Mission.Clear「予告状 夜の蝶は羽ばたき、そして消える」
あれから、三ヶ月ほどが経った。
窓から差し込む光は柔らかく、部屋の中には穏やかな時間が流れている。
「……モワさ……じゃなくて、リュンヌ先生。ここ、どうするんですか?」
ノートを指差しながら、イフリートが少し困ったように言う。
隣に座るリュンヌは、一瞬だけ顔をしかめた。
「だから、“先生”はやめなさいって言ってるでしょ」
頬を少しだけ染める。
「恥ずかしいのよ」
「でも、先生ですし……」
「もう……」
呆れたようにため息をつきながらも、どこか嬉しそうだった。
「ほら、ここはこうするの」
ペンを取り、丁寧に解き方を示す。
イフリートは真剣にそれを見つめた。
「……あ、分かりました」
「でしょ?」
少しだけ得意げな笑み。
そのやり取りは、どこにでもある日常の一場面だった。
かつて“商品”と呼ばれていた少年も、今はここで普通に暮らしている。
名前があって、居場所があって、笑い合える日々がある。
イフリートの胸の奥が、静かに満たされていく。
けれど、
(……エスポワールさん)
あれから、一度も会っていない。
無事なのかも分からない。
それでも、あの人なら大丈夫だと、どこかで信じていた。
そんな中、部屋にノックの音が響く。
「はい」
リュンヌが顔を上げると扉が開き、マザーが顔を覗かせた。
「ごめんなさいね、お勉強中に。実はね、二人に会わせたい人がいるの」
マザーが横にズレると、その後ろに立っていた人物を見た瞬間、
「……エスポワールさん!」
イフリートは立ち上がり、駆け出した。
迷いなんてなかった。
そのまま、強く抱きつく。
確かめるように、離れないように。
エスポワールは一瞬だけ驚いたが、すぐに柔らかく笑った。
そして、優しく頭を撫でる。
「……随分、待たせたね」
イフリートは何も言えず、ただその服を掴んでいた。
リュンヌは腕を組みながら、呆れたように言う。
「ほんと、何してたのよ」
けれど、その口元は緩んでいる。
「無事で何よりだわ」
エスポワールは軽く笑う。
「心配してくれた?」
「してない」
だが、その声は優しかった。
マザーが穏やかに口を開く。
「ノワールちゃんはね、ここの施設長になることが決まったのよ」
「え……?」
イフリートが顔を上げる。
「私がお願いしたの。この子なら、この場所を任せられるって思ったのよ」
エスポワールは一瞬だけ目を細め、そして頷いた。
そんなエスポワールに、イフリートは嬉しそうに笑った。
「すごいです……!」
「まあ、あんたなら大丈夫でしょ」
エスポワールはその言葉に小さく笑い、そして少しだけ、真面目な顔になる。
「……もう、怪盗は辞めた」
イフリートが目を見開く。
「え……?」
「必要なくなったからね」
あっさりとした口調だが、その奥には確かな決意があった。
「ノアは捕まった。ここも守られた」
窓の外へ視線を向けると、子供たちの笑い声が響く。
「なら、もう“盗む理由”はない」
イフリートはその言葉を、静かに受け止めた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
リュンヌはふっと息を吐く。
どこか安心したようだった。
エスポワールはイフリートを見る。
「ここが君の居場所なんだろう?」
「……はい!もう、“商品”じゃないです」
イフリートのはっきりとした声に、エスポワールは満足そうに微笑んだ。
「いい顔だ」
軽く頭を撫でる。
その手はもう、奪うためのものではない。
守るためのものですらない。
ただ、見守るためのものだった。
穏やかな空気が、部屋を満たす。
笑い声が、優しく響く。
新しく始まった日常が、ここにある。
その頃、警察署の一室では、ミルフィはデスクに座り、書類に目を通していた。
タバコに火をつけ、煙を吐く。
「……やっと静かになったな」
ぽつりと呟くとその時、机の上で小さな音がした。
「……?」
視線を落とすと、そこには一枚の紙が。
さっきまで無かったはず。
ミルフィはそれを手に取ると、見覚えのある書き方に目を見開く。
「……まさか」
小さく呟き、ゆっくりと開き、そこに記されていたのは、
『予告状
世間を賑わす怪盗は、蝶のように飛んで、消える事にしたよ。
ありがとう、正義のヒーローさん』
と、ミルフィはしばらく、それを見つめていた。
「……勝手に終わらせやがって」
呆れたように言うが、その口元はほんの少しだけ、緩んでいた。
タバコの煙が、静かに立ち上る。
ミルフィは椅子にもたれ、天井を見上げる。
「……達者でやれよ、怪盗」
もう返事はない。
それでも、確かにそこにいた存在は、消えない。
風もないのに、予告状がわずかに揺れた気がした。
まるで、どこかで誰かが笑っているように。
そして、物語は静かに幕を下ろした。
END




