後ろに下がった。
「し、白雪さん……」
「アリス、いつまでそうしているの? 早く立ちなさい!」
「へぁ? あ、は、はい!」
白雪さんの言葉で、ようやく呪縛から解き放たれたかのように――私は立ちあがり、手無し娘の横を抜けて、白雪さんの背中に慌てて逃げ込んだ。
……白雪さんの体には、幾つか血の滲んでいる箇所――痛々しい傷が目立つ。どうやら私が見ていなかった短い間に、二人は、私の想像を絶するような戦いを繰り広げていたらしい。
「……さぁ、手無し。その深い傷で、まだ続けるの?」
床に落ちたナイフを数本拾いつつ、白雪さんは言った。すると、手無し娘は軽く微笑みを見せて、
「ふふ……傷なら、あなたも沢山負っているではないですか……」
「こんなもの、たいしたことないわ。私はまだまだ動けるわよ」
「あら、それなら私だって……いえ、やはり止めておきましょう。ギリギリの戦いは、好きではありません……」
フラフラになりながら――背中の傷を庇うようにして、手無し娘はゆっくりと立ちあがった。続いてサーベルを杖にして、戦いが始まる前に手放した巨大な鉄の剣を拾い上げる。
するとその時、ビリッと――彼女が現れた時と同じように――家の奥の空間に、黒い裂け目が生じた。手無し娘はその前に立つと、振り向きざまに優しく微笑みながら、
「今日のところは引き上げます。しかし忘れないでください――私は、あなた達イレギュラーを、その不幸な運命から必ず解放します。……それでは、また逢う日まで」
次の瞬間、黒い空間に足を踏み入れた手無し娘は、一瞬にしてその姿を消し――また、黒い空間も跡形もなく消え去った。
終わった――私がそう理解したのは、手無し娘が消えて少し経ってからであった。その途端に全身から緊張感の様なものが抜け、私は深い溜息を漏らし、その場にへたり込んだ。
つい先程までの出来事、その全てが幻だった――あまりにも急に始まり、また急に終わったので、なんだかそんな気がしてしまう。しかし白雪さんの怪我、および床に転がる獣の遺骸のせいで、そんな私の思いは呆気なく否定された。
だが、どちらにせよもう終わったのだ。良かった――白雪さんが傷だらけになってしまっているが――とにかく、無事に終わって良かった……。無事に……ん?
何だ――何かを忘れているような気がする……。何か、とても大事なこと――
「あぁあっ!?」
ふと、その『何か』を思い出し、私は思わず大声を上げた。
私が忘れかけてしまっていた何か――それは、エラさんだ。白雪さんが室内で手無し娘と戦っている一方で、エラさんは外でハンターと戦闘をしていたはずなのだ。いや、もしかしたら、まだ戦っている最中かもしれない。だとしたら、一刻も早くエラさんに加勢しなくてはいけないのではないか!?
だがしかし、白雪さんは見た通り傷だらけ――私は非力な、ただの一般人だ。加勢が出来るとは、とても思えない。……いやそもそも、エラさんはまだ御存命なのか? もしかして、私が室内の出来事にばかり意識を向けていた間に――なんてことは……!?
こ、こうしてはいられない! 何が出来るかは分からないけど――まだ間に合うかもしれない今のうちに、エラさんを助けないと……!!
近くに落ちていたナイフを一本手に取り、私は震える足を押さえつけながら、必死の思いで立ちあがった。すると、そんな私を見た白雪さんが――おそらく、へとへとに疲弊した体を少しでも休ませるためであろう――ベッド近くのロッキングチェアに深く腰かけながら、
「どうしたの、アリス? もう奴はいないわよ?」
「いや、白雪さん! ま、まだエラさんが外で――」
と、その時――不意に入口の戸がキィッと開き、見覚えのある人影が姿を現した。金色の長い髪に、オドオドとした様子――エラさんである!
