第十六話 第三の女帝⑥ 脆弱な女神と叛逆の騎士1
◆◆◆ 比良理麻衣の自室
自室に帰って来るなり小説サイトをウキウキで開く比良理。実は叶笑の小説のファンになっていた。
「んふふ、今回はどんなふしだらな目に遭うのかワクワクするわね」
主人公が淫靡な感じからドジっ子に変わった時も、熱心に『もっとエロくしろ』と投書する熱烈なファン。それもあってか最近まぁまぁエロい展開が増えてきたので他人とは思えない主人公に感情移入して愛読していた。
「さーて、どうなったかしらーって、えーーっ? 何で完結してるのよ!」
突然に変な感じのラストを迎えて完結してしまった。
「何よ! ホントっ、バカにして。南早田めーっ! 折角この比良理様が愛読してやっていたのに……もう許さない! この街から追い出してやる!」
勝手に『裏切られた! 許さない!』と逆恨みしてスマホを手に電話をかけ始める。
「はい、ヒラリー・システ――」
「麻衣です! 早く坂下課長を出して!」
「――ムズですって……えっ! 麻衣様? 少々お待ちください」
電話越しにも慌てている感じが分かる。
「は、はいっ! どうされましたか?」
「例の計画を実行しなさい。もうじっくりやる必要もないわ。全て終わらせなさい」
「えっ……は、はい。母親の方は――」
「――容赦しなくて良いわ。全て完遂させなさい!」
「……はい。かしこまりました」
満足そうに微笑みながら電話を切る。
「全てを失えば逃げるしかないでしょ? ぎゃはははは!」
下品な笑いは部屋にいつまでも響いていた。
◇◇◇ 雨の降り続く帰り道
大雨は歩道に幾つもの水溜りを作り、傘を差して虚に歩いている私の足は容赦なく足首まで浸かっていた。靴の中に雨水が入り不快な音を立てているが気にする余裕もない。
予報によれば夜半まで止む気配はないらしい。
今日は泣き過ぎて目は真っ赤だろう。流石にバイトに行く気もしないので今日は休みます、と電話を掛けていた。何処ぞの鈍感男とは違い店主は空気が読める男なので『ゆっくり休んで』と優しい声を返してくれた。
「この街からサヨナラしたくなるわね……」
柏原から距離を取ろうとすればするほど心配なのか近づいて来る。それを嬉しく思っていたことに今更気付く。そんな関係にも自ら終止符を打ってしまった。思い出すだけで瞳が潤む。
涙が溢れる前に上を向いて傘を外し大粒の雨に打たれる。痛いほどの雨粒が心地良い。
「いかんいかん、気持ちを切り替えろ。ここはお母さんを泣き落として甘味でも食べに繰り出させるか……」
足取り重くアパートに近付くと、階段の下に波子の姿が見えた。
「何してるのよ?」
ブルーな娘を置いてまた会食か?
苛立ち声をかけるが、様子が違う。大きなキャリーバッグに腰掛けていた。
「ちょっと、今から旅行でも行くつもり?」
声を掛けると視線定まらず無表情に前を向いていた顔を叶笑に向ける。
「ミャー子ね、死んじゃったって」
「えっ?」
想定の答えとあまりに違ったので言葉に詰まってしまう。
「交通事故。あの子、目もあまり見えてなかったから……」
ふとミャー子の昼寝姿を思い出す。目頭が熱くなるがぐっと我慢することにした。
「そうなの……野良猫の末路は事故か行方不明だけど……もう少し穏やかな余生を過ごしてほしかったわ」
出来れば最期まで面倒をかけて欲しかった。こんなに頑張ったんだから『しょうがない』と此方に思わせて欲しかった。ミャー子らしい……というのはあまりに勝手だろうか。
頭を数回振って思考を元に戻す。
「で、何してんのよ?」
「夜逃げよ」
「えっ?」
また言葉を失う。
「アパートを追い出されたの……」
「えーーっ!」
現実味の無いセリフに言葉が出てこない。
「急に家賃の未払い分を払えって……払えないなら現物差し押さえだって役所と警察が来たのよ……」
階段を駆け上がり自分達の部屋に入ろうとするが、『差押え物件』と貼り紙がされていてドアノブにはゴツい鍵が取り付けられていた。
「大家さん、昨日はそんなこと言ってなかったのに。出向いても留守だし、連絡も付かないのよね……」
波子が独り言のように呟く愚痴が聞こえる。瞬時にUターンして階段を駆け下りながら詰問開始。
「私の荷物はどうなったのよ?」
「段ボールに詰められたの。連絡したら配送するって」
「下着も?」
「下着も」
トリ○プの上下揃った私の一張羅を見知らぬオッサンが触っただと!
