第五話 第二の女帝① 現代の貴族、七竈戸ミミ
「七竈戸ミミか……あの女!」
その名前は勿論知っている。
仇敵の一人、『第二の女帝』その人だ。
「あら、やっぱり知ってる人?」
酔っているので私の怒りに気付かず陽気に次のビールを開けている。
「仕事してたら『会社の偉い人の娘さんが突然視察に来たよ』ってザワザワしてて、職場に制服着たお嬢さんが現れたの。そしたらアンタの先輩だって言うじゃない」
「そろそろビールやめなよ。何でこんなに……」
「当たったのよ! 福引よ。ダースで当たったのよ! 不幸な私へのお恵みでしょ? キャハハ!」
取り敢えずビールの入った箱を持ちキッチンの隅に追いやる。そのまま氷を入れた水をドンとちゃぶ台に置いた。
「んもー……今日くらい良いじゃない」
「健康診断悪かったでしょ! で、どうなったの?」
「そうそう、『娘も同じ高校です。南早田をよろしく』って挨拶したのよ」
「……」
「そしたら、その日の帰りには懲戒解雇よ。上司に聞いても『すまない。無理だった』しか言われなかったのよ。その日の日当も出ないって、無茶苦茶でしょ! うぅぅっ……ぐすん」
突然泣き上戸に変貌する波子。
「ちょっと……今日は着替えて一眠りしなさいよ。夜勤も無いんだから」
「そうよ! もう夜勤にも行けないのよー!」
服を脱ぎ散らかしながら下着姿で乱雑に布団を敷いて寝てしまった。既に寝息が聞こえる。
無言で脱がれた服を洗い物カゴに放り込む。
「こちらの服をすぐに洗って。あと、この女が起きたら冷たい水と何か軽い食事を出してやって……」
突然前世のエリザベートの気分で存在しない侍従に声を掛けた。
暫くすると肩が震え始める。
何で……こんなに細やかに暮らす普通の人々を気紛れで虐げるんだ。七竈戸はこの世界の貴族である財閥の創業一族の血縁と聞く。権力者はどの世界でも同じだと言うのか。
私は貴族の気紛れで不幸になる民衆を多数見ていた。それは民衆からは天災と同じような避けられないものとも認識されていた。
それに反骨したのも多分にある。ノブレス・オブリージュ(高貴な身分を持つ者の義務)の精神に賛同したのもある。私は個人資産で養護院を設立、運営に携わっていた。
ふふふ、社交界を駆け抜ける為に決して褒められない行いも躊躇しなかった。だから、最初は贖罪の意味だったと思う。下町で身分を隠しベティと名乗って、孤児や貧困家庭の子供達の世話に汗を流すという下賤な身分に自らを貶めていた。
粗末な衣服に身を包み、汚れるのも厭わずに必死で子供達の衣服を洗濯し、大量の食事を作って配膳したり、泣いている子をまとめて抱っこして散歩をしたり。
そうよ。贖罪だったわ。これだけ辛いことをすれば私の罪も薄まるのではないかと。でもね……忙しく手を動かしている間中、エリザベートは笑ったり、怒ったりと感情豊かに、素直に生きることができていた。
自分が自分になれる時間。
年頃の女の子として一番素直になれる時間。
んふふ、そんな時を過ごしていたら、いつの間にか下町では『天使のベティ』なんて過分な仇名で呼ばれるようになっていた……わ……ね。
「よもや、それらを逆手に取って……マリアンヌ! この身が滅びようと貴様の首を噛み切るまでは恨み治らんぞ!」
いつの間にか憎悪を叫びながら息荒く号泣していた。
「ダメね……あの子達を想像するとまだ怒りに我を忘れてしまう」
思考を元に戻す。第二の女帝。何の目的? ただの気紛れ?
「何にせよ、許せん!」
この世界では細やかな幸せを掴めれば重畳と思い始めていた。この波子という女と二人で慎ましく生きていければ、それで良いとさえ思い始めていたのだ。
七竈戸……攻撃されれば反撃は厭わん。
我、反抗作戦を開始する!