「え、エラさん!?」
てっきりハンターにヤられてしまっているものだと思っていた私は、驚倒の声と共にエラさんに近づいた。そして、いきなり寄って来た私にビックリしている彼女を余所に、マジマジとその姿を目に映した。
すると、その細い体には――白雪さんとは対照的に――怪我どころか小さな傷一つすら負っていなかった。その事実に、私は再び仰天する。
「だ、大丈夫だったんですか、エラさん?」
「あぅ……あ、は、はい……」
私の問いに、エラさんはモジモジとしながら頷いた。
良かった――本当に良かった、エラさんも無事で。私はホッと、安堵の息をつく。
しかしそれにしても……エラさんが戻ってきたということは、つまり彼女が一人でハンターを打ち倒したということ……なんだよな? しかも無傷であるということは、無数にいたはずの敵を、圧倒的な力で――?
ちらりと、私は開け放たれているドアから、外の様子を窺った。だが視線の先に広がっているのは、森の木々たちだけ――戦いの痕跡のようなものは、全くと言っていいほど見当たらない。
……ん? いや待て、あれは何だ? 少し遠くにある木の枝の先が、なにやら白く濁っている――白い、石灰のようなものが付いている。はて――以前の状態をしっかりと見たわけではないので、詳しくは覚えていないが――先程まで、あんな風になっていただろうか?
と――私が頭を捻って考えている横で、エラさんが椅子に腰かけたままの白雪さんに向かって、口を開いた。
「あ、あの、白雪さん……だ、大……丈夫……ですか?」
それに白雪さんは、軽く手を振ってみせ、
「えぇ。何とか、ね」と、溜息混じりに短く答えた。それから、さらに白雪さんが続ける。
「しかし……困ったわね。物語の(おそらく)中心人物を、手無しに殺られてしまった――このままでは、他の世界への移動ができないわ」
そう言って、白雪さんはもう一度溜息をこぼした。
と、その発言に驚いた私は、白雪さんの方を向いて口を切った。
「い、移動が出来ないって……どういうことですか!?」
「言ったでしょう? 異世界に行くためには、今いるこの世界を終わらせる必要がある。しかし、物語の中心人物が息絶えてしまった今――自然に世界が終るということは、おそらく難しくなったわ」
言いながら、白雪さんは眉間に皺を寄せた。悔しい――そんな感情が、その表情からは伝わってくる。
一方、私はフッと考えるように口元に手を当てて――物語の中心人物であった狼の死体に、視線を移した。見事に上下に分かれている身体――生きているとは、到底思えない。
たしかに白雪さんの言う通り――起こるはずのない事柄が起きてしまえば、そこで物語は止まってしまう。それこそ物語の中心人物が突然消えていなくなってしまえば、二度と話が元の形に戻ることはないだろう。そして――まさにそれが、今回起こってしまったのだ。
本来はここで死ぬはずのなかった狼――それがパッタリといなくなってしまえば、当然のこと物語として成立しなくなってしまう。そして成立しなくなった物語が終わることはない――永遠に未完のままだ。つまり狼が亡くなってしまったあの瞬間、私達は『この世界』という牢獄に捕らわれてしまったのである。
「ど、どうする……んですか? し、白雪さん……?」
エラさんの、微かに震えた不安そうな声。
「……どうしようもないわね。私達は、この世界のストーリーを知っているわけではないもの。せめて――せめて最後にどうなるかさえ分かれば……」
白雪さんも、珍しく弱気な発言だ。
そうか――やはり、いくら白雪さんとはいえ、この世界の行く末を知っているというわけではないのか……。そういえば、最初会った時に、ここがどういう世界なのかは知らないって言っていたものな……。
……いや、待てよ。この世界の――この物語の、ストーリー? それってつまり、『赤ずきんのストーリー』ということだよな? それなら……それなら、私が知っているじゃないか!