「下着類は女性が箱に詰めていったわ」
少し安心……じゃない!
「ちょっと、家賃の未払いは幾らなのよ!」
「よ、四十万円くらい……」
「何でそんなに未払いなのよ! 銀行行きなさいよ! その位の預金、流石にあるでしょ?」
スマホを触り始める波子。いつものガラケーはいつの間にかスマホに変わっていた。画面をこちらに向けると、そこには『残高二百円』と表示されていた。
「だって、だって!」
「何よっ?」
嫌な予感しかしない。
「絶対に儲かるって言われたから全部使っちゃったの……」
「えーーーっ!」
今日一番の大声。
「非公開株ってスゴイのを買っちゃって……」
「そんな(モノに引っかかるー?)……」
「あとステラ缶……だったかな? スゴイ健康になって幸せになるのよ!」
「あんな(ゴミを買う人がいるなんてー)……」
「それからスマホを毎日三分触るだけで高収入になるマニュアル……目指せ月収百万円よ!」
「あれに(騙されるってマジー)……」
怒りに震えながら波子を眺めるが、軽く興奮しているように見える。本気で資産が増えて、健康になって、収入が増える、と思っているらしい。
「だから、今はお金無いの」
膝から崩れ落ちる。
「だって、だって、ついさっき三つが全部七割引きだったのよ! セットで買ったら更に半額って! 預金残高全て叩いてやったわ!」
詐欺よねっ? なんてタイミングで引っ掛かるのよ!
「そんなタイミングで役所が来ちゃうんだからねぇ。運が悪いったらありゃしない。へへへ」
なんか余裕があるのがムカつく。
「どうすんのよ! 雨の中、野宿なの?」
ニヤリとする波子。
「任せなさい。給料の前借りをお願いしたわ。二ヶ月分まで借りられるらしいの。何とかなるわ!」
「そうなんだ……」
良かった。流石に今日は安らかに眠りたい。
このまま着の身着の儘でアパートを放り出されたら引くほど泣く自信があるわ。
目を見合わせる二人。すると波子のスマホから着信音が鳴り響いた。波子は一瞬不安そうな表情をしたが、こちらの視線に気付き『心配するな』と微笑んだ。意気揚々とスマホにタッチする。
しかし、私には何故か悪い予感しかしない。
「南早田です。どうなりましたか? はい、えっ? な、な何で? えっ……そんなっ! えっ、はい……はい。分かりました……」
お通夜のような波子。
「……どうしたのよ?」
「…………仕事もクビになっちゃった」
「何でよ! 何でまたクビなんかになるのよ! ねぇ、どうするつもりなのよ!」
「分かんないわよ……」
小声で俯くだけの波子。
「そんなこと言ってないで、どうする――」
「――分かんないって言ってるでしょー!」
ハッと気付いた。必死に娘の前で泣くのを我慢している。
「もう……分かんないわよ!」
こちらを一瞬見た後、泣き顔を見せないために俯いてしまった。何と、波子にはもう打つ手が無いらしい。
雨の降り続く夜に住処のない母娘。全身の力が抜けそうになるが、踏ん張って気丈に振る舞う。
「しっかりしなさい。七竈戸の奥様に連絡してみたら? 働き先は七竈戸さん所縁の会社でしょ?」
スマホをポチポチしてから画面をこちらに向ける。
「さっきも試してみたの。でも繋がらないの。電話もメールもメッセージも……嫌われちゃったのかな……」
「なっ!」
慌ててスマホを取り出しミミに連絡してみる。何と、全ての連絡手段で繋がらない。
「……何で?」
えっ? 私も嫌われた?
