やもめとしらだし
タマと名乗る猫又娘が部屋に現れた翌日。
仕事を終えて俺が帰宅したのは22時過ぎだった。
やはりこれから手の込んだ夕食は作れない。
いつものように俺は、冷蔵庫を漁って適当なもので済ませようと準備を始めた。
しかし、なんだか今日は静かだ。
いや、一人暮らしなのだからこのくらい静かなのが当たり前だったはずなのだが、昨日の出来事のせいで少し感覚が麻痺している気がする。
六畳のワンルームを見渡しても、タマはいない。
やっぱり昨日のあれは夢だったんじゃ――
「遅かったな、トラキチ!」
――あー、夢じゃなかったかあ。
俺が恐る恐る振り向いた先には、ふふんと得意げな顔をして仁王立ちしたタマの姿が、いつの間にかあったのだった。
*****
俺の料理は正直なところ、料理と呼んでいいものなのか甚だ疑問だ。
毎日帰りの遅い俺は、基本的に時間効率が命の手抜き料理しかしない。
材料を切って、炒めながら味をつけて、完成。といった感じだ。
短時間で仕上げることが最優先であるため、下準備をしてから調味料をあれこれ混ぜ合わせて味を整えて……などということはもちろんしない。
必要な調味料は三種の神器――しらだし、めんつゆ、中華の素。これだけだ。
今日はなんだか和食の気分だったから、しらだしをメインに使っていこうと思う。
まず、冷蔵庫から引っ張り出してきたきゅうりを洗い、一口大の大きさに切っていく。
それをざるにいれて塩を一つまみふりかけ、全体を揉みながらよく馴染ませていく。
そのあときゅうりはざるごとボウルに載せて一旦冷蔵庫に入れておき、たったこれだけで一品目の第一段階が終了。
塩をふったことできゅうりから水分が出てくるため、冷やしながらそれを待つ間に二品目に取り掛かるのだ。
あ、別にきゅうりを冷やすこと自体に意味はない。
出来上がったときに冷たいほうが美味いだろうという俺個人の好みの話だ。
二品目に戻ろう。
今度使うのは小松菜、それから冷凍しておいた油揚げだ。
ちなみに油揚げを冷凍していたのは日保ちするようにというだけで、これも大して重要なことではない。
洗って泥や砂を落とした小松菜と冷凍油揚げを、食べやすい大きさに刻む。
それらをごま油を敷いたフライパンでささっと炒めていく。
材料は同時投入で構わない。時間効率が何よりも優先だ。
さらに今日は、帰りにスーパーで鯖を買ってきた。
鯖はいいぞ。グリルに入れてピピっとボタンを押しておけば、あっという間にメインのおかずが一つ出来上がるのだから。
小松菜を炒めるのと同時進行で鯖を焼き始めれば、おそらくちょうどいい時間に出来上がるだろう。
焼き鯖には大根おろしをつけたい気持ちもあるのだが、今日はもう面倒くさいからやらない。
その一手間が、とかいう異論は認めないぞ。男飯なんてそんなもんだ。
そうこうしている間に、小松菜に火が通ってしんなりしてきた。
ここに投入するのは、意外かもしれないがわさびである。
スーパーで売っているようなチューブタイプ。
これをフライパンの上ににょきっと出して、小松菜たちと絡めていく。
十分に混ざったらそれらを一旦ボウルに上げて、ここで三種の神器の一つ――しらだしの登場だ。
といっても、ボウルに上げた小松菜にちょちょいっとかけて和えるだけなのだが。
しらだしはほんとにちょっとだけでいい。
味が濃すぎるとわさび独特のツンとした辛味が引き立たなくなるからな。
こうして出来上がったのが、"小松菜の和風わさび炒め"。
切って炒めて和えるだけの、まさに俺らしい一品だ。
さてさて忘れてはいけないのが冷蔵庫に入れてあるきゅうり。
この段階で忘却の彼方へと消え去っていったきゅうりたちを、翌朝冷蔵庫を開けて見つけたときの虚しさは、何度味わっても慣れることがない。
冷蔵庫から取り出すと、ざるの下のボウルにはきゅうりからしみ出た水分が少し溜まっている。
これは捨ててしまっていい。
この水分を抜くことで味が染みやすくなるため、ある意味一番大事な工程とも言える。放置するだけだけど。
きゅうりに味をつけるのは、連続ご指名の三種の神器――しらだし。
正直なところ、しらだしの分量はお好みとしか言えない。
少し薄味にすれば箸休めにちょうどいいし、濃い目にすれば酒のつまみにもぴったりだ。
これにごま油を一回しして、さらにすりごまをふりかければ、名前そのまま"しらだしきゅうり"の出来上がり。
ちょうど鯖も焼き上がった。
今日はこれにインスタントの味噌汁でもつけて済ませよう。
すべての調理にかかった時間は約60分。
うん、悪くないタイムだ。
「ほら、出来たぞ。座れ。」
そう言って俺はお盆に乗せたガサツ飯を運びながら、ベッドの上でごろごろ言っている護り神様とやらを一声呼んだのだった。
*****
「んっまあああいッ!!」
「おい、もう23時過ぎてんだから静かに食え」
一口目で飛び上がるタマを宥めながら、俺も遅めの夕食に手をつけた。
食レポみたいなことは言わないぞ。俺は特別舌が肥えてるわけでもないからな。
「なんだこれ! この緑いの! シャキシャキしてて、ツーンってするぞ!」
「それは小松菜だ。頭悪そうな感想だな」
「こっちの緑いのは、ちょっと違うシャキシャキだな。そんでじわあって感じの味がする!」
「そっちはきゅうりだ。アンタ野菜のこと全部"緑いの"って呼ぶのか。語彙力乏しすぎるだろ」
無駄に長々と自己紹介してた割に、こういうときには何も言えないんだな。
いろいろと残念な護り神だが、久し振りに誰かと一緒に食べる夕食というものはなんだか新鮮に感じる。
時々会社の飲み会に参加したりはするものの、そういったものとはまた違う気がした。
「ふぅ、食った食ったぁ。こんなに幸せな飯はいつぶりだろうなぁ」
「このくらいで大袈裟だな。だいたいいつぶりって、大家の婆さんからいつも握り飯もらってたんじゃなかったのか?」
だらしない顔で床に寝転ぶタマに、俺は隣から見下ろしながら問うた。
「もらってたけどな、ほんとに"ただの"握り飯だったんだ。具も入ってないし、塩もふってない、ほんとに"ただの"米の塊だったんだぞ」
「毎日それだけってのは、確かにちょっと辛いもんがあるな……。それでも、大家の婆さんが作ってくれただけありがたいと思えよ?」
「もちろん思ってるぞ。でもやっぱり、ちゃんとした飯はいいな。ほんとに久し振りだった」
「昨日も俺の弁当奪って食っただろうが」
「あれはなんか違う! ひんやりしててちょっと固くて、全然あったかくならないんだ。だからトラキチが作った飯のほうがいい!」
「そりゃあどうも」
タマはこのあと俺の飯を散々褒めちぎった挙句、明日も来ると言い残してまた煙のように消えてしまった。
あまりにも不思議過ぎる現象が目の前で起こっているのは間違いないはずなのに、俺はそれに慣れ始めている自分がなんだか怖くも思えてきたのだった。