本番前
顔の見えない読者様へ。
お久しぶりです。
汐坊が帰ってまいりました。
長ーイ話になりそうなので(多分)。
根気よーくお付き合いのほどを!
それと、規則正しくアップするのは難し━イことを、
あらかじめおことわりしておきます。
それでは、楽し━イひと時をお過ごしください。
笹森 汐は控室で待機していた。
某公共放送局の個室。
一人きりだ。
本番前の精神統一タイム。
耳鳴りがきこえるくらい静かである。
引き締まったこの時間を邪魔する者はいない。
マネージャーも付き人も、
気をきかせて出払っていた。
畳敷 きの部屋で、
背すじをピンと伸ばし、
座布団の上に正座している汐は、
付き人が淹れてくれたお茶や、
器に入った菓子には目もくれず、
ひたすら台本を凝視している。
木製テーブルの上には、
朝の連続TVドラマ『サスティーン』の台本が置かれ、
当該ページが開かれていた。
本日は番組前半の山場となる重要な撮影をひかえており、
気力のヴォルテージを、
慎重に昂めている最中なのだ。
彼女の周囲の空気が軋み始め、
内側にバンク、そして旋回。
集中力のアメーバが蠢きだし、
蠕動運動を始める。
雑念はしだいに失せ、
遠近感があやふやになり、
視野は拡大されて、
直観のアンテナが研ぎ澄まされていった。
自分自身の軸足はまだこちら側。
ゾーンの扉がもう、すぐ、そこ、
目の前に感じられる。
キリキリと締め付けられてゆく心臓。
苦しいけど心地よい無呼吸症感覚。
断末魔の亀裂から、
否応なく噴き上げてくる法悦。
言語を拒絶する尖感。
生きているってコレだ!
ゾクゾクするようなタイムを汐は、
脳髄の胃袋で満喫していた。
波形は少しずつ下降し、引き絞られた集中がゆるみ始める。
先ほどから控室前に待機しているコンビの男女。
45分以上経過していた。
ドアには『笹森汐 様』と印刷された上質紙が貼られている。
ふたりは、細心に控室の気配をうかがい、うなずき合うと、
意を決して、女性の方がノックした。
下積み生活の長かったお笑いコンビは、
空気を読むコトにかけては敏だった。
格上の者のきげんをそこねない術を身につけていた。
いや、生き抜くためには身につけざるをえなかった。
「どうぞ」という 声にしたがい、
粛々とドアを開ける。
主役の名前が入った特注の長暖簾をくぐり抜けたとたん、
コンビは目を円くした。
広くて清潔な控室には花や贈り物があふれんばかり。
豪華な専用化粧前(鏡台)、空気清浄機、加湿器2台、etc。
上がり框には、
洒落た小さめの赤い靴がかかとをそろえて置かれ、
その向こうに控えし畳部屋には、
次期CM女王といわる主役ときたもんだ。
自分たちのいる大部屋とは別世界である。
お笑いコンビは、しばし目をパチクリさせ、
自己紹介をすっ飛ばして、
90度を越える、
腰に負担のかかりそうな、長いお辞儀をした。
汐はクスっと笑みを浮かべながら、
立ち上がって丁寧にあいさつを返す。
コンビは三十代半ばの年長者である。
寄席を中心に活動しており、上昇気流に乗りつつあった。
座布団を二枚並べて敷き、畳部屋の方へ導く。
しかしコンビはかたくなに辞退した。
仕方なしに、専用冷蔵庫から、
お茶のミニペットボトル(汐のCMでおなじみ)を二本取り、
ふたりに進呈する。
受け取る際、コンビの手は、こころもち震えていた。
「はじめまして、サウンドステッカーさん。
笹森 汐 です、ヨロシクね」
柔らかい笑顔を向け、
コンビをリラックスさせるや否や、不意打ちを喰らわせた。
彼女は、お笑いコンビの持ちネタを、
得意の物まねでそっくり再現して見せたのだ。
「ううっ!」息をのむコンビ。
似ている・・表情・・
イントネーション・・間合い・・
一人二役の(鮮やかな)演じ分け・・
かてて加えて、
本家をも凌ぐアドリブセンス・・
選ばれた人だけが持つ、見る者を吸い寄せる魔力。
呆然としている芸人コンビの、
ネタ作り担当は「男性の方」である。
その彼がどうしてもうまく書けなったところ、
相方とのネタ合わせでもうまくいかずに悩んでいた袋小路を、
ブラッシュアップさせスマートに通過していた。
(そうか、この手があったか!)とネタ担当はホゾを噛んだ。
18歳のくせして、
驚くべき遣い手じゃないか。
世間がさわぐだけのことはある。