いや、まずは後回し。今日の寝床を確保してから考えよう。叶笑もスマホの銀行アプリを開く。
「私のバイト代が何万円かあるわ! それを頭金にでも出来ないかしら? ダメなら今日はホテルにでも泊まりましょう」
スマホを波子に向けると、無表情に画面を指差している。
「何よっ?」
画面を見てみると『アカウント無効』の文字が点滅していた。
「何でよーっ! 私のお金、労働の対価!」
何回か繰り返すと『ロックされています』しか出てこなくなった。ついでに幾つかのサイトを確認。
・バーコード決済アプリ ログインできず
・SNSサイト ログインできず
・必死にポイントを貯めてる焼肉屋さん ポイント消えてる
・必死にポイントを貯めてる本屋さん ポイント消えてる
・必死にポイント貯めてるコンビニ ポイント消えてるし無料クーポンも無くなってる
「ぎゃーー! 明日が期限のペットボトルのお茶のクーポンまでーー!」
思わず小説サイトのマイページを確認すると、『アカウントは無効になりました』と表示される。金銭は関係ないが、この画面を見た瞬間、精神ダメージ倍増により活動限界を迎えてしまった。
ぺたんとコンクリートに座り込む。それを見た波子もガックリと俯いてしまった。
降り続く雨の中、階段の下で固まる二人。
スマホの『アカウント無効』が点滅する画面をじっと見つめる。何か、自分の存在が消されてしまったかのように思える。この世界そのものから拒否されたようにも感じる。
「あら、私も色々ログインできないわ。折角友達も出来たのに……」
横で波子が感情薄く呟いている。
その時浮かんだのは柏原の顔と声。そして決別。また悲しみが鮮烈に思い起こされて自らの小さな胸を押し潰す。もう、あの学校には、この街には悲しい思い出しか残っていない。どうせ、また出会えても苦しむだけなら会わない方が良い。
そうか……この街から出て行く方が良いのかもね……。
その時、心を読んだかのように波子が横から無気力に呟く。
「取り敢えず……東京にでも行こうかな……」
「ねぇ。夜の街にでも二人で立つつもりなの?」
「そうね……それも良いかもね……」
ダメだ。もう叱ってもくれない。
波子も疲れ果てて壊れてしまった。
今度は部長や美織さん、他、皆さんの優しい顔が浮かぶ、が頭を数回振って消す。これが偶然なのか攻撃なのか分からん……が巻き込んでは不幸にするだけ。
そうよ……こんな不幸な私は居ない方が皆は幸せになる。ミミもそう気付いたから連絡を絶ったのだろう。雷灯だって比良理の元で頑張れる。柏原だって……私に関わらない方が活躍できるはずだ。
トタン屋根にバタバタと当たる大きな雨音が響く中、顔を上げる。そうか、柏原や皆を不幸にするならば、私は誰も居ない遠くにでも行くべきなのだろう。
もはや悲痛な決意しか胸には浮かばない。それでも両手をグッと握りしめた。
「分かったわ。お母さん、東京へ行きましょう」
◇◇
トボトボと駅に歩く二つの人影。
大きなキャリーバッグを両手で引く波子を濡れないように傘へ入れてやる。私の半身には雨で制服が張り付いていた。
敗北だ。負けたのだ。
なけなしのお金で東京迄の切符を買う二人。誰もいないホームで上り列車を待つ。
敗者はただ消え去るのみ。
濡れた髪を気にしてか気怠そうに手櫛で髪を整える波子。
「あーあ、イヤになっちゃうわねー……」
その時、波子の目に涙が見えた。娘の私には見えないようにそっと指で拭いている。
その姿を見た時、突然ある事に気付いた。
何故母を、何故この女を巻き込む。
女帝との確執が原因なら自らの失態だ。ただ親というだけで自らの責任を背負わせるのか?
