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失夏  作者: aros
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1話 風鈴の朝

朝の空気は涼しくて、

夜行バスと電車の疲れを感じないくらい、

山の匂いが胸に入る。


澪と駅で会って――気づけばここにいた。

昔住んでいた家。

けれど、懐かしいというより、どこか他人の家みたいだ。


風鈴が揺れた。


チリン


胸の奥が、少しざわっとした。


水を飲んで、

「買い物でも行くか」と外へ出ようとしたとき――


コトッ


玄関の引き戸が静かに開く音。


「……ん? 誰かいるのか?」


静かな声。驚いて振り返ると、

作業服の男性が立っていた。優しげな目、日焼けした腕。


「あ、えっと……」


僕を見て、眉がわずかに動いた。

じっと見つめる。時間が少し止まる。


「……もしかして。青司くんか?」


息が喉に引っかかる。


「はい。……夏目青司です」


男性は小さく息を呑んだ。

驚いたような、信じられないような、そして少し困惑している顔。


「……そうか。帰って……来たのか」


言葉を選ぶみたいに、ゆっくり。


「急に見たからな。びっくりしたよ」


「すみません、勝手に……」


「いや、まぁ……」

気まずそうに笑ってから、ポケットを探る。


「ほら、これ。鍵だ。元々お父さんから預かっとったんだよ。

 『何かあったら頼む』ってな。ずっとこのままやったけど……

 まさか使う日が来るとは思わんかった」


キーリングに付いた古びた鍵が光る。

受け取る手が少し震えた。


「ありがとうございます」


「……泊まるとこ、ないんだろ?」


頷くと、男性はふうっと息を吐いた。


「まぁ、ここなら落ち着くだろ。好きに使え」


それから一瞬目を伏せ、

迷うように言葉を飲み込んだあと、静かに続けた。


「……元気そうでよかった」


その“よかった”の中に、

言えない何かが混じっている気がした。

聞いちゃいけない気もした。


「困ったら、すぐそこだからな。遠慮するなよ」


「はい」


男性は軽く会釈して去っていった。


遠ざかる足音。

静けさが戻る。


「青司くん」


「うわっ!」


振り返ると、澪が縁側の柱の影から顔を出した。

また音がしなかった。


「おじさん、行った?」


「え…あー……うん……ずっとそこにいたの?」


「うん」


それが当然みたいな言い方だった。


「じゃあ、ちょっと用あるから。またあとで」


少し笑って、すっと視界から消える。

気配が残らない。風みたいだ。


(……ほんと、すぐいなくなるな)


呟いてから、坂道を下る。


細い道。草の匂い。

遠くで小学校の子どもたちの声。


生活は、ちゃんと続いていた。

僕がいない間も。


やがて、小さな商店が見える。


戸を開けると、冷たい空気。

数人の地元の人がいて、僕を一瞬見たあと、

「あっ」と驚いた表情をした。


名前を呼ばれた気がする。

曖昧に笑って会釈する。


言葉は交わさなかった。

でも、それだけで胸が温かくなった。


缶ジュースを買い、外に出て、プルタブを引く。


音。

炭酸の刺激。

夏の匂い。


(……帰ってきた、のか)


まだ実感は薄い。

ただ、風が頬を撫でたとき、

少しだけ息がしやすくなった。


遠くでまた、風鈴が鳴った。


チリン


その音だけが、昔の何かをそっと叩いていた。


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