雪だるまとつばめの話
人間の女の子が雪だるまをつくったらしい。
低音の声が巣の中に響く。
巣穴から顔を出すと真下に、確かにそれらしい影がある。
「ごきげんよう、雪だるまさん」
「やあ、つばめさん」
雪だるまは頭上にちょこんと降り立ったつばめに挨拶した。
「あなた何をしているの」
「海が見えないかと思って」
つばめは雪だるまの木の実の瞳からその視線をなぞってみた。
けれど見えるのは一面シイの木ばかりで海なんて見えるはずもない。
「あなたは海が見たいのね、かわいそうに。あなたは何処にも行けないから。私は何処へだって行けるの! だって私にはこの翼があるんだもの!」
そう言ってつばめは雪だるまを見下ろしながら得意げに翼を広げて見せた。
「いや、これから何処へ行こうか考えていたんだ」
雪だるまは変わらず穏やかな口調で真剣に語る。
つばめは困惑した。
翼も広げたままその木の実の瞳を覗き込む。
どうも冗談を言っているわけではないようだった。
「海は素敵なところだよね。どのくらいでたどり着けるだろうか」
「あなたがどうやって海まで行けるというの」
思い出したように翼をしまうとつばめは言った。
「あなたは何処にも行けないわ」
「何処へだって行けるさ」
雪だるまは何でもない事のように言った。
「春になればね」
「春?」
雪だるまの言葉がつばめには理解できない。
「ところで気になっていたんだけど、つばめさんはどうしてここにいるのかな」
「……」
返事がなかったので雪だるまは言葉を付け足した。
「暖かいところへ行って冬を越すんじゃないかと思って。つばめさんは渡り鳥だって聞いたものだから」
つばめは明らかに機嫌が悪くなった。
「誰がその話を」
「リスさんが」
リス。
つばめは何か思い当ったようで目を細めた。
それはつばめの前にあの巣穴を使っていたリスだった。
「つばめさんが来たらいなくなってしまったんだけどね、いろいろ教えてくれたんだ」
だんだん不機嫌になっていくつばめをよそに雪だるまは続ける。
「彼は親切なリスさんなんだね」
「……親切なもんですか」
さっきまでの威勢はどこへ行ったのか、つばめは悔しそうに反論した。
「とっても親切さ。ふふ……彼とは友達なんだ」
本当に嬉しそうにリスの話をする雪だるまのその最後の言葉が、とうとうつばめを怒らせた。
「ならあなたは、せいぜいあの卑怯で間抜けで臆病者のリスと仲良くしていればいいわ!」
そう言い捨てて、つばめは巣穴へ帰ってしまった。
「……あれ」
事態を把握できずにいる雪だるまは、その雪しか入っていない頭で考えた。
何かいけないことを言ってしまっただろうか。
その時、少し遠くのシイの木の根元から、何かがひょっこりと顔を出した。
「よう、雪だるま君」
「やあリスさん」
薄く積もった雪に小さな足跡をつけながらかけてくるリスに雪だるまは挨拶した。
「急にいなくなってしまうから心配したんだよ」
「おう、悪いな。でどうだった」
リスは雪だるまの正面まできてその顔を見上げた。
「僕はつばめさんを怒らせてしまったみたい」
「っはは! そりゃぁいいや!」
リスは仰向けになって足をばたつかせながら、本当に可笑しいというように腹を抱えて笑い出した。
「どうしたらいいだろうか」
雪だるまは真剣だった。
「放っておけばいいさ」
リスは立ち上がると、雪だるまの横から器用に登って頭の上に落ち着いた。
「俺はあの卑怯なつばめに一泡ふかせてやりたかっただけなんだから」
「なぜ?」
首も目線も動かさずに、言葉だけを、雪だるまはリスに向ける。
「なぜって、そりゃぁあいつが俺の巣を横取りしたつばめだからさ」
雪だるまは珍しく黙った。
「俺がいない間に勝手に巣に入り込んでそのまま住みついちまった、嫌な奴だろ?」
リスは同意を求めるように雪だるまの木の実の瞳を覗き込む。
「……」
けれど返事はない。