違うな……母に責任をなすりつけ、自らは被害者ぶって、潔く身を引く女を演じているだけだ。
自分に対して激しい怒りが湧き上がる。
違うだろ……まだ負けてないだろ……まだだ、エリザベート、叶笑の身体を借りて勝手に戦ったのなら最期まで逃げるな!
そうだ、お前には逃げる資格など最初から無い!
『貴女はかけがえの無い存在なの』
『また困ったことがあったら聞かせてね』
『いや、お前は護る』
その時、聞こえて来たのは皆の優しい声。刹那に涙が溢れ出す。
二人の前に電車が止まる。
ドアが開き、怪訝そうな客が私達を眺めながら家路に着いていく。
暫くすると発車のベルが鳴り電車が動き出した。
しかし、私達は東京行きの電車が去っても未だホームに立っていた。
何故って?
私が乗り込もうとした波子の手をしっかりと握り締めていたからよ!
「お母さん、私ね、今から足掻くわよ。見ていて!」
大泣きしながら訴えかける。
駅のホームでスマホを取り出し震える手でショートメッセージを入力する。
宛先に皆を、部長、美織、店主、雷灯、梨倫を追加していく。柏原の名前を見て指が止まる。一瞬だけ逡巡するが震える指で宛先を追加して送信ボタンを押す。
お前に悩む資格は無い。お前は恥辱に塗れようが泥水を啜ろうが助けを乞うしかあるまい!
だから、メッセージは『助けて下さい』だけだ。
しかし、全てエラーと表示されて一人にも届かない。肩を落とす二人。しかし直ぐに顔を上げて波子の方を向いた。
「次よ。ほらっ、立って!」
雨の中、来た道を戻ってバイト先であるパン屋『ドゥセール・エ・アルティメ』の前で立ち尽くす二人。
ここで流石に躊躇してしまう。もじもじするだけで扉に手を掛けられない。
だって、ただのバイトよ、私。突然夜に押しかけて『助けて』なんてどの口が言うのよ。ちょっと、ここまで来たけど流石に恥ずいわよ……。
店の前をウロウロ三往復ほどしていると、扉が勢いよく内側から開いた。
ドアベルの『ちりりーん』といういつもの音と共に店主が現れた。ずぶ濡れの私達を見ると「入って」とだけ呟き店内に戻って行った。
「助けて下さい……」
店内に入って早々に呟くと店主はスマホを取り出しメッセージを入れ始めた。
「栞にも伝えるよ」
此方も部長には助けを乞うつもりだった。
こくんと頷く。店主がメッセージを送信すると、数秒で電話がかかってきた。
「もしもし、そう。うん……変わるよ」
店主が差し出した電話を受け取りおずおずと耳に当てる。
「叶笑ちゃん、大丈夫?」
「はい……大丈夫です」涙声になってしまう。
「……分かったわ。パン屋集合ね! そこで休んでなさい。店長に変わって!」
二言三言会話すると電話を切る店主。
「栞が来るまで座って待っていて下さい」
喫茶スペースを案内してくれた店主。
その後、何も喋らずに温かい紅茶をだしてくれた。寡黙で優しい態度に波子も落ち着いたようだ。
ひとまず紅茶を飲んでいると、どれだけ迷惑をかけているのか、と今更ながらに後悔が湧いてくる。落ち着けば落ち着くほど自責の念に耐えられなくなっていく。
前世のエリザベートは『全ての行動の責任を自分で取る』をモットーに行動していた。だから他人を利用することはあっても頼ることは一切なかった。故に孤独ではあったが人間関係から生まれる弱さは存在しない。
しかし、それだけの権力も財力もあった前世とは違い、今世の叶笑は人に頼らざる得ない。
それはエリザベートにとっては恥ずべきことだった。
多分一人きりだったら……私はまた飛び降りたか、また心臓に剣を突き立てたかのどちらかだったと確信できた。
