Mission.4「予告状 檻の外への自由」
夜は、まだ終わっていなかった。
警察本部の廊下に、白い光が静かに伸びている。
窓の外では、遠ざかっていくサイレンの余韻が、わずかに残っていた。
「……はぁ」
小さく息を吐き、男は煙草をくわえる。
黒髪で、着崩したスーツを着て、どこか気だるげな空気を纏う男――ミルフィ。
ライターを取り出しかけて、ふと手を止めた。
「……チッ」
ここは室内だった。
舌打ちして煙草をポケットに戻し、そのまま壁に背を預ける。
今夜の件は、妙だった。
あの、怪盗エスポワールが現れた。
予告状、停電、人々の混乱。
すべては、いつも通り――のはずだった。
「……何も盗られていない、だと?」
事情聴取の光景が、脳裏に浮かぶ。
白いスーツを身にまとい、綺麗にされた銀色の髪で、丸い眼鏡の奥の、冷たい瞳が頭から離れない。
ノアは、
『被害は、特にありません』
と落ち着いた声で、淀みのない返答をしていた。
あまりにも、自然すぎる。
「……あり得るかよ」
ミルフィは目を細める。
あの怪盗が、何も盗らずに帰る?
そんな話は、聞いたことがない。
必ず“何か”を奪う。
それが金であろうと、宝石であろうと――
「上は動くな、か……」
ミルフィは苛立ちながら、舌打ちする。
今回の件には深入りするなという指示が出ている。
理由は、いつも通り説明されない。
「……くそ」
ノアの顔が浮かぶ。
あの時、ほんの一瞬だけ“間”があった気がする。
何かを隠している人間の、わずかな沈黙。
「……あいつ、何を隠してやがる」
ミルフィはゆっくりと顔を上げ、窓の外を見ると、満月が、まだ高く浮かんでいた。
「怪盗エスポワール……お前、何を盗んだ?」
答えは、まだ見えない。
だが確実に、何かが動いている。
その頃、町外れの港は、ひどく静かだった。
波が、ゆっくりと岸を叩き、同じ音を繰り返しながら、夜の中へ溶けていく。
灯りは少ないし、人の気配もない。
古びた倉庫が、ただ並んでいるだけの場所。
そのひとつの扉が、軋んだ音を立てて開き、冷たい空気が流れ込む。
「……ここだよ」
エスポワールが、短く言う。
中は暗いが、奥にランタンの灯りがひとつ揺れていた。
「遅かったじゃない」
その光の下に立っていたのは、モワだった。
黒猫の仮面は外され、長い金髪が揺れる。
口元には、いつもの余裕の笑み。
「無事で何より、相棒」
「おかげさまでね」
エスポワールは軽く肩をすくめる。
「完璧なサポートだったよ」
「当然でしょ?」
短く返しながら、モワの視線は横へ流れる。
イフリートーーその姿を、じっと見つめる。
「……その子が?」
エスポワールは答えない。
ただ、イフリートの手をそっと離した。
その瞬間、イフリートは一歩、後ろへ下がる。
まるで、距離を取るように。
波の音だけが、静かに響く。
「……どうして」
イフリートが口を開く。
小さな声だった。
「どうして、連れ出したんですか」
まっすぐな問いだが、感情はほとんど乗っていない。
エスポワールは、わずかに目を細めた。
「君を、放っておけないからだよ」
「……」
イフリートは視線を落とすと、そして、ぽつりと呟いた。
「戻らないと」
モワの眉が、わずかに動く。
「戻る?」
「はい」
イフリートは迷いなく、頷いた。
「私は……商品なので」
その言葉は、あまりにも自然だった。
だからこそ、重い。
空気が、わずかに張り詰める。
「商品、か」
エスポワールはゆっくりと、イフリートに一歩近づくと、前に立つ。
「それは違う」
イフリートの瞳が揺れる。
「君は“物”じゃない」
その言葉の意味を、イフリートはすぐには理解できない。
理解するための場所が、まだない。
「……でも私は、売られて――」
「関係ない」
遮るように、言い切る。
「過去は関係ない。今ここにいる君がすべてだ」
イフリートは何も言えず、ただ、立ち尽くす。
モワは小さく息を吐いた。
「……相変わらずね」
エスポワールは、ふっと笑う。
「怪盗だからね」
そして、少しだけ振り返り、
「それに」
声を落としながら囁いた。
「盗んだものは、最後まで責任を持つ主義なんだ」
その言葉に、イフリートの指先が、わずかに震えた。
外では、波が静かに打ち寄せている。
満月が、港を淡く照らしていた。
逃げてきた夜、それは初めて“檻の外”に立つ夜だった。