子供の頃から何十回と繰り返し読んだ『赤ずきん』――そのストーリーに沿わすというのなら、次は何がある? おばあちゃんと赤ずきんが狼に食べられた後に起こる、次の出来事……そうだ、それは――
ハッと、私は視線の先にいる狼に近寄ると、その傍らで両膝を床についた。続けて、分かれている狼の下半分を仰向けにすると、そのパンパンに膨れ上がったお腹に、優しく手を触れる。ゴワゴワの硬い毛が、まるで手に突き刺さるようだ。
と、急にそんなこと――傍から見れば変な行動――をし始めた私を見て、白雪さんは不思議そうに言葉を投げてきた。
「……アリス? 何をしているの?」
「……白雪さん。もしかしたら、この物語を終わらせることができるかもしれません」
「何ですって? 一体、どういうことなの?」
「それは……えっと……説明すると、ちょっと長くなっちゃうんですけど……。とにかく、これでストーリーが進むはずです!」
次の瞬間――私は手に持っていたナイフを、狼の腹部に突き立てた。ずぶ……ずぶ……と、柔らかい肉に鋭い刃が食い込んでいく嫌な感触が、手を通じて、頭から足先にまで――全身に伝わってくる。やはり、いくら既に死体に成り果ててしまっているとはいえ、パック包装された豚肉や鶏肉を切るのとは、わけが違った。血の、鉄錆にも似た嫌な臭いも、鼻をつく。気持ちが悪い――今にも戻してしまいそうだ。
だがそれでも、私はこの狂気的な行為をやめなかった。白雪さんとエラさんが心配そうに見つめている先で、私は突き立てたナイフをさらに動かしていく。そう――ちょうど魚のはらわたを取り出すため、そのお腹を裂いていくように。そして、しばらくして――ようやく次の行動に移るために十分に足る大きさにまで狼の腹を切り開くと、私はそこで一旦手を止めた。
手の至る所――特に手のひらが、赤黒い液で染まってしまっている。染み込んで、染み込んで……もしかしたら、洗っても落ちないんじゃないだろうか? そんな錯覚に陥ってしまいそうになる。
「……ふぅ……」
深く息を吐き出し、私は一度目をつぶった。今から自分がやろうとしていることに対する恐怖感を、なんとか押し殺そうと努める。大丈夫、怖いことなんてない……落ち着いて、落ち着いて――と、まるで暗示をかけるように自分に言い聞かせる。
そして、呼吸が整ってきた――ようやくそう感じた時、私は再び目を開き、目の前の『穴』に向かって両手を突っ込んだ。
「うっ……!?」
視覚からは、おびただしい程の液で赤黒く染まった狼の腹と、自分の腕。嗅覚からは、むせ返るような鉄錆の匂い。聴覚からは、ぬちょ、ぬちょ、という決して心地良いとは言えない響き。そして感覚からは――何と表現すればいいのだろうか――グニグニとした変に柔らかい物に三百六十度全方向から包まれている……そんな感じが伝わってきた。
「これは魚……これは魚……これは魚……」
ぶつぶつと呟いて、何とか気を紛らわせる。こうでもしていないと、気が変になりそうだ。どうやら、私には外科医という職業なんかは向いていないらしい……いや、今はそんなこと、どうでもいいのだけれど……。
と、その時――ふと指の先に、周りの感触とは明らかに違うものが、コツンと触れた。
これだ! そう思った私は、その触れたものをグッと掴み取り――そして、一気に引き抜いた。すると狼の中から、ぐったりとした様子の赤い頭巾を被った女の子――赤ずきんが姿を現したのである。
「女の子……ッ!?」
これには、さすがの白雪さんも驚きを隠せなかったようで――目を見開き、ハッと息を呑んだ。エラさんも同様――目をパチクリとさせ、狼の腹の中から引っ張り出された少女に、その焦点を合わせている。
私は赤ずきん(どうやら気を失っているらしい)を床に寝かせると、そのままもう一度、狼の腹に手を突っ込み、捜索を再開した。と、次の標的は先程よりも早くに見つかった。そう――赤ずきんのおばあちゃんである。私はこれを、先程と同じ要領で引っ張り出した。