そんなことを考えているうちに『ちりりーん』とドアベルが鳴り部長が息を切らせて入ってきた。椅子から立ち上がって出迎える。
「大丈夫?」
その声だけで涙が溢れてきそうになり「はい」と口に出すのが精一杯だった。部長の温かな手が私の頭を優しく撫でていると『ちりりりーん!』とドアが勢いよく開いた。次に入ってきたのは柏原だった。
顔を見るなり号泣しそうになる。何とか我慢して「明日早いのだろう? 帰って寝ろ」とか細い声で悪態をついてみる。
「多少は元気があるようだな。何があったか聞かせて貰おうか」
優しくも強い声が聞こえてきた。
ムカつく。反撃に抱き締めて口付けでもしてやろうか、と一瞬思ったが此方のダメージの方が何倍も大きそうなのでやめておく。
諦めてことの顛末を話すことにした。
「今日、母が『未公開株』と『オカルトな缶詰』と『楽して儲かるマニュアル』を買ってしまいました。特別安かったそうです。それで預金残高がゼロになりました」
話しているうちに美織と雷灯が駆けつけた。少し遅れて梨倫も慌てて入って来た。
「その後でアパートを追い出されました。警察と役所が来て部屋に入れなくしてしまったようです。未払いの家賃は合計で四十万円ほどです。大家さんに交渉しようにも、出掛けて家に居ないようでした」
呆れられると思ったが、徐々に皆の表情が険しくなる。
「直後に母が派遣先をクビになったんです。ねぇ、理由は何って言われたの?」
「勤務態度不良だって。即日の懲戒解雇よ……」
柏原はスマホを触りながら熱心に話を聞いている。
「そう思ったら、何故か二人ともスマホがまともに使えなくなりました。だからどこか遠くにでも二人で逃げようか、と話していたところです」
部長と梨倫は聞いたこともないような悲劇的なストーリーに可哀想過ぎて言葉も出ない。
雷灯は会話の途中で波子のスマホを借りて触り出していた。少しすると鞄からケーブルとノートパソコンを取り出した。スマホを接続するとキーボードを叩きまくっている。
美織は速攻電話を掛け始め身振り手振りも交えて相手と議論し始めた。店主と柏原は自らの記憶と知識を確認しあっている。
そんな一生懸命な皆を眺めているとこの場から消えたくなる。
「本当にごめんなさい。面倒なことに巻き込んでごめんなさい」
波子も同じように俯くことしかできなさそうだ。それを見て、さらに私の心は抉られる。
「そんなに謝らなくっても良いのよ」
「そうよ。大丈夫よ」
部長や梨倫の優しい声。思わず泣き出しそうになる。
いや、それに甘えていてはいかん!
突然、店主の前に出て土下座を開始した。
「店主よ……いや、前島店主殿。バイト代を前借り出来ぬだろうか? 今まで以上にこき使ってくれて構わん! 頼むっ!」
慌てて立たせるとグッと親指を立てる店主。
律儀に借用書を手書きで書き始める。
そこに書かれた金額は四十万円だった
「いや、全額借りられるのか? あ、ありがたい……」
直後に美織の電話が鳴った。それはミミだった。
『――叶笑、大丈夫なの?』
電話口で奥様が心配そうに叫ぶ声も聞こえる。
『――波子さーん、大丈夫?』
私と波子は二人で手を取り合って安心する。
「電話もメッセージも届かなくなったのだ。嫌われたかと思ったぞ……」
『――それはこちらのセリフよ。夏休みの予定を決めたかったのに全然繋がらないから焦ってたのよ!』
美織のスマホをスピーカーモードにしてアレやこれやと会話する四人。時々美織や部長も会話に混じって少し楽しそうなひと時。
それを横目に男どもはこの一件について議論中。
「差し押さえにしても異常だ。まず裁判も無しで警察が来るわけない。それに即日差し押さえなんてありえない」
