第一話 第一の女帝① 甘い菓子パンと坂本那岐子
「伝説の四畳半……」
誰も居ないアパートの一室で独り言を呟く。
ふふ、四畳半ってのは言い過ぎ。
まぁ、そこまでは酷くない。トイレ、キッチンありの六畳洋間でお風呂無し。
前世と比較したら負けよ! 爆速で敗北して号泣する自信があるわ。
目を瞑り顔を上に向けて涙が溢れ出るのを耐える。
そう、前世では皇太子妃の第一候補。名家中の名家、栄光のナイアリス家に生まれた華の乙女『エリザベート・ミシェル・ラ・ナイアリス』。
「それが六畳間……くぅ……」
貧乏シンママ一人娘の南早田叶笑に転生よ!
状況を正確に理解するほど涙が出てくる。まぁ、これでも落ち着いた方。ここ五日ほどは荒れに荒れて母親の波子に当たりまくりだった。今は心底彼謝りたいと思っている。
「さて、そろそろ現実に向き合いましょうかね……」
前世からノートに自らの覚悟を認めるのは好き。だから通称『幸せノート』は前世も何冊も書いた。ちゃぶ台の上のノートをじっと見る。
『アイツらに抗う』
これが初めて現世の文字を使って書いた宣言。
シャーペンをクルクルと回してからちゃぶ台に置く。
さぁ、叶笑! クソッタレの今世に全力で抗うわよ。復活記念として先ずは今日、反撃の狼煙を上げましょう。
すくっと立ち上がる。
「ふーーむ……」
頼りない体つきを確認する為に綿のワンピースを脱いで鏡台の姿見に身体を映す。
青い程に白い肌。胸は小さく、肋骨は浮き出て、長い黒髪と綿の下着が子供っぽい幼さを強調してしまっている。
「ガリガリのぺたんこ……ホント見窄らしい下着のまぁ似合うこと」
がっくしだよ。前世のエリザベートより背は二十センチほど低く、体重も二十キロほど少ない。年齢は然程変わらないのに肉つきも全然違う。
「肩凝りと無縁なのだけは良いわね」
ふふ、伝説の大お婆ちゃんもぺたんこだったと聞くわ。前世の私は十五歳くらいから胸の成長が止まらなくて大層自慢だったけどね!
さぁ、身支度して最初の戦いに挑みましょう。
鏡台の前に座って伝説のおまじないを唱えながら丁寧に髪の毛に櫛を入れる。
「キューティー、キューティー、クルクルキューティクル。強いぞー、強いぞー、天使の輪ー」
大お婆ちゃんが発明した『髪の毛の綺麗になる魔導』のおまじない。私はあちらの世界ではどれだけ試しても効果は発現されなかった。代々のご先祖様の中で、稀に才能のある者だけが、髪の毛をツヤツヤにしていた。
しかし、数日前に天啓を受けた時から、呪文を唱えながら櫛を入れると髪が明らかに艶やかさを増していった。
「大お婆ちゃんも渡りをしたという噂……本当だったのね」
あちらの世界でも『異世界渡りは年に数人は居る』と噂されていた。こちらの世界で言うと、『UFOに捕まって手術される人が年に数人は居る』に近い感覚ね。眉唾物ってやつ。
でもホントだった。証拠は私。パサパサでクリクリだった髪の毛も、今やCMの女優のように艶やかな輝きを放っている。満足すると前世の軍事教練を思い出し姿勢を正してから命令口調で鏡の中の自分に向けて呟く。
「臨戦態勢を取れ」
私、上級士官だったのよ。戦地にも行ったわ。
今からする行為は叶笑では決して考え付かないこと。でもエリザベートには戦いの前には必須の儀式。
昨日買ったばかりの妖艶な下着に替える。
化粧下地を薄く塗る。
ファンデも薄く塗る。
白い肌は武器。隠す理由は一つもない。
そばかすだけを丁寧にゆっくり消す。
チークは塗らない。
アイシャドウは薄く、アイライナーをさりげなく引く。
眉の形は気に入っているので手を加えない。
そして色付きリップじゃなくて赤い口紅を引く。
制服に袖を通すと鏡の前でくるっと回った。
「よし、準備完了ね」
敵は五人の女帝と傅く騎士達。
味方は居ない。ではどうするか? 決まっている。戦力差を覆す戦い方は古今東西変わらない。
「各個撃破に決まってる」
自分の決意を呟くと思わず口角が上がる。
まず一人落とす。今日、一人の女帝を落とす。その為の武装は整えた。後は戦うだけ。
「負けたら逃げましょう。ふふふ、負けても殺されないのよ。嬉しくなってしまうわ」
さぁ、出撃よ、というところで『カンカンカン』と階段を上がる音がする。
おっと、夜勤のパートから帰ってきたかな?