雪だるまの表情はいつも笑った顔だけで、黙られてしまうと寝ているのか起きているのか、怒ったのかそれとも考え事をしているのか、正直リスにはわからなかった。
「……まぁ、あれだ。あんたには手伝ってもらったしな、礼にあんたの言うこと一つきいてやるよ」
リスは少し早口で言った。
「……そう?」
「おうよ」
雪だるまは少し考えるとリスに答える。
「じゃあつばめさんの話をして」
「……」
今度はリスが黙る番だった。
「……あんた変わってんな。まぁいいけど」
「いいの?」
「礼だからな」
リスの意外な律義さに雪だるまは少し笑ってしまった。
リスはいぶかしげに雪だるまを見る。
「いや、やっぱり親切なリスさんなんだと思って」
雪だるまはまたふふ、と笑う。
それが雪だるまの笑い方だった。
「やめてくれよ、背中がかゆくなる」
雪だるまからはリスの姿を見ることはできなかったけれど、リスが本当に背中をかいているような気がして、雪だるまはやっぱり笑ってしまうのだった。
そして咳払いを一つすると、リスはつばめの話を始めた。
「つばめさーん」
呼ばれてつばめはめを覚ます。
巣穴から差す日の光が眩しくてまた目をつぶる。
もう少し寝よう。
「起きてつばめさーん、朝だよー」
ぱちっと目を開けて、つばめはあわてて起き上がる。
自分が誰かに呼ばれて目を覚ましたことを思い出した。
巣穴から顔を出すと、やはり日差しが眩しくて何度かまばたきをする。
「つーばーめーさーん」
つばめを呼んでいるのはどうやら昨日の雪だるまのようだった。
「うるさいわよあなた」
そう言いながら、つばめは何か違和感に気が付いて雪だるまの目の前に降り立った。
「やぁつばめさん」
雪だるまはまるでつばめの話など聞かなかったかのように嬉しそうに言った。
「やっと起きてくれたんだね」
……またこれだ。
雪だるまの言葉は毎回自由すぎてどうもつばめを納得させなかった。
つばめは雪だるまを見上げる。
(耳はあるんだろうか)
じゃなくて。
「……随分小さくなったわね」
昨日と同じように頭の上に降りていたら崩れてしまっていたかもしれない。
それほどに小さくなっていて、さらに左に少し傾いていた。
「そうだね。今日はお日さまが出ているし、暖かくて昼には溶けてしまいそうだったから、その前につばめさんに謝りたかったんだ」
つばめは雪だるまの顔をまじまじと見た。
はじめて正面から見る雪だるまの姿は、輪郭がだいぶ歪になってしまっているものの、よほど丁寧に作られたのか木の実の眼も小石を並べた口もしっかりと残っている。
しかしよく見ると、浅い半円に並べられた中の一番左にはまっていただろう小石が、もうほとんどむき出しになった土の上に一つ転がっていた。
「本当にごめんなさい」
雪だるまの口調はとても真剣だったけれど、それが可笑しくてつばめは思わず笑ってしまった。
「どうして笑っているの」
「あなたが笑っているからよ」
雪だるまがもし自由に動く体をもっていたなら、きっと今、首をかしげたに違いないとつばめは思う。
まぁ、首はすでに傾いでしまっているのだけれど。
「あなた謝っているのに笑っているから」
「ああ」
雪だるまは誇らしげに言う。
「あの子がね、今年は頑張ってきれいにつくってくれたからね」
何となく噛み合っていないような気がしたけれど、つばめは黙って聞くことにした。
「去年はほんとうに泥だらけでね、口もまっすぐな木の枝だったんだ」
確かに、雪だるまははじめて見たときから少しの土も混ざっていない真っ白な体をしていた。
よく考えると、あの程度の積雪で雪だるまをつくろうとすれば少しくらい土が混ざってしまってもおかしくなかった。
「後ろにバケツがあるでしょう」
見ると確かに、シイの老木の後ろからピンクのプラスチックでできた小さめのバケツがのぞいていた。
「それにきれいな雪だけを集めてつくってくれたんだよ」
なるほど、確かに元はバケツ二つ分の大きさだった気がする。