「懲戒解雇もそうだ。事前の意思表示無しで解雇は権利濫用だ。そんなモノ常識だぞ」
「劇場型の特殊詐欺に近い気がする」
ここで雷灯が声を上げた。
「違う。明らかな標的型攻撃だ。それも犯罪組織レベルじゃない。国家レベルの攻撃精度だよ」
ノートパソコンの画面に映る英文字を指差しながら説明を始めた。
「単純な攻撃だ。キーロガーをインストールした情報媒体を標的に渡してアカウント情報を手に入れている。単純だけど組織力のいる攻撃だ」
梨倫は雷灯を見てビックリしていた。多分、小学生が難しい事を自信満々に喋り出したので、例の名探偵でも思い浮かべているんだろう。女子大生ペアも同様の顔をしている。
雷灯の天才ぶりに慣れている柏原が波子の方を見て優しく質問する。
「このスマホ、どうされたんですか? 最近購入したとか落としたとかありますか?」
皆が注目するので焦る波子。
「え、えーっと……商店街の福引で当たったのよ。最新スマホ無料でプレゼントって」
「お母さん……なんて運が良いの? ビール三ケース当てたり……」
柏原が呟いた。
「それはミミの差金だ。母親にはビールでも飲んでいて貰おうって言っていた。福引で行動をコントロールなんて簡単だ」
二人で柏原を見つめる。その後で波子のスマホを信じられないという表情で見つめる。
『――ごめーん。お母様には干渉して欲しく無かったから、酔っ払ってて貰おうって……』
『――こら、ミミ! 波子さんがアル中になったらどうするのよ!』
『――ごめーんって言ってるでしょ!』
此方は鎧の隙間を狙って攻撃の機会を探っていたのに、毒林檎を渡すのも、何なら林檎に爆弾を仕込んで渡すことも簡単だったということか。
今更ながらにミミを懐柔できたのは奇跡に近いかもしれんな……。
「というわけで、こんな攻撃をするには資金も組織力も必要だ。ならば誰がやっているかは分かり易い」
皆が沈黙する。
そう。第三の女帝『比良理麻衣』しかあり得ない。
「そこまで……そこまであの女はするのか? これでも同学年の学友だ。そこまでする必要があるのか?」
「比良理は元々嗜虐的な面が多分にあった。最近の行動には別の意思も感じるが、まぁ性格は最悪なことだけはハッキリしている。坂本とも見かけ上だけは仲が良かったからな。気が合うのだろう」
騎士の中でも第一の女帝坂本那岐子と共に性格の悪さは際立っていたらしい。雷灯が身震いしている。
「すまない、こんな私の為に尽力してくれて……本当にすまない。この恩はどう返せば良いか……」
何が『皇太子妃』だ。何が『帝国の毒婦』だ。今更ながらに敵の強大さを思い知り、自尊心はズタズタに切り裂かれていた。
「私は……勝手に喧嘩しておいて……皆の力を借りて……それで負けて……また迷惑をかけて……」
何が迷惑をかけたくないだ……どんな顔をしていたら良いか……もう……分からない。氷の中にでも閉じ籠りたい。その中でそっと消えたい……。
「叶ちゃん、負けないで! がんばって!」
突然に涙を浮かべた梨倫が私に向かって叫んだ。
続いて部長が私達の方を向いて優しく喋り出す。
そんな暖かな声には顔を向けることはできなかった。
「叶笑ちゃん、お母様、今は申し訳なく思うでしょう。気恥ずかしいでしょう。消えてしまいたい、そう思っているかもしれません」
部長の言葉が私の心に突き刺さる。
氷の檻に閉じ込もった私に言葉の矢が突き刺さる。
「でもそんなこと思わなくて良いの。貴女方は今、皆の全力の助けを受けている。それは何故か分かる?」
傷を抉るような問い掛け。分かるに決まっている。
皆の優しさだ。
皆の慈悲の精神だ。
皆から施しを受けているのだ!
