やもめと護り神
「んじゃ、改めて聞くぞ。アンタは一体何者なんだ?」
転がったちゃぶ台を立て直し、猫又娘に向き合って座って再び問いを投げかける。
ところがこの猫又娘はきょとんとした顔で首を傾げてみせたのだった。
そうしたいのは俺の方だってのに。
「さっきも言っただろ? あたいはこのへんに住んでる猫又で、この大神荘の護り神だ」
「あん? なんか新しい情報が出てきたな。そりゃあどういう意味なんだ?」
「そのままの意味だ。あたいは一日一回供えられる握り飯と引き換えに、何十年もこの場所を災いから守ってきたんだぞ」
お湯を注いで2分が経った頃を見計らい、俺はカップ麺を啜りながら猫又娘の話に耳を傾けていた。
話しながらも時折よだれを垂らしながら見つめてくるこの娘は、どうやらとても食いしん坊らしい。
「握り飯のお供えと引き換えにって、そんな物誰が用意してたんだ。聞いたことがないぞ」
「大神荘の大家だ。護り神であるあたいのために、毎日縁側に握り飯を置いててくれてたんだぞ。けど……」
嬉しそうに語っていた猫又娘は、急に耳を垂らしてしょんぼりとし始めた。
彼女は口籠ってしまったが、その理由は俺もなんとなくわかってしまった気がした。
「変わっちまったもんな、大神荘の大家」
カップ麺を食べ終えた俺がそう言うと、猫又娘は俯いたままこくりと小さく頷いた。
大神荘の大家の婆さんは、最近急にボケが酷くなって会話もまともにできなくなっていた。
介護施設に入ることになった婆さんの代わりに、先週から別の管理人がやってきて住人に挨拶周りをしていたことを覚えている。
つまり、この猫又娘に握り飯を作ってやる者がいなくなってしまったのだ。
そして腹を空かせてやってきたのが俺の部屋だったという経緯で間違いなさそうではあるのだが――
「よりによって、なんで俺んとこに? 新しい大家に握り飯を頼めば済む話だろう?」
「それなんだがな。新しい大家の部屋も他の部屋も、戸の前に"透明な水の瓶"が置いてあるだろ? あたいはあれがあると入れないんだ」
"透明な水の瓶"と言われて一瞬ピンとこなかったが、どうやらそれは猫除けに置かれているペットボトルのことらしい。
ここら一帯は野良猫が多い。
さらに言えばこの大神荘は化け猫が出るという噂があったため、住人たちは皆猫除けの呪いに必死だ。
そんないわくつきのアパートだから、駅から近くても家賃は安く、住人も少ないのだった。
そんな中俺はというと、そういったお化けだのオカルトだのの話はこれっぽっちも信じない性質だから何かと都合がよかった。
確かに俺の部屋の玄関に猫除けのペットボトルは置いていないが、まさか本当に猫又が出るとは思っていなかった。
「けど、あのペットボトルって、実際猫除けには効果がないって聞いたことあるぞ。なのに入れないのか?」
「うーん、確かにあの瓶については怖いとも何とも思わないな。入ろうと思えば入れる。でも、あんなにあからさまに来るなと言われると、なんか押しかけづらいだろ?」
「そういう問題なのか……」
思ったより根はいい子っぽいな、コイツ……。
護り神などとのたまうから、どれほど身勝手で偉そうなヤツなのだろうと思ったが、実際のところまったく緊張感がない。
来るなと必死に主張するところには行きづらくて、このアパートで何も猫除けをしていない唯一の部屋であるここへ仕方なくやってきたというわけか。
「なあ、頼む! このままじゃあたいは飢え死にしてしまうんだ。毎日少しだけでいいから、あたいに飯を食わせてくれないか?」
「その頼みを引き受けたとして、俺に利益はあんのか?」
両手を合わせて熱心に頼み込むその姿は、もはや護り神としての威厳も何もない。
妖怪とはいえ、幼い少女の姿をした者の頼みを無下にするのは胸が痛むが、俺だって豊かな暮らしをしているわけじゃない。
何か対価があるなら話は別だが、ボランティア感覚で得体の知れない相手の面倒をみられるほど、俺はお人好しではないのだ。
「お前の利益ならある! あたいは大神荘の護り神だって言っただろ? 今まで地震が起きても、隣の家が火事になっても、いつも大神荘だけは無傷だっただろ? あれは全部、あたいの加護があったおかげなんだ!」
そういえば、と俺は思った。
どんな災害に見舞われようとこのアパートだけはほとんど被害が出ないのを、近所の人々は化け猫が住んでいるからだと気味悪がっていた。