◇◇
胸の上で規則的な振動が数回した。まだ微睡の中に居たが、波子を起こさないように胸の上にスマホを置いて寝たことを思い出した。
なるべく音を立てないように布団から起き上がる。横の布団で寝ている波子は寝入った時の姿勢のままだった。そっと顔を近づけると規則正しい寝息を感じる。
安心してから静かに身支度を始めた。
「今日はゆっくり休んでね、お母さん」
ちゃぶ台には『冷蔵庫に朝ご飯のヨーグルトがあります』と置き手紙をして、そっとドアを閉めた。
◇◇
高校まで徒歩十五分。歩きながら一人で作戦会議を実施するが何も良案は出なかった。
相手が強大すぎて勝てるイメージが浮かばない。
『第二の女帝 七竈戸ミミ』
七竈戸財閥の創業者一族の末裔。
七竈戸重工業、七竈戸商事、七竈戸銀行、七竈戸建設を四天王企業と呼び、その他の中核企業四十社、傘下の企業三千社で多業種企業体を形成している。
正しく王国であり、創業一族は貴族というべき存在だった。品行方正、眉目秀麗、文武両道と噂は聞こえてくるが、殆ど登校しないため姿を見たものすら稀な存在だった。女帝達の中でも最も情報が少ない。
「作戦の立てようがない……」
絶望を感じる。こちらは敵の鎧の隙間に剣を差し込むしか勝機は無いのに、今回は相手が先に搦手を使ってきた。これには全く想定も準備もできていなかった。
このまま兵糧攻めを続けられるだけで負けてしまう。
女帝に傅く騎士も謎が多い。
『第二の女帝に傅く騎士 柏原伊吹』
叶笑の記憶にも数回、体育館で表彰されているのを遠くから見たことがあるだけだ。稀代の天才と噂され、肉眼で見るよりテレビのニュースで見た回数の方が多いくらいだ。
「騎士なのに脳筋じゃなくてインテリだな。まぁそういう輩の方が容易く堕とせるか……」
とはいえ接点も無いのでこちらも作戦も立てられない。焦らず情報収集するしかないか。
一応の結論を出したところで教室の前に着く。扉を開けようとしたところで違和感を感じる。
何だ……浮ついた空気を感じる?
気にせず扉を開けると扉に挟んであった黒板消しが落ちてきた。それを見もせずに左手でキャッチする。
何の悪戯だ? 魔導防御が働いてしまうではないか!
魔力を持って生まれると、軍事経験の有無に関わらず自らの身を護る訓練を受ける。そしてそれは無意識に発動してしまう。
叶笑が化け物扱いされるのは避けたいのだよ。
少しだけ教室の中を睨みつけると自分の席に見慣れない女子生徒が座っていた。周りをクラスメイトが取り囲んでいる。
「あはは、流石ね、南早田さん。人が変わったように冷静になったと聞いたけど、あんな事があったから悟りでも開けたの?」
「お、お前は……」
よもや、七竈戸ミミか。
強姦パーティー見学会を主催して私の破瓜を眺めるニヤけた顔、一時も忘れることは無かったぞ!
「何用で?」
小首を傾げ怒りの感情を隠し、物腰柔らかに問いかける。
まずは情報収集を――
「――あら、怒ってるの? 怖いわ……」
くっ……どうする? 流石は上級貴族の令嬢。返しが厳しい。こちらが冷静さを失えば、どんな罵詈雑言が自分の口から出るか。それは立場を悪くこそすれ良くはならん。
一段階、仮面を厚くするしかないか。
「あら、黒板消しを落とされたくらいでは怒っていませんわ。あんな可愛らしい悪戯。気に留めませんことよ」
言葉遣いが……苦笑したくなるほど社交界での喋り方になるな。いや、冷静さ重視だ。
必死にニコニコしていると、急に不機嫌そうになるミミ。
「乳母や従姉妹みたいな顔と喋り方しないでよ! もー、面白く無いから帰る!」
突然立ち上がり颯爽と教室を出ていく。
「あっ、待って下さい。色々とお話聞かせて欲しい」
「面倒よ!」
取り付く島がない感じだ。周りの生徒も困惑している。さぞ楽しくお話ししていたのだろう。
「ごめんなさい。急な悪戯で本当はびっくりしてて……」
と言った方が普通だろうな。そっと席に座る。周りの女子生徒達はまだ自分の席に戻らず姦しくしていた。
「そ、そうよね。あんな事するお方だとは知りませんでしたわ」
「お近づきになりたかったけど……気難しい方でいらっしゃるわね」
「ふふ、でもお友達になれたらお父様、お小遣い倍にしてくれるわよ」
「そうね! お小遣いが倍では一日ご一緒するだけで無くなりそうよ」
「ホントね、あはは」
口々に今の状況は誰も悪くない、と言ってくれている。何と! 皆が私を慰めてくれているのでは?
「皆さん……ありがとうございます」
素直に感謝の気持ちが溢れる。
ダメだ、まだ小さな幸せに浸るな! お前はまだ修羅の中に足を踏み込んでいるんだぞ。
「南早田さん、色々と大変だとは思うけど、気安く頼って下さい」
「そうよ、あんな事をされていたのは知りませんでした。昔の私を叱ってやりたいくらいよ!」
「クラスメイトは全員あなたの味方よ。覚えておいてね」
思わず目を見開きびっくり顔で固まってしまう。
そ、そうか。女帝『坂本那岐子』が騎士『松田蹴呉』を私に刺し向け襲わせた事、普通の女子生徒にも知れ渡るようになったか。
少し前まで私が一人泣いていても何も声は掛けてくれなかったが、無理矢理に純潔を奪われた事実には、流石に女としての矜持が先に立つということか。
「南早田さん、ファイトよ!」
「そう、ファイト!」
「ファイトっ!」
皆が鼻息荒く両拳を胸の前で握りしめ気合を入れろと言ってくれる。
そんな光景の中にいることを認識すると、びっくり顔のまま瞳に涙が溜まるのを感じた。ものの数秒で崩壊し大粒の涙がポロポロと机に落ち始める。
「ありがとう。元気出たわ!」
叶笑、見ているか。お前の切望していた光景だ。
この者達の期待に沿う為にも、絶対に勝たねばならぬな!