「私達の優しさ? 違うわ。それは今まで貴女達が私達に対して誠実に振る舞っていたからなの」
部長の顔をここで初めて見詰める。ニコッと優しく微笑んでくれた。
「貴女達の誠実な行いを私達は返しているだけ。自分達の誠実な行いの結実が戻ってきただけなのよ」
「でも……私達が……何をしたというの……何を……」
温かな手で私の手を握り締めてくれる部長。
「叶笑ちゃん、あなたの一生懸命さ、あなたの優しさ、あなたの強さ、そんなものが私達を動かしたのよ。だから、これはただの恩返し。叶笑ちゃん、ほら、みんなの顔を見てあげて。ほら、分かるでしょ」
皆の顔をゆっくりと見上げると一人ずつ頷いてくれた。その度に私の氷の檻にひびが入る。
「そうだよ。負けないで!」
梨倫の涙声で、檻は壊れてしまった。
「だから…………」
だから、だから嫌いなんだ。この部長はいつも口下手な癖に、ここぞと言う時だけは人の心の中へ最も簡単に入ってくる。
だから、もう、誤魔化すこともできない。
大粒の涙が瞳から零れ落ちる。
最後の抵抗で、感謝の言葉だけでも伝えてクールに振る舞おうとする、が、変わらず優しい皆の顔を見たら完全に感情のダムは決壊してしまった。
「うわーーーーーん、ありがとーー!」
くしゃくしゃの顔の涙を両手で必死に拭きながら叫ぶしかできなかった。
「ひぐっ、ひぐっ、みんなーーー、ありがとーーー!」
子供のように大泣きする私を後ろから優しく抱きしめる波子。背中に暖かな優しさを感じていた。
そんな私達を見守る仲間達。
いつしか雨は止んでいた
◇◇
柏原の住むアパートに空室があり、いつの間にか一時的に入居するのを大家に話をつけてくれていた。一日千円で良いとのことで格安さに安心する。
美織は労働基準監督署に駆け込んでクレームを言いまくってやるからね、と怒っていた。ミミと奥様も帰国したら担当をブン殴るから少し待ってて、息巻いていた。
その二人を「もしかしたら全てスマホの中だけかもしれない。少し待ってね」と雷灯が説明していた。もし失職していても親の食品会社で働き場所を探してあげる、と美織が波子に伝えると、安心したのか波子の目にも涙が浮かんでいた。
明日、波子は大家に未払いの家賃を払いに行くらしい。その後で店主が付き添いで銀行にも出向くとか。これで何とか以前の生活に戻ることができそうだ、というところで解散となった。
雷灯と部長と美織と梨倫は夜も遅いため店主が車で送っていくらしい。何か別なことで不安そうな雷灯。走り去る車の後部座席から私と柏原をじっと見つめていた。
残った三人は、取り敢えず柏原の住むアパートに歩いて移動することになった。スーツケースは柏原が軽々と運んでいる。その姿を頼もしく思いながら眺めていると、横で波子は私と柏原をニヤニヤしながら眺めていた。
「良い子ね」
「んっ! そんなんじゃないって!」
小声で口喧嘩していると、数メートル前を歩く柏原が振り向き優しく呟いた。
「今度は俺を最初に頼れよ」
意地を張るなと言ってくれた。
もはや私には盾も鎧も檻もない。
「……ありがと」
そう素直に呟き返すより他に無かった。
◇◇
波子がスーツケースと一緒に借りの宿に入ると、私は柏原に振り返った。どうお礼を言ったら良いか悩んでいると「じゃあな」と小さく手を振りながら隣の部屋のドアノブを握っていた。
何か気の利いたことを言え、と強迫観念に駆られて数秒悩んだが、『愛の囁き』か『文芸部失格だが沈黙は金』という二つの作戦しか出てこなかった。
仕方ないので手を小さく小さく振り返した。
一瞬微笑んでくれたが、こちらが反応する前に薄情にもさっと部屋に入ってしまった。
一人残される私。
完敗だ。清々しくなるほど負けた。そう思うと急に眠気が襲ってきた。フラフラ部屋に入っていくと、既に脱ぎ散らかった服の先に布団が一組だけ用意されており、既に波子は寝息を立てていた。