波子は食品工場のパート勤めだ。
階段を上がる音の直後に予想通りドアの鍵を回す音が聞こえる。
「ただいまー」
「おかえりなさい。じゃあ私、行ってくるね」
「あら、入れ違いなの? ふふ、つれないわね……って、あらあら、今日のあなた何か綺麗よ」
母からの言葉に勝利を確信する。
「ありがと。いってきます」
今まで死にそうな顔してたから少しは安心した?
扉をそっと閉める。
「もう負けないから、安心してね」
小声で呟きながら階段を意気揚々と降りていく。
「ミャーーーァ」
階段の下には一匹の猫が待っていた。しゃがみ込み背中を撫でてやる。既に視力も殆ど無く、日向ぼっこするのが日課の老野良猫だ。
「ミャー子、あなたも私を見てなさい」
数回撫でても反応は無い。いや、どちらかというと『やめてくれ。触るならエサをくれ』と言っているように思える。ゴロゴロと喉を鳴らす声は聞けそうに無い。諦めてすくっと立ち上がり戦場に足を向ける。
やはり、それ以上ミャー子からは反応は無かった。
「ふふふ、薄情なものね。では、あなたも健やかに生きなさい」
何処かの家から逃げて来たのか、捨てられたのか。それでもミャー子も呑気に生きている。そうよ叶笑。あなたも唯、全てから逃げるべきだった……そう思ったのは本心だ。
でも私が当事者になるのなら、答えは逆だ。
叶笑、見てなさい。
私が進む道は貴女の可能性の一つ。
だから、私だけを見ていなさい!
◇◇◇
「良い朝ね。偶には馬車より徒歩も良いものね」
昨日は季節外れに暑かった。
お陰で少し肌寒い空気が気持ちいい。前世の移動は殆ど馬車でしたので徒歩なんてお久しぶりですことよ。
少し泣いてるのはヒミツ。ぐすん。
徒歩十五分。学校には多分七時五十分には着くでしょう。なるべくなら誰とも会いたくない。この時間なら運動部の朝練には遅く、普通の登校には早すぎる。
「ふふ、いい朝だけど、やっぱり……緊張してるかな」
上履きを履いて階段を登る。
少しの躊躇と共に教室のドアを開ける。
良かった。
誰もいない教室の自分の席にそっと座る。
遠くで運動部だろう、男子生徒の掛け声が聞こえる。
あとはエアコンの音しかしない。
少しだけ叶笑の思い出に耽る。
下校中に突然襲われて、貞操を奪われて、泣きながら逃げ出した雨の夕方。まだ鮮明に覚えている。
どれだけ土砂降りの雨を浴びても拭えなかった不快感。
私はその日、そのまま……でも、目が覚めたら病院だった。ふふふ、目が覚めたらって、ビルから飛び降りた筈だったのに怪我一つなかったのよ。
そこから一週間以上休んでいた。
そう。襲った方も警察沙汰になっているか不安だと思うわ。今日があの日から初の登校。
数名の女子生徒が入ってきたわ。
あら、あちらからは挨拶もないのかしら。
「おはよう」
「……おはよう」
距離感を測りかねてる感じね。今となっては女帝達に一方的に嫌われた私に積極的に話しかける子は殆ど居ないけどね。
あっ、今、男子の誰かが私に気付いて走っていった。
では、作戦開始かな?
『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ』
そう。先ずは馬から。
勢い良くドアが開く。
そこには『女帝に傅く騎士』の一人、松田 蹴呉が立っていた。
部活の練習着に身を包んだままで、まだ息が荒い。
「はぁはぁ……」
「なんですか?」
「は、話がある!」
「では……場所を変えましょう」
「えっ?」
無言で廊下を進むと松田は周りを気にしながら後ろを着いてくる。
文芸部の部室の前に着くと合鍵で扉を開けて松田を招き入れる。朝練など無いから誰もいない。少し埃っぽい匂いが本屋をイメージさせる。叶笑はこの香りが好きだった。
部室に押し込むと、自分も入ってから扉の方を向いて呟く。
「ここは鍵もありますから……」
丁寧にカチリと鍵を閉めてから松田にボロいソファーを薦める。その横に五十センチ程の距離を取って座る。
キョロキョロと辺りを伺う様子は怯えている子犬ようだ。失笑するのを堪えながらたっぷり一分ほどの静寂を与える。
すると、耐えかねておずおずと声を出した。
「警察……行ったのか?」
今更後悔しているのかっ!