「これは……これは一体どういうことなの、アリス? この二人は……?」
助け出したおばあちゃんを何とかベッドに寝かせ、ようやく一息を入れることが出来た私に、白雪さんはすかさず質問を飛ばしてきた。それに対し、私はゆっくりと息を整えつつ、
「この物語――赤ずきんの物語は、狼に食べられてしまったこの赤ずきんと、そのおばあちゃんの二人を救出して、話が終わるんです。だから多分、これでこの物語は終わるはずです……」
まぁ、本来は猟師が助けるんですけど――と、最後に付け加え、私はそこで言葉を切った。すると白雪さんは、怪訝そうにジッと私を見つめながら――
「……アリス。あなた、どうして――」
と、その時であった。床に寝かせた赤ずきんが、ふと目を覚ましたのである。
私は白雪さんの発言を遮り、赤ずきんに駆け寄った。一方、赤ずきんはゆっくりと上半身を起き上がらせると、不思議そうに辺りをキョロキョロと見回して、
「あれ? あたしは確か、狼さんに食べられて……?」
「赤ずきんちゃん、大丈夫?」
「あ! あなたは、お花の妖精さん! もしかして、妖精さんがあたしを助けてくれたの?」
「あー……うん、まぁね。ほら、おばあちゃんも無事だよ」
言いながら、私はベッドに横たわる老女を指差した。するとそれを見た赤ずきんは、パッと顔を輝かせて――その小さな手で、私の赤黒い手をギュっと握った。
「ありがとう、妖精さん! 妖精さんは、とても親切なのね!」
本当にありがとう――そう言って、赤ずきんは二度、三度とその手をブンブンと縦に振った、それに釣られて、私の手も同じように上下に揺れる。
「それにしても、狼さんには困ったものね。今度からは、あたしも気を付けないと」
「……そうだよ、赤ずきんちゃん。もう悪い狼の言うことには、耳を傾けちゃ駄目だよ?」
「うん!」
赤ずきんは力強く頷くと、一度私から手を離し、
「妖精さん。本当に、ありがとうございました!」と、無邪気な笑顔で言った。
すると、次の瞬間――
「どういたしまして。ところで赤ずきんちゃん、お花畑でも言ったけど、私は妖精じゃなくて……赤ずきんちゃん?」
赤ずきんは、私の目の前で止まっていた。笑顔を崩さないままで、ピクリとも動こうとしない。私がいくら話し掛けても、手を触れても、もう彼女が何か反応を見せることはなかった。
「終わったわね」
後方でポツリと呟かれたその言葉に、私はハッとなり、ようやく今の状況が何であるかを理解した。
つまり、今この瞬間――『赤ずきん』の物語は終わりを告げたのだ。だから、この世界の全てが静止した。私達――イレギュラー三人を残して。
「これで、また別の世界に行けるわ。……ありがとう、アリス」
「……いえ……」
白雪さんへの返事も半分に――私は止まった世界の中で、ただジッと、目の前の少女を見つめていた。
……本当に微動だにしない。まばたき一つしない。髪先が風に揺れることもない。いや、そもそも――ここは室内だから分からないが――今は風も吹いてはいないのだろう。それに木々のざわめき、鳥たちの鳴き声――それら全てを合わせて、音も消えてしまっている。心なしか、色さえも失われているかのように見えた。
また新しい物語が始まった時、彼女はこの出来事を憶えているのだろうか? ……いや、おそらく憶えてはいないだろう。そして、またおばあちゃん共々、狼に食べられてしまうに違いない。もちろん、その度に猟師が助けてくれるのだろうが……。
そんなことを考えていると、私は何とも言えない気持ちになってきた。何というか、こう……虚無感とでも言えば良いのだろうか? そんなものが、沸々と、少しずつ胸のうちから湧き上がってくる。
同じ事の繰り返し……しかも、それを本人達は決して望んでなどいなかったとしたら――それは、とても辛いことだ。悲しいことだ。可哀想なことだ。