辛うじて服を脱ぐや否や布団に潜り込む。久しぶりに二人で一つの布団で寝ることとなった。
◇◇◇
朝靄が掛かりまだ日差しも薄暗い中、アパートの一室の扉がそっと開くと制服を着込んだ柏原がキャリーバッグを持って静かに出て来た。弟妹達を起こさないように出て行くのだろう。
「旅路への出立は気付かれずに出て行く方が周りに心配を掛けるものだぞ」
此方も制服姿だが他に着るものが無いのだから仕方がない。木陰で腕を組んで仁王立ちして不機嫌に睨みつける。
「良く分かったな?」
「音がしたから……(凄く慌てて出て来たのよ!)」
「そうか、疲れていただろうに。すまんな……」
「しかし、お前の弟妹はどうするのだ? 二週間も家を空けて……」
心配そうに問いかける。最も年上のお姉ちゃんでも小三だ。外国なら児童虐待と言われても仕方ない。
「ふふふ、アイツらを甘く見るなよ。紬は既に家事全般をマスターしている。それに体調が悪く寝ていることが多いとはいえ父も居るからな」
「そうか……」
この男の苦労も並大抵ではない。『貧乏シンママ』くらいでは『寝た切り父と幼い弟妹の世話付き貧乏』にはとても勝てん。
思わず黙ってしまう叶笑。
紬、と言ったか。病弱な父親、自分より小さな弟達、頼れるのは兄のみ。家事全般を齢九にて叩き込まれるなど……私なら耐えられん。
「甘えているのは私か……」
「ん? 何か言ったか」
「いや……戦果を期待する」
近づいて、柏原の胸を拳で軽く叩く。
「いってらっしゃいませ、とかじゃないのか?」
ニヤリと不敵な笑みを漏らす。
「お前は戦いに行くのだろう?」
「まぁな。なら…………こういう時は餞別にキスでもするものではないのか?」
照れながら揶揄う柏原。
こちらは更に照れる。クリティカルヒットだ。こんにゃろー。ならば、お前が闘争を望むならば心して私の反撃を受けるが良い!
「顔をよく見せろ。飛行機が落ちて今生の別かもしれん」
柏原を少し屈ませる。いつも見上げている顔が真正面にある。
おぉ、睫毛も思ったより長いな……。いや、惚けるな叶笑。
「ん? アレは何だ?」
横に視線を向けて指差すと、柏原は指された方向へ素直に顔を向けた。横顔が近くにあるな……。
よしっ! 準備は整った。頬にキスをしてやる!
そっと唇を頬に近づける、が柏原は無邪気に私の方へ振り向いた。
「あれは木蓮だ。もう薫る季節は終わってい……」
「……」
あと数ミリで普通にキスしそうになる。
数秒見つめ合い固まる二人。
顔が爆発するほど熱くなるのが分かる。みるみる赤くなる。もはや微笑むこともできない!
耐えられなくなり一歩後退り。
「は、早く行けっ!」
逆に柏原は少し照れくさそうに頭を掻いた。一歩前に出ると私の手を取り跪いた。
「畏まりました。『マイ ミストレス』、いや、『マイ ゴッドネス』」
悪戯っぽく笑う騎士は私の手の甲に二度キスをした。
両腕を胸にパッと後退り手を引っ込める。もはや乙女ゲージは完全に振り切れてしまった。
「か、柏原きゅん……」
「はははっ! 帰ったら続きを頼む」
えぇ、『帰ったら続き』……暴走する脳細胞はとんでもなくピンクな映像をこれでもかと繰り返し流し続けている。
「し、しし、し知らん、このバカものがーっ!」
――敗走を決意した正にその時、辛うじて窮地を救われる
――そう、『脆弱な女神』は『叛逆の騎士』に救われた
――敵は強大な女帝システムそのもの。叶笑の反撃は届くのか
遂に第三の女帝の魔の手が母娘を追い詰める。
ショタで変態で底意地悪く下品だけど狡賢いツインテールの比良理の魔の手は叶笑を追い詰める。
敵は女帝システムそのもの。
次回、反撃の叶笑。
★一人称バージョン 2024/1/3★