黄昏の恋人たち
「こ、瑚太……ろ……」
朱音が膝をついて崩れ落ちた。
その拍子で頭に被っていた麦藁帽子が転がって瑚太朗の足元にまで届く。
ため息をついて拾いあげると、彼女の正面に回って帽子を被せた。
「少し休みますかね」
「ご、……ごめんな、さ……」
「まあ、病み上がりですし」
ぜいぜい、と息をきらす朱音を抱き上げて木陰まで運んだ。
持っていた水筒の蓋を取って渡すと、むさぼるように飲み干す。
あまり残り少ないけれど仕方ないな、と瑚太朗は苦笑した。
「あと……どれくらいなのかしら」
広大な麦畑を見渡しながら呟く朱音に、内心吹き出しそうになった。
街を出てからまだ1時間も経ってない。
境界域までは瑚太朗の足でも数時間はかかる。
ましてや朱音を連れてこのペースだと……。
「明日までかかるんじゃないかな」
率直に答えると、朱音は絶望した顔になった。
いやあ。
なんていうかこう、人を落ち込ませるのが得意な人だな。
笑いたくなる。
瑚太朗としては、別に目的地に着くことを急いではいなかった。
のんびりした足取りで、このまま朱音と逃避行気分をいつまでも味わっていたかった。
なんだか駆け落ちしてるみたいで。
こういうシチュエーション、そうそう体験できるものではない。
「なに……にやにやしてるのよ……」
憎々しげな声音で朱音が睨みつけてきた。
こんな顔も可愛いなと思えてしまうあたり、かなりこの人にまいっているのだと思う。
朱音の隣に座ると、肩を抱き寄せて自分の胸の中に埋めた。
「ちょっ…」
「誰も見ていないよ」
「そ、そういう問題じゃ」
「いいじゃないですか、新婚旅行みたいで。少しくらいいちゃついても」
「……バカ?」
「真顔で言わんでください」
「お前の能天気さにあきれてるのよ」
「やっと調子戻ったっすね」
「…………」
「朱音さんはそれでいいよ。もう俺、あなたの罵倒がないとダメみたいで」
「……本格的なバカね」
朱音は瑚太朗の胸に手をあてると、するりと衣服の中に手を忍ばせてきた。
情欲を煽る仕草。
……朱音から求めてくるなんて珍しい。
瑚太朗はそのままなすがままに触られていた。
朱音が問いかけるように見つめてくる。
「……しないの?」
「して欲しい?」
「……疲れるから、やっぱいい」
「そう言うと思った」
「目を瞑って」
言われるまま目を閉じる。
唇に暖かい感触が伝わる。
朱音の手は瑚太朗の性感をなぞるように身体を撫で回している。
それだけでなんだか十分満たされていくようで、瑚太朗は口づけだけに応えていた。
息を奪い合うような激しい口づけ。
朱音の身体の負担になるのはわかっているけれど、とまらない。
舌を吸い、絡め合い、お互いの熱い吐息だけを感じる。
言葉などなにもいらなかった。
「んっ…」
さらに求めてくる朱音に、名残惜しいけど唇を離した。
指を朱音の唇にあてて、おあずけのように告げる。
「続きは着いてから」
「……っ」
「そう思えば頑張れますよね。さ、立った」
「このっ、……死ね! 氏ねじゃなくて死ね!」
「わっ! 荷物投げないで!」
元気になった朱音を見て安心し、瑚太朗は笑いながら地平線の先を見た。
決して楽な道ではないだろう。
朱音は必死に隠しているが、内心不安で押し潰されいつ壊れてしまうかわからない。
生きるということが、どれほどこの人を苛むか――。
果たして自分の存在が彼女の支えになれるのか、自信はない。
新しい命でも宿れば、別の生きがいを見つけてくれるだろうか。
(いや……)
無理だろう。
この人は生まれた子にも自らの運命を重ねて呪い続ける。
聖女の血がなくならない限り。
(俺しかいないんだ)
それは今までずっと誰かのために、何かのために生きたかった、自分自身の願いでもある。
自分にしかできないこと。
それを見つけることができたじゃないか。
後悔なんて、なにも――ない。
――お前は後悔するよ。
「え……?」
突然頭の中に声が響いた。
「どうしたの?」
隣にいる朱音が心配そうに見上げている。
「いや、いま、なんか……」
――その先に待つのは地獄だ。……お前は必ず後悔する。
「なっ……?!」
響いてきた声は、間違いなく自分の声だった。
それも今まできいたことがないような、どこか不気味で……冷たい声。
「瑚太朗? 大丈夫なの?」
「あ、……ああ」
「顔色が真っ青だけど……」
朱音の気遣わしげな声も耳に入らない。
いや入ってはいるのだけど、まるで意味をなさなかった。
すべての感覚が、この不気味な自分の声に向けられていた。
――お前は誰一人救えることなんて出来やしない。
――空回りし続けるだけだ。
――救ったような気がしているだけ。
――お前の本質は何も変わっちゃいないよ。
――人なんて救えない。世界も。何もかも。
(……言いたい放題、言いやがって)
これは自分の声だけど、こんなのは自分ではない。
俺はここまで悲観していない。
今だって朱音に生きる意味を見出している!
――お前はいつか必ずひとりになる。
――ひとりになって、後悔する。
――誰一人救うことができなかったと。
――もうなにもかもが手遅れだったのだと。
――そう後悔するときが、必ずくる。
「それはいつだよ!」
叫んだが、声はもう気配すら残さず消えていた。
頭の中がぽっかり穴のあいたような感覚。
だけど心のどこかで直感していた。……あれは嘘でもなんでもない。
予言めいた自分の声。
それは確定された事実であるのだということを、自分の直感が告げていた。
「瑚太…朗」
「大丈夫。ちょっと考え事しただけだから」
ぎゅっと朱音の手を握る。
決して離したり後悔したりなんてするものか。
握りかえす彼女の手が小刻みに震えていることに、瑚太朗は気づいていなかった。
朱音ルートの最後ですが、二人は長く生きなかったのだと思います。
moon編での瑚太朗の回想で、なんとなくそんな気がするという感じですけど。