私は、そんな彼女達を見て、羨ましいなどと思っていたのか。
そんな彼女達を見て、幸せだなどと決めつけていたのか。
そんな彼女達を見て、ハッピーエンドなどと感じていたのか。
私は……私は――
「……そろそろ、ね」
その時、不意に辺りが暗闇に包まれた。一切の光が灯っていない、本当の漆黒だ。その暗黒によって家が消え、赤ずきんが消え、白雪さんとエラさんも消え――そして、私も消えた。
気が付けば、私の意識はプッツリと途切れていた。
エピローグ
「――い。お――きみ――」
男の人の低い声。ふと、それに気が付き、私は意識を取り戻した。
ズンッと重たい瞼をこじ開けて、ゆっくりゆっくりと体を起こす。未だ霞みつつある視界には、上下ともに青みがかった作業着に身を包んでいる初老の男性の姿があった。
「ようやく起きたか。まったく、何でこんな所で寝てるんだ、君は? もう下校の時間はとっくに過ぎてるぞ」
「……え? 下校……?」
男性の言葉で、私は辺りを見回した。
白い蛍光灯に照らし出された、無駄に広く、大量の本棚が置かれた場所。私はその広い空間の隅の方で、ペタリと、直接床に座り込んでいる。窓から見える外の風景は、すでに真っ暗――それもそのはず、壁に掛けられた時計は、七の数字を指し示していた。
「ここ……図書室? 学校?」
私はハッとなって自分の格好に目を移した。水色のワンピースと白いエプロンなんかではない。もはや見慣れたデザインの、私が通う高校指定の学生服である。横には、いつも使っている私のバッグもあった。
「んん? 大丈夫かい、君?」
「へ!? あ、は、はい! だ、大丈夫です!」
変にキョロキョロとして、傍から見れば明らかに挙動不審であった私をおかしく思ったのか――おそらく用務員のオジサンだろう男性は、心配してくれている風な口調で、私に尋ねた。私は、その心配を――不自然なくらい――力いっぱいに否定し、慌てて立ち上がった。
「そうかい? まぁ、それならいいんだけど……。それじゃあ、ほら、早く帰りなさい。ここの鍵も閉めなきゃいけないんだから」
「は、はい。わかりました……」
私は床に落ちているバッグを手に取ると、用務員さんに促されるがまま、早足で図書室から退出した。その後――用務員さんは図書室の灯りを落とし、持っていた鍵でドアを施錠すると、私にもう一度早く帰るよう告げ、そのまま廊下の向こうへと姿を消していった。
「……夢……だったのかな……?」
一階の正面玄関を目指し、誰もいない廊下を歩いている途中で、私はポツンと呟いた。
あの非現実的な世界は夢。童話好きの私が生み出した、ありもしない脳内妄想。そう片付けてしまえば、とても――非常に楽だ。
だけど、やはり私には、アレが夢や妄想などとは思えなかった。あんなリアルな夢、今まで見たことがない。妄想なんかとは違った――白雪さんもエラさんも、確かに目の前にいたんだ。
私はさっきまで本当に、童話の世界にいたんだ!
でも、それを裏付ける証拠がない。あの変なコスプレ衣装のような服も、私の手を染め上げた赤黒い液体もない。
「……黒い本……」
そう――唯一証拠になるといえば、あの本だ。あの本を開き、もう一度彼女たちに出会えたとしたら……それはつまり、あれは現実の出来事だったということではないのだろうか。しかし、その本も今、手元にあるわけではない。気を失った時に、バッグと共に落したはずなのに――再び気がついた時には、黒い本はどこにも見えなかった。もちろん、用務員さんに急かされ、慌てていたために、細かいところまでを探したわけではないのだが……。
「……繰り返される物語、か……」
その呟きを最後に、私は独り言をやめた。そして、ただひたすらに目的地を目指し、足を進めた。
――キィイン。
どこかで鐘が鳴ったような気がした。