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しかしてロリコン




「やはり、お行きになった方がよろしいかと」


 宮に招かれてから一カ月たった日の朝、ネリーの進言にクリスティーナは顔をしかめた。


「私だってそうは思っているのよ。でも……」


 ネリーが言っているのは、ニコラスの朝の植物の世話の際に、クリスティーナが付き添ってはどうかということだった。ニコラスから早朝に花の世話を行っていると聞いてから、その案はクリスティーナの頭の中をふわふわと浮かんだ状態を保っていた。朝に弱いわけではないため、ニコラスに付き合うことは可能だったが、一日の始まりをニコラスと迎えることにクリスティーナは大変な抵抗を覚えていた。一緒に歩くぐらいなら構わないのだが、ニコラスは庭にいるときは必ずと言っていいほど手を握ってくるのだ。三日に一度でも耐えがたいのに、毎日それが続くかと思うと、クリスティーナにはニコラスを殴らない自信がなかった。


「しかしクリス様、朝からそれも王太子のご趣味に付き合われるというのは、親密度を上げるのに最適かと思われます」

「そうよねえ…」


 ネリーはあくまでも淡々と進言し続けた。ネリーには、彼女の主が心底望んでいる結末のために動く義務があるのだ。たとえ、傍から見た二人の図を、どんなに犯罪的だと思っていても。この一カ月の間も、さりげなく女官たちにクリスティーナはニコラスに惚れ込んでいるという偽りの噂を流し、そこそこの成果を上げていた。だから、ネリーの言葉に従った方が賢明だということは、クリスティーナはちゃんと分かっていた。


「私が少し耐えて、それでバカ王子がさっさと夢中になってくれるなら万々歳ってものだものね」


 彼女を見初めた時点でニコラスが彼女に惚れていることは分かっているのだが、それでは足りないとクリスティーナは考えていた。それこそ、八歳児にキスを迫るくらいでないといけないと思っていたのだ。キスするということは王子が屈むことを意味しており、顔面を殴り飛ばすにも都合がよかった。


「まあ、そろそろ聞きたいこともあるし、仕方ないわね。明日から決行するわよ」

「畏まりました」


 二人は、半年もかからずして公爵家に帰れるだろうと予想し、その日は気持ちよく眠りにつくことができた。





「お早いですね、ニコラスさま」

「ティーナ?」


 いつも通りに朝早くから花の世話に精を出していたニコラスは、不意に現れたクリスティーナに唖然とした。


「おはようございます」

「ああ、おはよう。………いや、そうではなくて、何故ここに?」


 クリスティーナは怒ったような振りをした。


「まあ、未来のだんなさまのおてつだいをしたいと思うのは、とうぜんじゃございませんか?」

「手伝い……?」


 まるで思いつかなかったというように目を見開き、ニコラスはぼーとクリスティーナを見つめた。彼の以前の婚約者たちはこのようなことはしなかったようだである。クリスティーナはしめたものだとほくそ笑んだ。


「君だけで?」

「ええ。エリーはついてきてくれただけなのです」

「エリー?…………ああ、その人か」


 何度か会っているはずだが名前を覚えられていなかったネリーは、ニコラスはクリスティーナしか見ていないようだと安堵した。クリスティーナの計画は順調なようだ。


「でも、結構大変な仕事だよ?手も汚れてしまうし…」


 クリスティーナの願いなら大抵は叶えてしまうニコラスが、珍しく渋る。ニコラスから見た彼女は八歳の幼子であり、彼女を愛してはいたが、仕事を手伝ってほしいと思ったことはなかった。だが、クリスティーナもここで引くわけにはいかないため、あれこれと理由をつけて粘る。最後に折れたのはニコラスだった。


「それじゃあ、そこの土を掘り返して解してくれるかな。虫が出るかもしれないけど大丈夫?」


 正直虫は苦手なクリスティーナであったが、長年の野望のためには根性を見せるしかなかった。植物を世話をしている間のニコラスは基本無口らしく、クリスティーナが問いかければ答えるという程度だった。普段なら焦る場面だが、ニコラスへの質問を考慮すればむしろ好都合と言えた。


