記憶のない妻と私
私はある事件を経て、平凡な日常の一瞬は、どんなものも一つ一つがかけがえがなく大切なもので、川のように流してはいけないものだと知った。
私の日常をここに、書き記しておくことにする。
私の妻は、黒髪に白い肌、童顔で線の細い、真っ白なイメージの女だ。毎朝、汚れのないまっさらな妻に私は出会う。
毎朝、私と妻は同じ会話を交わす。
「おはよう」
「おはよう、きょうは和食なの。あなた、昨日和食がいいって言ってらしたから。」
「そうだね、ありがとう。」
毎晩、私が和食がいいと言っているわけではない。私はかすかな期待をもって、毎晩、明日は和食がいい、だとか、君のカレーはとても美味しいから、明日食べたいな、だとか言って見るのだが、毎朝、妻は包丁を使わないトーストをだすのだ。
朝食を食べて手を合わせると、毎日、妻は同じことを言い出す。
「お隣の鈴木さんが、そろそろ臨月なのよ。あなた、帰りに何か贈り物を見繕ってきて下さらない?この間お土産もいただいたのよ」
「ああ、そうだったな。何か帰りに見てくるよ、いいのがあったら、君に電話しよう。」
「ありがとう。」
妻はこういうとき、必ず小首を傾げて微笑む。真っ白な妻がそれをやると、消えてしまいそうで、だから、私は妻を手放せない。
「君は、今日何かするの?」
「え?ああ、ごめんなさい、私が見に行けば良かったかしら?私、久しぶりにヴァイオリンを弾こうと思って。隆が来るって言うから、合奏するの。」
「いや、僕はついでだから、君がわざわざ出なくても大丈夫だよ。そうか、じゃあ、頑張って急いで帰って来るから、隆くんを引き止めておいてよ。僕も彼とは久しぶりだからね。」
「ありがとう。ふふ、わかったわ、引き止めておく。」
隆くんは妻の弟だ。二人兄弟の彼女らは仲が良くて、隆くんはよく家に来た。
妻から弁当箱を受け取り、いつものようにキスをして、家を出た。
庭の広い大きな一軒家の家の左隣は、今、売りにでている。
右隣の広瀬さんが丁度家から出てきた。会釈をして車に乗り、運転手に言わずとも知れた指示を出した。
「会社へ。」
専務室に着くと、矢鱈と香水と化粧臭い秘書達が寄ってくる。
盆の上の物体を置かれる前に、妻が入れてくれたお茶の入った魔法瓶を仕事が山と積んである机の端に置く。
この女たちは妻とは違う。毎日同じことをして楽しいのだろうか。
妻に宣言したとおり、四時半には文字通り山のように積んであった仕事も片付け、妻に連絡して、家に帰る用意をした。最上階でエレベーターを待っていると社長に偶々会って眉を顰めるが、罪悪感からか、何も言わない。
するべきことはしているのだ、何を言われることもないが。
運転手を呼び、買い物ではない寄り道をしてから家に帰る。
「ただいま。」
「あら、おかえりなさい。あなた、聞いて頂戴、隆が、今日は彼女と会うから来ないって言うのよ。ひどいわ。」
「じゃあ、僕が伴奏してあげるよ。」
「あら、お疲れなのに悪いわ。」
そう言いつつ、妻はとても嬉しそうだ。ホーム•スウィート•ホーム、ユーモレスク、愛の悲しみ。昔三人でよく弾いたバッハの二つのヴァイオリンのためのコンチェルトは、私が一人足りない分の、第二ヴァイオリンのパートを弾いた。
誰でも知っている曲が、こんなにも哀愁に満ちて聞こえるのは、わたしが聞くからだろうか。
本当は、妻に弟はいない。妻は中流家庭の一人娘として、存分に愛されて育った。グランドピアノの上に二つ置いてある4/4のヴァイオリンケースの一つは、一ヶ月前から病院の白いベッドでチューブに生かされている息子のものだ。
小学校からの後輩で妹のように可愛がっていた三つ下の女の子は、高校生になる頃には妹に見れなくなった。妻と私は、彼女が十九になった年の秋に結婚した。妻が大学に入ってすぐに、私が待ちきれず、挙式の準備を始めたのだ。
私たちは次の年に息子の隆を授かった。それから、ずっと幸せだった。私のストーカーの女から私を守って隆が死ぬまでは。
その女は、私が妻を妹として見ていた頃に適当に付き合っていた女のひとりだった。
私たちの幸せそうな姿を見て、私を殺せば自分だけのものになると思った、と供述したそうだ。
女は、私の家の会社と提携している会社の社長令嬢で、父は私が妻と結婚した後も、女との再婚を勧めてきていた。おそらく、女にも勧めていただろう。
私と妻は、女が私をストーキングしているのに気づいていた。妻は再三、私に注意を促したが、私は女も名家の令嬢であるから、と判断を先延ばしにしていた。
その日は隆の中学の入学式だった。
これからまた新たに開かれる隆の人生に、一家の幸せに、微笑みあいながら家に帰ってきた時だった。
つり上がった目、乱れた髪。幽鬼のようなその女が、私に向かって走ってきた。手の中でキラリと光るものに気付いた時は、もう遅かった。真新しい黒い制服が目の前を横切って、衝撃を私が受け止めて、。
我に返ったのは、少ししてからだった。腕の中の息子から、包丁の柄が生えていた。
みるみるうちに広がる赤い池に、私は動くことすらできなかった。
救急車を呼んだのは妻だった。女は、通行人が捕まえた。
私は、何も、できなかった。
刺さりどころが悪くて、隆は白い部屋の白いベッドの住人になった。身体から何本も生えるチューブが痛々しかった。
次の日から、妻は記憶を無くしてしまった。
隆と過ごした十二年間の記憶を妻は心の奥底にしまい、息子の隆の代わりに弟の隆くんをつくりだして新婚のある日を繰り返している
ふりをしている。
私は、妻のそれが演技であることに気付きながらも、それを指摘することができない。妻は昼間、毎日隆の元に着替えをもって行っているのだ。毎日変わる隆の服に気付かない訳がないだろう。
妻は多分、それを指摘されて現実を見ることを恐れている。
私は、それを指摘して妻が私の元を離れてしまうのを恐れている。
変わりがなく、退屈な繰り返しに見える日々は、薄氷の上に二人立ち止まっているようなもので、どちらかが動けばすぐに、いや、どちらも動かなくてもいつかは崩れ去ってしまう、つかの間の平穏であることは、妻も私も分かっているのだ。
この日記をいつか笑って妻と読み返せる日が来たら良いのだが。
2018.1.25