そんな現実味のない話に興味のない俺は、たまたま運が良かっただけだろ、といつも聞き流してはいたのだが。
「もしあたいが腹を空かせて死んでしまったら、大神荘を守っていたあたいの加護がなくなる。そしたら、今まで退けていた災いがまとめて押し寄せてくることになるんだぞ! それでもいいのか?」
「んなこと急に言われても、にわかには信じらんねえなあ」
「ううう、お願いだああああ。目の前で飢えでいくあだいを見殺じにじないでぐれええええ」
猫又娘はついに俺の肩を揺すりながら泣きついてきた。
加護だの災いだのは信じていないし、正直知ったことではないのだが、どうやらこの娘の存在自体は本物らしい。
どうしたものかと俺は頭を悩ませたのだが――
「ああもう、わかったわかった。毎日ちょっとだけでいいんだな? 食わせてやるからそんなに泣くな、な?」
――毎日こうして騒がれては敵わないと思うと、つい許してしまった。
「ッ!! 本当かっ! いいのか! やったーッ!!」
途端に笑顔になって小躍りし始めた猫又娘を見ると、なんだか少し癪な気分にもなる。
しかし男に二言はない。一度許したからにはちゃんと面倒をみるのが筋というものだろう。
「あ、お前、名前はなんだ?」
俺の周りをくるくると回っていた猫又娘が、思い出したように俺の顔を見下ろしながら尋ねてきた。
「俺は根木寅吉だ」
「おぇ、あたいは葱は嫌いなんだ。でも、名前に"寅"が入ってるのはいいな! 髪も白黒だし、白虎様みたいだ」
猫又娘は俺の白髪交じりの頭を笑いながらそう言った。
護り神と言われても、こうして話している限りではその辺のガキンチョと大して変わらないようにも思えるから調子が狂いそうだ。
「アンタは何て名前なんだ?」
「あたいか? ふふん、聞いて驚け。あたいこそは泣く子も黙る大妖怪が一角。大神荘に住む人間など、あたいの匙加減で生かすも殺すも自由自在――」
うわー、なんか長くなりそうだなー。
さっさと名前だけ言えばいいのに、こうして見栄を張ろうとするところがさらに子どもっぽい。
今更そんな文句を並べたところで、俺が怖がるとでも思ってるんだろうか。
「――あたいはこの地に住まう猫又の類。古より"タマ"と呼ばれ、人間どもから恐れられる大妖怪よ! どうだ驚いたか! わっははは!!」
「もったいぶった割に何の捻りもない名前だな!? ていうか名前、絶対怖がられてないだろ。むしろ可愛がられてるぞ」
泣く子も黙る大妖怪って、そりゃあこんなイメージ違いな妖怪が現れたら子どもも泣き止むわ。
妖怪と言えば本来のイメージとしては、人を騙して食ったり、怪奇現象を巻き起こしたりして人間を恐れさせるものだ。
ところがこのタマと名乗った猫又娘にはそんな雰囲気がまったく感じられない。
無理して虚勢を張ろうとしているのが見え見えで、俺はただただ呆れて見ていることしかできなかったのだった。
「そっ、そんなことない! 猫又の"又"から転じて"タマ"! その名を口にするのも恐ろしいあたいのことを、みんなそうやって遠回しに呼んでたんだ!」
「清々しいほどポジティブだな、アンタ……」
「それに、人間は昔からあたいを恐れて崇めて奉って、みんな食い物を供えていくんだ。あたいの機嫌を損ねたら、災いから守ってもらえなくなるからな!」
「それは怖がられてたんじゃなくて、餌付けされてたんじゃないのか……」
「とにかく! あたいは昔からすごい妖怪だったんだぞ! 本当だぞ!」
「あいあいわかった。そゆことにしといてやる」
今更そんな自慢をされても怖くもなんともない。
それよりも今は疲れがたまっていて、もう何も考えたくない。
気づけば日付も変わっているし、正直もうそろそろ開放して欲しいのだが。
「タマって言ったか? 今日はもう遅いから寝かせてくれ」
「待て! お前はあたいの凄さをまだ全然わかってないだろ!」
「明日も仕事なんだ。今俺を寝かせてくれたなら、明日の晩にちゃんと飯を作ってやるから」
「言ったな! なら今日は見逃してやる。その代わり約束は絶対だからな! 必ず行くからな!」
意外とちょろくて助かったな。
何度も何度も念を押しながら、タマはふわりと煙のようになって姿を消した。
しかしそれに驚いている余裕など、もう俺には残されていない。
かろうじて目覚まし時計だけをセットした俺は、結局風呂に入る事すらままならず、そのままベッドで朝を迎えるに至ったのだった。