そうだろう。今まで後片付けは全て女帝が直々にしていた。これでは騎士というより犬だぞ!
激昂しそうになるが、静かな声色だけを心がけて返事をする。
「行きませんよ。それより良いですか?」
これ以上話していると平手打ちでもしそうになる。
すっとソファーに座る松田の背後に立つ。
「えっ? あっ……」
背後からたくましい胸の筋肉をそっと両手の五本の指で撫でる。そして肩から肩甲骨を撫でるようにマッサージしていく。細い指を巧みに使い松田の身体を籠絡していく。
「やはり……素敵な身体。ねぇ、私に全てを任せて」
ワイシャツのボタンを後ろから外しタンクトップの上から肩を触る。
エステやボディーマッサージを受けたことのある男子高校生なんて初体験済みより少ないだろう。松田は女性からのマッサージという初めての感覚に興奮し始めてくれた。
緊張なのか身体は強張っている。声は上げずに静かにしてくれているのは期待に溢れているのか?
クズが! 呪われこそすれ好かれるわけあるまい。
そこに思いを馳せられなかったのがお前達の敗因だ!
「ねぇ、良いかしら?」
「あ……あぁ!」
「じゃあリラックスして。そう……」
顔を真っ赤にした松田の力が抜けるのを感じた。
よし、堕ちた!
そのまま快楽のみを与え続けることに集中した。
◇◇
ソファーに仰向けに寝かせた松田の腰を撫で回す。そこは男子高校生。女子にそうも触られれば一部元気になる部位もあるが、そこは無視して周りを攻める。
カチャカチャ……と鍵を確認する音がする。
ビクッとなる松田。
「安心して。中嶋先生よ。鍵が閉まっていることを確認しているだけ。でも、もう始業時間ね……」
「あっ……あの……アレは触ってくれないの?」
「ダメよ。時間切れ。でも……特別サービスを受けたいなら……うふふ、放課後にここにもう一度来て」
さっと松田の身体から離れて扉まで歩き鍵だけを開ける。
「えっ?」
「放課後にこの部屋に来たら、貴方を天国に送ってあげるわ」
「あ……う……」
お預けを食らって少しの絶望を感じているらしい。息を荒く虚に叶笑を見つめている。
「ね。放課後なら時間はたっぷりあるわ」
「く、クソっ! や、約束だぞ!」
諦めてワイシャツに袖を通しながら前屈みにヨタヨタと部室から出ていった。
部屋から出ていく男を感情無くじっと見つめる。
こんな呪われたような手管しか取り柄が無い女、エリザベート・ミシェル・ラ・ナイアリスに、そう、南早田叶笑に貴女達は負けるのよ。
先ずは第一の女帝、『坂本 那岐子』。
「私の標的にされたこと、悔いるが良い……」
劇画調に渋く呟くが顔は真っ赤だった。
男の人の大きくなったアレをあんなに近くで見ちゃったの初めてよ!
うら若き乙女に何見せてんのよ! あー、恥ずい!
偉そうなこと宣って見たけど……この私、『エリザベート・ミッシェル・ラ・ナイアリス』は紛れも無い乙女なのよ!
叶笑の超最悪の初体験は何も覚えてないし……うげっ、ちょっと気持ち悪くなってきた。
トイレに駆け込んで念入りに手を洗う。
少し落ち着いたので、そっと教室に戻り授業を受けることにした。
◇◇
この世界の授業は好き。
女だてらに歴史や数学を教えてくれる。あちらの世界ではバカな女ほどモテる。だからこそ、長い金髪を振り乱し、豊満な胸を武器に社交界を立ち回った。
『その結果が、あの無様な姿か!』
突然の怒りに我を失いそうになる。
落ち着け……ここで憤死しても面白くない。
標的のことでも考えて冷静になれ。
第一の女帝 坂本 那岐子。
決して声に出さない。誰が聞いているか分からない。
貴女の名前を喋っていたわよ、と、それが伝わるだけで崩れた陰謀など星の数ほど有るだろう。
だから、メモも残さない。証拠は残さない。決して気取られない。
『お前の前世もそれで失敗したのだからな!』
一瞬動きが止まる。
ふーっと小さく息を吐く。
もう同じ過ちは繰り返さない。
冷静に標的のことをもう一度考える。
有名政治家の子女でテレビニュースにも何回か出演している。頭脳明晰を装っているが、女帝達の中では一番バカだ。そして一番残虐。つまり一番のガキ。
家柄と少々の美貌と高飛車な態度で、なんとなくカーストの最上位に君臨する偽りの女帝だ。同じことを思う生徒も多いが、子供のような残虐さと執拗さで退学や休学に追い込まれた生徒も多い。
ただ、気に入らない、というだけで徹底的にイジメの標的にする。そんな気紛れに対する恐怖もあり、絶対王政の如く君臨していた。
そして、『第一の女帝』に傅く『第一の騎士』はインターハイ常連のサッカー部でエースを務める松田蹴呉。こちらも頭はあまり良くない。しかもSを装うドMだ。
女帝と騎士は両想いの恋人同士らしいが政治家の娘であり、清純さがイメージに欲しい坂本は決して身体は許さないと聞く。
だからこそ、坂本は松田が離れてしまわないように、定期的に生贄を差し出していた。そして、その生贄を徹底的に憎むという裏の顔も持っている。
そう。生贄は叶笑。
でも……私は普通の生贄じゃない。
この歪な関係を突く。
着込んだ鎧の隙間を剣の一突きで倒す。
そして、第一の女帝を倒しこの世界の突破口を開く!