ふふ。
来年も楽しみだなと、雪だるまは呟いた。
「来年はもっと大きな雪だるまになっているかもしれないね」
そうだろうかとつばめは思う。
「来年もつくってくれるかなんてわからないじゃない」
「わかるさ、友達だからね」
雪だるまは何でもないことのように言った。
そうだった、この雪だるまはそういうやつだった。
例えばその人間の少女と約束をしたとか、そういうことでもないのだろうとつばめは思う。
『友達だから』以外の根拠なんて、雪だるまには必要ないのだろう。
「今度会ったら笑った顔につくってくれたお礼をいわないと」
何のお礼なのかつばめにはよくわからなかったが、雪だるまの言葉を深く考えるのはやめることにした。
「そういえばつばめさんは飛ぶのが苦手なの?」
「……なぜ?」
突然の話題の転換にとまどいながらもつばめはなんとか質問で返した。
けれどその答えを、つばめはもう知っている気がした。
「リスさんに教えてもらった」
「……そう」
やはりあのリスだ。
それでも、今つばめの中にあるのは、リスへの苛立ちでも、雪だるまの突飛な言動に対するもどかしさでもなかった。
……話してしまおうか。
つばめは迷っていた。
どのみちすぐに溶けていなくなってしまう雪だるまだった。
(どうせ、消えてしまうんだもの)
雪だるまはつばめの返事を待っている。
「……そうよ」
つばめは呟くように話し出した。
雪だるまは静かにつばめの話を聞いていた。
つばめはずっと高く飛ぶのが下手で、いつも木の枝や葉にぶつかってしまうと。
森で一番背の高い木から飛び立ってもなぜか気づくと森の中に落ちてしまうのだと。
「仲間のつばめはみんな遠くへ行ってしまったわ」
そう言ってひとしきり話し終えるとつばめは黙り込んでしまった。
「ひとりは寂しいよね」
そう言う雪だるまの体はますます小さくなって、つばめはもう今までのように高く見上げなくても雪だるまと目を合わせることができたけれど、俯いてばかりのつばめはまだそこのとに気が付かない。
寂しい。
(そんなんじゃないわ)
つばめは心の中で反論する。
そんなんじゃない。
ほんとうに?
ほかでもない、自分の声で問われる。
「ひとりで知らないところへ行くなんて誰だって怖いしね」
つばめは気づいた。
ひとりは寂しかった。
自分を守るための傲慢さがきっと誰かを傷つけただろう。
――あなたは何処にも行けないわ。
なんて幼稚で、身勝手だったことか。
何処にも行けないのは、本当は……。
本当は。
「だから僕と一緒に海に行きませんか?」
予想もしなかった言葉に、つばめは反射的に顔を上げる。
その時はじめてつばめは、雪だるまがもうつばめの背丈二つ分もないほど小さくなっていることに気が付いた。
「そしたら寂しくないでしょう?」
「あなたがどうやって私と海へ行けるというの」
随分頼りない姿になってしまった雪だるまにつばめは言う。
「あなたはもうすぐ消えてしまうじゃない」
「消えたりしないさ」
ふふと笑って、まるで種明かしをするかのように雪だるまは語りだした。
「確かに溶けてしまったらここにはいられないんだけどね、水になった僕は土に浸み込んで、それから川になるんだ。川は気持ちがいいよね、僕あの川の魚さんと仲良しなんだ」
相変わらずの自由さで雪だるまは語る。
きっと去年の春の話をしているのだろうとつばめは推測した。
「それで魚さんとおしゃべりしていたらいつの間にか海に出ていたんだ」
「……そう、あなたは海へ行けるのね」
雪だるまの言いたいことは分かった。
けれどそれなら、問題なのはつばめの方だった。
「でも私は行けないわ」
「なぜ? 海への行き方……わからない?」
「……いいえ」
海のある方向ならつばめは知っていた。
海はこのシイ林を囲む森の、その向こうに広がっている。
仲間のつばめ達はみんなその海を渡っていったのだ。