大泣きしながら周りの女子生徒達とは全く異なる決意を固めていた。
しかし、そんな風景を突然邪魔する男が現れた。
「賑やかだな。あまり得意じゃ無いんで静かにして貰えるかな?」
「あぁ、貴方様は麗しの……」
思わず周りの女子達の目がハートに変わる。
そこには『第二の女帝に傅く騎士』柏原伊吹が居た。
視線は私に向いている。
「何用か?」
「七竈戸に逆らう者は人に在らず」
「稚拙だな。脅迫とはな」
「ふん、貴様の中では事実を述べると脅迫になるのか?」
数学オリンピックに出る程の秀才と聞く。丁寧な顔の造りの優男に見えるが、何故か芯の強い雰囲気も垣間見える。
「あぁ、柏原様、何用でこのクラスに?」
「どうされましたか? 先ずは椅子にお座りください」
先ほどの一致団結ぶりからは打って変わってピンク色の雰囲気が少女達を包んでいる。
「この女に警告しに来ただけだ。長居はしない」
「警告とは穏やかでは無いですね……」
柏原を睨みつける。
「あら、南早田さんは柏原様とお知り合いなの? 羨ましい」
この雰囲気だぞ? 一触即発に見えないか?
「知り合いでは無い。もう良い! 何の警告だ」
「ミミ様に近づくな。この学校も辞めることだ。親の収入も無くなればこの学校には通えまい」
まさかっ!
「貴様、母は関係あるまい!」
「貴様の母親だろ? 勿論関係者の一人だ」
「何だとっ!」
ため息を一度吐き、教室から出ていく伊吹。
「1937年にローター・コラッツは一つの問題を提唱した。コラッツ予想、3n+1問題だ」
「……」
「四則演算を使った単純な証明問題に思われたが未だに解決していない。七竈戸に逆らう事の恐怖が分からないとしたら、算数が出来るからコラッツ予想の証明は出来る筈、と思い込んでいるに等しい」
「……」
「お前は負けているんだよ」
最後に捨て台詞を吐いて柏原は教室から出ていった。
少しの沈黙の後、最初に口を開いたのは私だった。
「ねぇ……何語を喋ってたか分かる人居ます?」
「うーん、柏原様はいつも難しい事を麗しい声で奏でられますもの」
「そうね、やっぱり分からないわ。でも声すらお美しかったわ」
「そうよ、二人だけの知的な会話、あぁ、憧れますわ」
「私、数学頑張ってるんです! そう、秘密の会話! えーっと『私の三角関数の秘密を解いて』とかね!」
「きゃーーっ!」
ダメだ。叶笑風に言えば、脳内ピンク色状態だな。ふふふ、叶笑の言葉は辛辣だ。
ん? 何か落ちてる……。
席を立って扉の方に歩き落ちている紙を拾う。
「カツ丼の百円割引券……」
急にドタドタと足音が遠くから聞こえてきた。
「ハァハァ……ここに割引券が落ちて……あっ!」
動きが止まる柏原。
「……どうぞ」
そっと割引券を柏原の前に出すが、何故か手を出さない。
何してるのかしら? 恥ずかしいとかかな?
「はい、どう――」
「――すまない! 期待させてしまった。本当にすまない!」
何故、そんなに焦る? よもや私が割引券をネコババするとでも思っているのか! 文句を言おうとした瞬間、割引券ごと両手を掴んできた。
「屈辱かもしれん。一度拾ったものを返せなど、あまりに虫のいい話! だが、これが無いと月に一度のディナーが……」
柏原の本気の焦りに気圧される。
「あっ、いえ……どうぞ」
「ありがたい! 貴女は恩人だ!」
何度も後ろを振り返りペコペコと頭を下げながら去っていく。
なんなの? 叶笑と同じ匂いがするわ、この男。
ギャップ狙いか何か……いや、これがこの男の本質……なのか?
不思議そうに見ていると、思い出したかのように悪役っぽいセリフを言い始めた。
「だが、七竈戸に与する立場。手加減はせぬ! 心胆寒からしめることになる前に逃げる事だ!」
割引券を大事に握り締める騎士。
そこには突破口になるかもしれない一つの推測。
こいつ……もしかして……貧乏?
第二の女帝編、開幕。
敵はあまりにも強大。叶笑は敵の攻撃を躱して反撃できるか?
★一人称バージョン 2024/1/3★