◇◇
暫く作戦を復習しながら授業を聞く。
いつの間にか昼休みを迎えていた。
さて、勿論ぼっち飯だ。しかも菓子パン一つ。シェアを提案されても困るので、ぼっち飯上等!
あ、泣いてないからね! ぐすん。
それにしても……叶笑はご飯に執着しない子ね。
必要なエネルギーを摂取できれば良いって感じ。
考えられない! 美味しいものを食べることは大事よ。精神的に安定するには美味しい食事は不可欠。
「全く……何が『カロリーは大事』よ……」
独り言を呟きながら、大事な菓子パンを頬張る。その時、誰かが勢い良く入ってきた。
気にせず味わう。
甘い菓子パンというデザート。こんなに贅沢に砂糖を使って、ふわふわの生地で中のクリームはしっとり。
毎日こんなランチなら、天国行きの棺桶に片足入れているみたいよ!
目を瞑ってゆっくりと咀嚼していると、突然、手に持つ菓子パンを弾き飛ばされて上靴で踏み潰された。
今日の標的の坂本那岐子がそこに居た。
「貧乏臭いパンなんか私の前で食べないで!」
「な、何をするの……」
この菓子パン、『メロンクー○ン』はヤマシマ製パンが誇る高カロリーパン。二百円は母の十分間の労働の対価。それを……それを……潰すだと!
作戦を忘れて激しく睨みつける。
「生意気な顔して……良く来れたわね! ホント気持ち悪い……私の彼を誘惑しないで!」
「誘惑? いつの話……」
あのマゾ男、まさか今朝のことをこの女に報告したのか?
そう考えた瞬間、坂本に平手打ちされた。
「先週に決まってるでしょ! 気持ち悪い……」
叩かれた頬を抑え作戦が継続できることを一瞬喜ぶ。
しかし……いや、こいつの言っている誘惑とは先週、自分で襲わせた時のことなのか?
彼氏に私を強姦させておいてだぞ? 仲間で楽しく見学会をしておいてだぞ! 被害者が加害者を誘惑?
流石に言葉を疑うぞ?
こいつ、本気で言ってるのか!
「ふん、何も喋られないみたいね。もう学校来ないでね。そうしないと……また襲わせるわよ」
最後の言葉は周りには聞こえないくらいの小声だ。
こちらが黙っていると、怯えていると思ったのか脛の辺りを蹴り飛ばしてから髪を掻き上げ颯爽と教室から出ていった。
あまりの酷さに作戦を変えようかと思うほどだ。
いや……叶笑、貴女でも取れる範囲の手段で私は戦い宿敵を粉砕するわ。
私がここで、あの女達を魔導の炎で焼き尽くしても、それでは『貴女はもう救いようがなかった』ということの証明にしかならない。
だから、異世界の力は最後の手段。
貴女の力でも、幸せは掴めたことを証明する。
そう誓いながら菓子パンを拾い上げる。
そして、じっと見つめる。
うぅっ……袋の上から潰されてるから中は綺麗よね。
どうしよう?
でも三秒ルールにも逸脱してるわ……。
あぁ、クラスメイトが私の一挙手一投足に注目してる。はみ出たクリームすら美味しそう……だけど。
すくっと立ち上がり泣く泣く諦めてゴミ箱に捨てる。
名残惜しく潰れた菓子パンを眺めていると、周りの生徒達が怯えているのに気付いた。
そうか……私の今の顔は、さぞや冷たく見えるのだろう。
ふん、と笑い飛ばして席に戻る。
仕方ない。『メロンクー○ン』、お前の仇も取ってやろう。
そう決意した私の顔は少しだけ微笑んでいた。
★一人称バージョン 2024/1/3★