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「おはよう」
「お、おはよう」
前もって約束していたから、勉強会の場所は宮瀬くんの家になった。うちでもよかったけど、自分から誘ったのに宮本の家にお邪魔するのは悪い、といって宮瀬くんが断ったのだ。
僕たちの家はそんなに遠くなくて、最寄駅は違うけど、歩いて二十分くらいで着く場所だった。
もらった住所を頼りに宮瀬くんの家まで歩いていたら、迎えにきてくれていたようで途中で会った。持ってきた手土産は宮瀬くんの手に握られている。二人で歩いている間、宮瀬くんは間を繋げるために色々と話してくれた。それがとてもありがたい。
宮瀬くんは本当に優しい。
一軒家の家には姉と二人暮らしらしい。今日はサークルがあっていないらしいから、僕と宮瀬くん二人きりだ。早速宮瀬くんの部屋に通されて、淹れてくれたお茶を口に運んだ。
「それで何から勉強しようか?」
宮瀬くんに聞かれてリュックの中身を確認した。テストは二日後だ。もはや得意科目はやらなくてもいいと思っているので、机に出すのは理系科目の教科書だ。
「生物? 宮本は生物が苦手なの?」
本当は苦手っていうほどでもない。僕は無意識に頭を掻いた。そして気付いた。宮瀬くんが僕と勉強をしたがっていたのは、勉強を教えてもらいたいからなんじゃないだろうか。
宮瀬くんはバスケを頑張っていて、たまに授業中に寝てしまっている時がある。だからテストの点数が心配で僕に頼んだのかもしれない。なるほど僕は宮瀬くんの役に立てるのかもしれない。
「み、宮瀬くんはな、何か不安な科目ある?」
「俺? 俺も生物が苦手かな」
「じゃっじゃあ生物をやろう!」
目の前の教科書をパラパラ捲って宮瀬くんに見せた。
「ぐ、具体的にどこが苦手とか、あ、ある?」
「あー。こことか」
宮瀬くんは勉強机から問題集を取り出してミスしたところを見せてくれた。確かにここは難しい内容だけど、テストで心配する必要があるほど、間違えているわけでもない。だけど、本人が不安ならと僕は宮瀬くんに寄った。
「ちっ近いな」
宮瀬くんの体が一瞬引いたので、もしかしたら人と近距離でいることが苦手なのかもしれないと気づいた。
「はっ離れる…?」
「っいや! ……そのままでお願いします」
「う、うん」
一通り宮瀬くんのわからないところを説明したあと、範囲を指定して宮瀬くんと問題集を解くことした。
部屋の中央に置かれたテーブルに二人で並んでいると宮瀬くんの息遣いがよく聞こえた。問題を解いている姿を盗み見れば涼しげな瞳が文字を追っている姿がかっこよかった。
さらさらとペンを動かしている横で、僕も自分の問題に取り掛かっていると、宮瀬くんが声を掛けてきた。
「宮本、テストの点数で賭けをしない?」
賭け? それはお金を賭けたりする賭けのことだろうか。
「俺が勝ったら宮本のこと下の名前で呼ぶ権利、で宮本は俺を颯人って呼ぶ義務。宮本が勝ったら……なんでも好きに決めていいよ」
下の名前を賭けるみたいだ。そんな……どうして? 勝負をしなくたって僕の名前をどう呼ぶかなんて宮瀬くんの自由なのに。むしろ勝手に宮瀬くんが好きなように呼んでほしいのに。僕はまだ宮瀬くんと同じ土俵に立てていないから……。
「……いいよ」
横で宮瀬くんが微笑むのを感じた。薄い弧を描く唇を見ることは叶わなかった。
家に帰ってから宮瀬くんが僕を勉強に誘った理由がまたわからなくなった。あのあと他の科目もしたけれど、どれも宮瀬くんはまったく問題があるように見えなかったから。
僕が役に立てるかもなんて、生意気なことを考えてしまった。
