コイシツ
スタジオの重いドアが開く。
「ただいまより、大道 アスカ役の、
笹森 汐さん、入ります!」
ADの声が響きわたった。
お笑いコンビの退室後から、
二時間四〇分ばかり 経過していた。
メイクを済ませた主演女優がスタジオ入りすると、
スタジオ内の空気は、一瞬だけ静止した。
胸をはり、ゆっくり歩き出し、集中を高めていく。
中央にデンと据えられた、
ラジオブースの精巧なセットに、
ちらっと目をくれる。
(ドラマでもっともお金のかかったセット)
ライトの落とされたブース内で、
肩を落とし 憔悴しきっている
サウンドステッカーの姿がズームアップされた。
「あちゃー、
お笑いライブとドラマでは勝手が違ったかー!」
どんより沈んだ空気がスタジオ内に立ちこめていた。
演出家に近づいて一礼すると、
彼は、あいさつ抜きで開口一番。
「 汐 坊 よ、
やっこさんたちは × (両方の指を交差させて)だな。
木偶の棒に違いない。
懇切 丁寧 に指導して、
47テイクやってもサッパリ魂が入らんのだ。
キャスティング部の責任問題だぞ、こりゃ」
小柄だがパワフルな彼は、
首を左右に数度ふった。
汐はこみ上げる笑いを必死でこらえた。
朝の連続ドラマ 『サスティーン』 は
四人の演出家でローテーションを組んでいる。
目の前の、井箟さんは、
チーフ・ディレクターで一番エラい。
別名を コイシツ(しつこいの引っくり返し)
と呼ばれていた。
納得いくまで粘り強くテイクを重ねていく。
怒鳴ったりなど決してしない。
ふだんはラフな口調だが、
ダメ出しの時は、
おそろしく丁重なトーンになる。
役者の弱点を正確に穿つような物言いを、
鋭くしてのける。
開いた傷口に塩を 擦り込むように、
槍のような言葉を、論理的に順を追って、連ねる。
(役者には、これがツライ。いたたまれない。ぺしゃんこになる)
ほかの演出家は、
めったに日付変更線をまたがないのに、
30時上がりなどザラだ。
30時上がり ━ 6時入りなんて日もあった(いつ寝るのだ?)。
より良く、さらに良く、
といった不屈のメソッドをモットーとしている。
明確なミスでなくても、
感覚的にNGをだしてくるケースがある。
これが厄介なのだ。
汐も、トチった覚えはないのにも関わらず、
13テイク喰らったことがあった。
ひらめき型の汐は5テイクを超えると
芝居が薄くなる傾向にあり、
欲ばり演出家の理解をえるまで議論の火花を散らした。
元舞台演出家の彼は、
てにをはから・アルファベット・
活舌・ 口跡・
自意識芝居(特に嫌った)に至るまですべてに厳格、
アドリブは禁止
そのくせアドリブを求めてくることがある。
演技のタイミングをちょっとでもハズすと、
即座に「カット!」「リテイク!」と相成る。
わけても (鉄は熱いうちに打て) 、
新人には容赦なく指導する方針ときている。
ドラマの賞を(海外を含め)多数得ているので、
実績の威光は凄まじかった。
その執拗さ、厳しさから、
役者界隈では、恐れおののかれていた。
コイシツの顔なんか見たくないけれど、
彼のドラマには出たいというジレンマ。
懇切丁寧な指導を受けた、
サウンドステッカーは沈没寸前だった。
今日は重要なエピソードの撮影だから、
演出ローテを崩して、チーフ参上ってわけデスか。
お笑いコンビには不幸なめぐり合わせというよりない。
コイシツはタイプこそ違え、
乙骨プロデューサーと
一脈 通ずるところがあり、
汐にとって、やりにくい演出家では、今はなかった。
井箟さん は、
ヘルプサインを出していると、
汐は直覚した。
彼は、即興 演出 嫌いで有名である。
残念だけど、
今回はそれが裏目に出てしまった・・のだろう。
たしかに、脚本じたい詳細に書かれてはいる。
しかし、DJトークのドライブ感を、
セリフ書きするのは不可能に近いと思う。
汐には交渉を重ねて、
ようやくアドリブを認めさせた経緯があった。
では、なぜ、
準備も整わないこの状況で、汐が呼ばれたのか?
答えはシンプル・・
主役のお前がこの場をおさめろというコトである。
演出家は表立って、
自分のメソッドを変えたくなかったのだ。
プライドというやつだ。
実績を持つ大人はややこしい。
《完璧な人間はいない》
有名な映画のセリフが頭をよぎった。