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悲しみで花が咲くものか side-A  作者: 根峯しゅうじ
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僕という世界の中心に

 結婚を機に、僕は転勤することが決まった。

 少し離れた街の事業所で、再び住宅を担当する部署の、課長代理というポジションだった。

 詩織はそのまま本社の購買部にとどまる。

 これは社の慣例で、社内結婚をした場合、男の方が違う支社なり事業所なりへ放り出されることになっていた。

 それでも新婚ということもあり、そんなに遠くへ飛ばされることは無い。

 当初は僕の住んでいた部屋で、そのまま新婚生活を送る予定でいたのだけれど、転勤した街に新居を構えることになった。

 それは詩織からの提案で、どうせ仕事に張り付くはずの僕を見越して、なるべく通勤時間をかけない方が良いのではないかとの配慮からだった。

 詩織自身は定時で帰ってこられるから通勤でも構わないのだと、断固として譲らないのだった。

 木村さんは、僕に転勤拒否をしろなどと無茶苦茶なことを言い出していたが、結局我々を結びつけたのは木村さんなのだと言うと、しぶしぶ諦めたようだった。

 あるときは金時のカウンターで寂しそうに言うのだった。


「宮内いなくなったらどうなるよ…」


「大丈夫ですよ。息子さんももう中学生になるんだし。もうお父さんいなくても大丈夫ですから、残業しまくりましょうよ」


「いいなぁ、宮内。また住宅で。俺も住宅が良いよ。施主さんの喜びをダイレクトに受け取れるんだぜ…。公共事業なんて、誰が喜んでるのか分からなくなるときあるよ…」


「何をらしくないこと言ってるんですか。その仕事の先の先では、たくさんの人たちが喜んでるんでしょ?」


「これで息子が大学にでも行って、一人暮らし始めたらさ。会社は今度は俺を飛ばしまくるんだぜ?」


「まあ、そうでしょうね。今まで息子さんの事も見てくれてたんですから、飛ばされまくりましょうよ。ビュウンビュンと。きっと住宅に戻れますよ」


「宮内、お前変わったよ…。ずいぶん強くなった」


「木村さんのお陰ですよ!」


 僕は木村さんの背中を叩く。

 カウンターの奥で話を聞いていた大将が、破顔して笑う。



 引っ越しは、詩織と二人で一日あれば十分なほど、僕の部屋には物が無かった。

 大学に入学してから十年近く住み続けた部屋だ。十年使い続けたベッドは、処分することに決めていた。

 他にも古くなった棚や小型の冷蔵庫も、後日業者が引き取りに来る手筈になっている。

 積み荷作業が終わり、詩織が車に戻った後、僕はがらんどうになった部屋を眺めていた。

 何も無くなった部屋で、これまでの時間の経過を想い、感じてた。

 本当に色々あった部屋だったのだ。

 ふと思い立ち、ベッドの枕元に備え付けられている小さな引き出しを開けてみる。

 そこには桃色の小さな貝殻が置き去りにされていた。

 遥と別れたあの日、海岸で拾った貝殻だった。

 遥に一つを渡した後、僕はこっそりもう一つ拾い上げて、ポケットに仕舞い込んだのだった。

 しばらくの間、眠りにつく前に、この貝殻を眺めてはあれこれと考えていたことを思い出した。

 いつの間にかそんな習慣も無くなってしまい、枕元の引き出しに置き去りにしたままだった。

 散々迷いはしたが、でもやはり僕はその貝殻をこのまま置き去りにすることが出来なかった。

 そっとポケットに中に仕舞い込み、急いで部屋を出た。



 新しい職場では課長代理ということもあり、これまでとはまた別の意味で忙しい毎日が始まった。

 事業所からほど近い場所に部屋を借りたこともあり、通勤時間が掛からない分、朝なり夜なり仕事に打ち込むことが出来た。詩織の明察通りといった感じだった。

 木村さんは事あるごとに、何故か詩織を通して僕を誘いかけてきた。

 詩織が言うには、金時で会議がしたいとの事らしいが、詩織はその申し出をピシャリと断っているのだという。宮内は住宅部ですから、と。

 誘いたいのなら直接僕に連絡を寄こせば良いものを、詩織を通そうとする気遣いが、何とも木村さんらしかった。

 しばらくは、僕の方も新しい環境でそれどころではなかったけれど、落ち着いたら息子さんも一緒に新居に招待するのも良いと、詩織には伝えていた。

 その時は目いっぱいのご馳走を用意するのだと、詩織は楽しそうに言う。でもそのあとで、もちろん息子さんのためにね、と付け加える。



 それからまた二年後、僕と詩織には娘の(あおい)が誕生した。

 深く澄んだ空の様に、広い心を(たた)えた人になって欲しいとの願いを込めた。


 娘の誕生は僕の価値観を大きく変えるほどの出来事だった。

 仕事はこれまで通り走り回るのだけれど、住宅の打ち合わせでは、何かしら提案の中に娘の存在が無意識に介入してしまうことが多くなった。

 特に子供が生まれての新居購入には、思わず力が入ってしまうのだった。

 碧は歩けるようになると、仕事から帰宅する僕に駆け寄って来てくれる。

 そのせいで、碧が起きている時間に帰宅するのが僕の楽しみにもなっていた。

 食事をし、碧を風呂に入れ、一緒に床に入る。昔の木村さんがそうであったように、僕という世界を回す中心には、無邪気に笑う碧の存在があった。


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