一週間かけて行われたテストは案外すぐに終わって点数が返された。最近は倫理観の問題からか黒板に順位が張り出されるなんてことはないけれど、帰ってきた答案の点数を一つ一つメモして宮瀬と見せ合った。
結果は僕が勝った。帰宅部で普段から勉強に集中しているから、バスケを頑張っている宮瀬くんに負けることはないだろうと思っていたけど、なんだか勝っても残念な気持ちが募るだけだった。
「俺の負けかあ。宮本何がほしい?」
賭けをしていたことを覚えていたみたいで宮瀬くんがにこやかに聞いてきた。負けたのに悔しそうな感じは少しもしなかった。
「……す、少し考えていい?」
「もちろん」
その日はずっと何を貰うか考えて過ごした。そして寝る直前、少し脳みそが判断能力を失うのを利用して送った。
――友達になってください。
一週間かけて返されたテストだったから、また土日を挟んで学校に行った。
この二日間宮瀬くんからの返信はなかった。既読はついていた。でも返信がなかったから、もしかしたら僕なんかに友達になってくださいと言われて、気持ち悪いと思われたのかもしれない。
なんだか会うのが気まずくて、気まずいのは多分返信をしていない宮瀬くんもなんだろうなと思うと気分が沈んでいった。
教室に入ると宮瀬くんがいた。僕は普段から早めに来るように心掛けているから、教室にはあまり人はいない。僕に気付いた宮瀬くんは音を立てて椅子から立ち上がると、まっすぐ僕の前まできてそのまま腕を引いて僕を引きずった。
たまたま開いていた準備室に連れ込まれると、宮瀬くんは僕を振り返った。電気をつけていない薄暗い教室でその眼光が怖い。
「奏、俺たちまだ友達じゃなかったの?」
「えっ?」
下の名前で呼ばれた。そのことに意識が集中して宮瀬くんの話はほとんど抜けていってしまった。
「しっ下のなっ名前……」
「え? ああ、奏が勝負に勝って友達になって言ったから。友達は下の名前で呼び物でしょう? だからこれからは奏も俺を颯人って呼ぶんだよ? 友達だから一緒に遊びに行かないといけないし、寄り道とかもしたいよね、それから――」
「まっまっ待って!」
迫ってくる宮瀬くんに俺が手を前にすると、彼の胸板が当たった。夏服になっているから彼の肌と僕の手とを隔てるのはシャツ一枚だけだ。思わず顔が熱くなってしまった。
「メ、メッセージ、き、既読無視、で……」
「それは奏があんなふざけたこというから怒ってたんだよ。俺はずっと奏のこと友達だと思ってたのに違ったんだな、悲しいな、ひどいなって」
「ご、ごめんなさいっ」
「謝ってほしいわけじゃないよ」
そうは言うものの宮瀬くんは結構怒っているみたいだった。恐る恐る顔を上げたら笑っていない目が僕を見下ろしている。イケメンがそんなふうに見てきたら迫力があるに決まっていて、僕の目には薄い膜ができた。
「……っ!」
宮瀬くんが空気を吸い込む音がしたと思ったら体に強い圧がかかった。抱きしめられているんだと気付いたのは少し後だった。
「ごめん。怖がらせるつもりはなくて……。ただ……いやいい、この際はっきり言う! 俺が怒ってた理由ね、俺はまだ奏にとって友達のステップにもいけてなかったんだなって思って……」
言っている意味がわからなかった。ただ俺を抱きしめる宮瀬くんの心臓が頬を打ち、耳に響いていた。しばらく黙っていた宮瀬くんに、何か返事がほしいのかもしれないと思ったけど、やっぱりなんて応えるのが正解なのかわからなくてただ抱きしめられるまま、宮瀬くんが言葉を続けるのを待った。
僕は卑怯だ。
「奏、奏」
「……うん」
名前を呼ばれると胸がキュッとなる。僕の耳はすごく熱いと思う。僕の頭を抱きしめている宮瀬くんの手もそのことに気づいているだろう。
「……奏、好きだ」