白黒兎
人は皆理想を追い求めるものだ。もちろん僕も例外ではない。彼女は美人がいいし、YouTubeドリームを掴んで楽して稼ぎたい。東大に行きたいし、絵が描けるようになってチヤホヤされたい。まぁ叶うはずないのだが。そんな理想を連ねながら歩いていると、嗅ぎ慣れた小籠包の匂いの中にある不自然な看板に目を奪われる。
「楽園の入り口はこちら」
楽園、なんていい響きなのだろう。存在するはずがないとわかりながらも、ぴょんぴょんと跳ねる真っ白な心と共に建物へ近づく。午後五時のチャイムが聞こえてきた。
入場口は案外質素で期待外れ。受付の人だって普通だ。
唯一異質だったのは値段や時間などの一切の説明なしに中へ通されたことだけ。新手の詐欺だろうか。
中には外見からは想像できないほどに広大な空間が広がっていた。空にはなにか巨大な輪っか状のものが浮かんでいて、まるで中世のような美しい街並みであふれていた。たくさんの他のお客さんたちがいる中で、ところどころに白い服を纏った従業員らしき人たちがいる。設定に忠実で素晴らしい。街中を見て回る。すべてが丁寧に作りこまれていて、本当にここが楽園であるかのように錯覚しそうになる。ネズミの国なんか比にならない。
目の前を真っ黒なうさぎが横切る。
珍しさに惹かれ、無意識にあとをつけていた。
橋を渡る。村を通り過ぎる。だんだんと街から遠ざかっていく。森林を抜ける。
気が付いたらうさぎの姿は消えていて、広大な花畑が広がっていた。さっきまであれだけいた人々は一人もいなくなり、独特な空気に魅了される。
なぜだろう。今まで花になんて微塵も興味がなかったのに。一切の羽音がなくただ眺めることに集中できる。なんて素晴らしい空間なのだろう。もし叶うのなら一生ここで暮らしていたい。
まあ無理なんだけどさ。
この場所に来てどれくらい経っただろうか。スマホを取り出し時計を確認しようとすると、突然背後から声が聞こえた。
「——ねぇ」
振り返ると少女が立っていた。年齢は僕と同じ高校生くらいに見える。黒くてふりふりした、所謂ゴスロリのような服を身に纏う彼女の異質さは、この空間に新しい美を生み出していた。彼女は言葉を続ける。
「花、好きなの?」
その見た目とは裏腹に、抑揚の少ない落ち着いた声が響いた。戸惑いながら答える。
「いや、好きなのはここの花だけだよ。ここの花たちはいくら見ても飽きない」
「私もここの花好きだよ。この子たちにしか出せない輝きがある。」
彼女はやけにこの場所に適合していた。
「君はここの管理者かい?」
「そうだよ」
彼女は少し自慢げに言った。
「どんな技を使ったらこんな素晴らしい花園を作れるんだ?」
「それは内緒。楽園パワーってやつだよ」
彼女は人差し指を口にあてながら答える。
無言が続く。
急に彼女が問いかけてくる。
「君はお家に帰りたい?この空間から離れたい?」
「え?」
唐突すぎて返答に困る。
「もったいないじゃん、こんな綺麗な世界から離れるなんて。ずっとここに居たくない?」
「居たいとは思うよ。けど、帰らなきゃいけない」
「どうして?」
「学校があるし、家族だって心配するし。学校だってあるし。ずっとここに居るなんて現実的じゃない」
「そう?学校に行かなかったところでこの世界にはなんの影響もない。いくら家族が心配しようともう二度と会わないんだから関係ない。」
確かにその通りだ。なぜこんなにも元の世界に固執しているのだろう。ここにいたら幸せなのに。しばらく沈黙が流れる。
彼女は言う。
「一生ここで暮らそうよ。なんの苦労もしなくても幸せに生きられる。ここは誰だって受け入れてくれるユートピアだよ。」
彼女は優しく微笑み、続ける。
「一緒に日常の使命感から抜け出そうよ。」
そういう生き方もいいかもしれない。
——君の笑顔に引きつけられる。
視界が狭まる。
——君の世界に飲まれていく。
「……っ!?」
急に心臓が飛び跳ねた。目が覚める。視界が開ける。
「でも、やっぱり帰りたい」
発すると同時に「矛盾の手がかり」に気づく。世界の色が変わる。ユートピアがディストピアに反転する。目の前の少女に畏怖する。少女が何か言おうとしているが、その言葉を待つ余裕もなく、逃げ出す。もちろん帰り道なんて覚えていないから、ただ心の言うままに走る。
本当にここは楽園なのだろうか。多分違うだろう。だが、それはここから抜け出すことでしか証明できない。どうか偽物であってくれ。こんな場所が理想郷なんて嫌だ。理想郷に自分の理想を押し付けるために走る。
森林に入る。草木に襲われるような感覚に苛まれる。来た時よりも足場が悪く、方向感覚が狂いそうになる。絶対に逃がさないという鉄壁の意思が伝わってきた。気を確かに持ちながら走り続ける。
へとへとになりながらやっとのことで村に着いたが、村人達の視線が怖い。こいつらも仕込みだったのか。休む暇もなく村を飛び出す。街が見えてきた。橋を渡ろうとする。風が吹く。橋が揺れる。落ちないように必死に手すりを握る。もし隣に女の子でもいたらきっと恋が始まっていただろう。ゆっくりと進む。何とか渡り切る。身体の疲労を忘れるほどに、心が疲れた。
やっと街に戻ってくる。さっきよりも人が減っているように感じる。街の色は変わっていなかったが、それが余計不気味に映る。歩き回るが出口が見当たらない。恐る恐る何人かの従業員に聞いてみたが、全部はぐらかされた。仕方がないから入場口を逆走する。やけに驚いた様子の受付に呼び止められたが、無視して建物から抜け出した。
見慣れた景色に戻ってくる。漂ってくる小籠包の匂いに安心する。まだ五時のチャイムはなっていた。どうやら一切時間が進んでいなかったようだ。すごいな楽園パワー。周りを見渡す。楽園の看板も、建物も、まだ存在していた。反例が生まれたのにも関わらず。
やっぱりあそこは楽園なんかじゃなかったんだ。再び安心する。
イヤホンを装着する。スマホを取り出して音楽をかけ、帰路についた。