「言ったでしょう、私は飛べないのよ」
つばめはもう泣いてしまいたくなった。
本当にもう、どうしようもなく、泣きたくなってしまったのだ。
そんなつばめを見て何を思ってか、雪だるまはまたふふ、と笑うのだ。
「実はね、リスさんに聞いたんだけれど、……つばめさんがうまく飛べないのは、飛んでいるときにいつも目をつぶっているからなんだって」
「……」
(なに)
つばめは一瞬、何を言われているのかわからなかった。
「つばめさんはきっと無意識だろうけどって、……ふふ、彼はつばめさんのことをよく見ているんだね、きっと仲良くなれるよ」
(そうなんだろうか)
仲間たちに追いつくためにがむしゃらに飛び続けていた頃のことを思い出す。
飛んでは落ちるの繰り返し。
確かにつばめは、上空からのこの林やその外にある森の様子を、思い浮かべることができなかった。
けど。
「けど…私は」
つばめが海を見たのは一度だけ。
仲間たちはみんな彼女をおいて海を越えて行ってしまった。
つばめには、あの大きな海の上を飛ぶ勇気がなかったのだ。
「私は……何処にも行けない」
「何処へでも行けるさ」
どこかで聞いたことのある台詞だった。
消え入りそうなつばめの声に対して、雪だるまの言葉は力強く響いた。
「高い所はきっと……怖いだろうけどね、しっかり目を開けて飛ぶんだ。……自信を持って。勇気をだして。次はきっと、飛べるから」
言い残したことを全て言うかのような、聞いていて恥ずかしいくらいのまっすぐなエールの言葉を、つばめに贈る。
まるで遺言のようだと思った、その言葉の中に、つばめは雪だるまの異変を感じた。
「……本当は一緒に行きたかったんだけれど…そろそろ時間みたい」
雪だるまの体は大きく左へ傾いて、すでにつばめとたいして変わらない目線だった。
「先に行って君を…待つことにするよ」
「待って!」
雪だるまの言葉の間隔はだんだん大きくなっていく。
「なぜ私が海へ行くと思うの! 私はまだ行くなんて言ってないわ!」
「……」
返事はない。
行ってしまった、そう思った時。
「……ふふ、わかるさ……友達だからね」
「……」
またどこかで聞いたような言葉を残して、今度こそ本当に、雪だるまは行ってしまったようだった。
つばめは少しの間、しゃべらなくなった雪だるまを見ていたけれど、しばらくして巣に帰ろうと羽を広げた。
その時ふと思う。
雪だるまは、どうやって自分と一緒に海まで行けると思ったのだろう。
つばめは川にはなれないし、そもそも水になってしまった雪だるまをどうやって判別すればいいのか、つばめには分からなかった。
けれどそれを確かめることはもうできない。
つばめは羽をしまうと、またしばらくそこに立ち尽くした。
ほんの少し残った雪の塊が、春の日差しを浴びてきらきらと光っていた。
その日の夜、外に気配を感じて巣穴から顔を出すと、昼まで雪だるまがいた場所でリスがきょろきょろと辺りを見回していた。
リスが去ったあとこっそり降りてみると、何やら木の葉が山積みになっていた。
それを足で蹴散らすとあらわれたのは二つの木の実。
そしてため息を一つ。
どこが親切なリスさんなんだ。
「……」
つばめは少し考えたあと、この木の実を巣に持ち帰ることにした。
早朝、つばめは日の出を待っていた。
「あなたにお願いがあるの」
巣の中で、まるで空を見上げるようにつばめは言った。
「この場所はあのリスに返すわ。あいつにそう伝えてちょうだい」
「……確かに」
確かに伝えよう、シイの老木の深い声が、響く。
「……行くのかい」
「ええ」
巣の中には木の実が二つ。
つばめは巣穴の縁に乗って森の彼方を見据える。
出発は日の出とともに。
つばめは振り返ると、最後に言った。
「友達を待たせているの」
白い光がつばめを包む、眩しくても目は閉じなかった。
もう振り返ることはない、目指すはあの森の彼方。
友達が待つ、素敵な海へ。
おしまい