Mission.5「予告状 動き出した時計の針」
翌朝、屋敷は何事もなかったかのように、静まり返っていた。
磨き上げられた床、整えられた調度品。
使用人たちの無駄のない動き。
すべてが、完璧に“日常”を演じている。
だが、その中心にいる男だけは違った。
「……」
ノアは、窓際に立っていた。
丸い眼鏡の奥の瞳は、どこまでも静かだ。
だが怒りは、消えていない。
ただ沈んでいる。
深く、底の見えない場所に。
「……逃げた」
自分の“所有物”であるイフリートが、最も価値のある商品が、怪盗ごときに奪われた。
「……ふふ」
小さく、笑いが漏れ、肩がわずかに揺れる。
「なるほど……」
ゆっくりと振り返る。
その目には、怒りの色はもうなかった。
あるのは――冷たい愉悦。
机の引き出しを開け、中から一枚の名刺を取り出す。
黒地に、金の文字で“アリスト”と印字されている。
受話器を取り、番号を押す指に迷いはない。
数回のコールの後、
「えぇ、私です」
と穏やかな声で話し出す。
いつも通りの柔らかさだ。
「少し思い出したことがありましてね。……出来れば、一人で来て頂きたい」
それだけを告げ、相手の返答を待たず、通話を切った。
ノアは、手にしていた名刺を見下ろし、
「……所詮」
くしゃり、と握り潰す。
「警察も、金には目が眩む」
そのまま、ゴミ箱へ放り、それは軽い音を立てて、落ちる。
ノアが窓の外を見ると、昼の光が広がっている。
だがその瞳の奥には、夜が残っていた。
「怪盗エスポワール……。楽しませてくれるじゃないか」
その口元に浮かぶのは、笑み。
それは歓迎か、それとも――狩りの合図か。
その夜、事件は終わったことになった。
ノアの屋敷での一件は、“窃盗未遂”。
それ以上の捜査は、上からの命令で打ち切りになった。
「……ふざけんなよ」
警察署の屋上で、フェンス越しに見える街は、いつも通り動いている。
ミルフィは煙草に火をつけ、深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「……クソが」
あの屋敷に、あの男。
そして――あの違和感。
何も盗られていない?
そんなはずがない。
「上は動くな、か……」
舌打ちする。
理由は、説明されない。
一本目を吸い終える前に、次に火をつけ、それを何度も繰り返す。
「ミルフィさん!」
扉が開く音がし、振り返ると、アリストが立っていた。
茶髪でパーマを当て、軽い笑みを浮かべた男。
「……あ?」
ミルフィは煙草を咥えたまま、目を細める。
「お前、長々と電話してたな。彼女か?」
半分も吸っていない煙草の火を、乱暴に消す。
アリストは苦笑し、
「違いますって」
と、封筒を差し出した。
「これ、さっき受付で預かってたみたいなんです」
「俺宛?」
「はい。名前、書いてありました」
ミルフィは封筒を受け取る。
「……誰だよ」
封を切り、中の紙を取り出す。
「……これは」
黒い蝶。
紙に印刷された、その意匠。
どこか可愛らしく――そして決定的に異質。
ミルフィの目が細くなる。
「……あいつか」
アリストが首を傾げる。
「誰です?」
ミルフィは答えないが、文面に目を落とす。
『この街の正義のヒーローさん。
少し調べて欲しい事があるんだけど、今夜街の大きな時計塔で会えない?
もちろんタダじゃないよ。
ノアという男の秘密、知りたくない?
一人で来てくださいね。
怪盗エスポワール』
風が、屋上を吹き抜ける。
ミルフィは紙を折り、ポケットにしまった。
「……ちょっと出てくる」
「え?どこに――」
屋上の扉が閉まり、ミルフィのぶっきらぼうな足音が遠ざかる。
残されたアリストは、ゆっくりと息を吐いた。
「……へぇ」
口元に、わずかな笑み。
先ほどまでの柔らかな空気は、消えている。
「面白くなってきた」
風が髪を揺らす。
その目は、どこか愉しげに細められていた。
止まっていたはずの歯車が、音を立てて噛み合う。
それぞれの思惑が交差し、それぞれの時間が動き出す。




