小さな箱庭と鯖の味噌煮
「今日のお昼は、あんたの大好きな鯖の味噌煮にしようかね。」
「ありがとう、お婆ちゃん。俺、やっぱりお婆ちゃんの作る鯖の味噌煮が一番好きだよ。」
俺は、アパレル関係の仕事をしながら、とあるアパートの113号室に祖母と共に住んでいる。
物心ついた頃から、祖母の作る鯖の味噌煮が好きだった。
「今日のお昼は、あんたの大好きな鯖の味噌煮にしようかね。」
「ありがとう、お婆ちゃん。」
ありがとう、お婆ちゃん。でも、もうお昼はさっき食べたよ。
口には出さない。
祖母が忘れっぽくなったのはいつからだろう。
祖父が亡くなってからだっけ。
婆ちゃん、泣いてたな。
でも翌日には穏やかな顔してたよな。
「そんなに好きなら、あたしがレシピを教えてあげるよ。ほら、一緒に作ってみよう。」
「ばあちゃん、これおれでもつくれるの?つくれるなら、おれやってみる!」
「うえー、ぜんぜんおいしくないよ。なんでだろう。」
「最初は上手くいかないものさ。何回も挑戦して、何回も失敗して、そして成長することが大事なんだよ。ほら、また明日一緒に挑戦しようね。」
今思えば、最初はひどい出来だったな。
婆ちゃん、嫌な顔一つせず毎日味見してくれたっけ。
お年寄りが呆けるなんて、よくある話だ。
そうと分かっていながらも、身内がそうなることはないと、心のどこかで考えていたのかもしれない。
今日は味噌煮のための鯖を買いに行く。
今は心の平静を保っていられる、婆ちゃんが味噌煮を作ろうと言ってくれているうちは。
婆ちゃん、俺、本当はね、一人で作れるようになったんだよ。
「今日のお昼は、あんたの大好きな鯖の味噌煮にしようかね。」
「ありがとう、お婆ちゃん。」
「今日のお昼は、あんたの大好きな鯖の味噌煮にしようかね。」
「嬉しいよ、お婆ちゃん。」
「今日のお昼は、鯖の味噌煮を作ろうかね。」
「俺、それ好きだよ。」
「今日のお昼は、何にしようかね。」
「俺、鯖の味噌煮が食べたいな。」
「今日のお昼は、あ、えっと、どこかで会いましたか?よかったら一緒にお昼でもどうですか?」
「いいですね。俺、鯖の味噌煮が好きなんです。」
辛いよ。
「まだお昼を食べていないんです。よかったら何か振舞ってくれませんか?」
「いいですよ、鯖の味噌煮で良ければ。」
初めて一人で鯖の味噌煮を作る。
何回も、何回も教わった味。
月曜日。火曜日。水曜日。木曜日。金曜日。土曜日。日曜日。
毎日、毎日、教わった味。
「できましたよ。俺の大好きな人に教わった鯖の味噌煮です。その人のものには及ばないかもしれませんが。」
「美味しいです。とても丁寧に教えてもらったんですね。温かい味がします。」
やっぱり辛いな。
死ぬよりも怖いことが俺にはあったみたいだ。
いつか、思い出しておくれよ。
今日も、想い出の詰まった小さな箱庭に帰る。
ほのかに味噌の香りがした。