「ニコラスさま」


 さりげなさを装って呼びかける。少し離れたところから返事があった。


「ニコラスさまのおしごとをおてつだいするのは、わたくしが初めてなんですの?」

「……多分」


 少し間を開けてから、ニコラスは答えた。


「わたくしの前に婚約されていたリリィさまはどうでしたの?」

「リリィ?」


 数十分ぶりにニコラスは顔を上げて、クリスティーナを見た。そして首を傾げる。


「誰だい?」


 やはり、とクリスティーナは確信した。ネリーを振り向き、こくりと頷いていせる。ニコラスには、全く心当たりがないようだと二人は見て取った。


「それではナータさまは?その前のカタリーナさまはどうでしたの?」

「誰のことを言っているんだい?」


 ニコラスはいきなり知らない名前を言い出したクリスティーナに、すっかり困惑してしまった。疲れてしまったのだろうかとも思った。そんなニコラスを尻目に、クリスティーナはここの所比較的落ち着いていた怒りを煮えたぎらせ、ネリーは自国の王太子の体たらくに失望していた。


(そうじゃないかと疑ってはいたけど、このバカ王子、以前の婚約者のことすっぱり忘れてるわ…!)


 今の恋人に夢中と言えば聞こえはよいが、三十九人の婚約者を忘れ去るとは一体どういう了見なのかと、クリスティーナは憤った。昔の恋はどうでもいいということなのかと思うと、十一年前の怒りが襲ってくるようだった。クリスティーナのように傷ついた女の子たちも、一人二人ではないはずだ。


(なんて最低なの!男の風上にも置けない…、いえむしろ風に飛ばされて海に沈む勢いだわ!)


 こんな調子では、一番に婚約した自分のことなど空の彼方であろうと、クリスティーナは考えざるを得なかった。怒りに震える手でスコップを地面に突き刺し、クリスティーナは荒れ狂う海のような心を鎮めようと努力する。しかし、悪びれた様子もなく再び者と作業に戻るニコラスを見てしまっては、心の中に特大の嵐が発生するのも致し方ない。


(この男の顔面、絶対血だらけにしてやるんだから……!)


 殺気立つクリスティーナを止める方法など、ネリーでさえ知らないことだった。第一、今の発言を聞いてしまっては、到底ニコラスに味方する気など起こらなかった。


「ニコラスさま、どうか明日からもてつだわせていただけませんか…?」

「ええ、もちろん」


 作業が終わった後のクリスティーナの言葉に、嬉しそうに頷くニコラスに悪気はない。彼は、クリスティーナが自分を愛していると、すっかり信じ切っていたのである。





 何日か経ち冷静になってみると、朝の作業というのはクリスティーナにとって実に有意義なものだった。土をいじっているニコラスは、常に心が半分植物に乗り移ったような状態であり、クリスティーナのどんな質問にも答えてしまうのだ。そして、クリスティーナへの無駄な賛辞を送ることも、愛の言葉を囁くこともなかった。ニコラスが、植物と婚約者のどちらが大切かと問われれば、三日三晩迷うに違いとクリスティーナは考えていた。

 そしてこの時間は、クリスティーナにとっては意外な結果をもたらすものであった。ニコラスの植物への愛をバカに仕切っていた彼女であったが、一週間作業に付き合えば、嫌でも彼の情熱を理解できたのである。

 まず、庭師が手入れを行っているだろうというクリスティーナの予想は、全くの外れであった。驚いたことに、ニコラスは宮にある庭のほとんどを自身で管理していた。雇っている庭師は、ほとんど彼の助手のようなものである。ニコラスが仕事以外の時間を庭の手入れに費やしているというのは、まぎれもない事実であった。

 早朝の作業だけでクタクタになってしまうクリスティーナは、ニコラスの体力と愛情と根気が並大抵ではないことを思い知らされた。それから、ニコラスの美点はそれだけではなかった。

 華美な服装を好まないこと。

 動物に優しいこと。

 人を見下す態度をとらないこと。

 政務に手は抜かないこと。

 朝の作業から手に入れた情報を指折り数えていたクリスティーナは、思わずため息を吐いた。なんというか、ニコラスは幼女趣味の一点以外は、大変良くできた人物だということが分かってしまったのだ。その唯一の欠点が、他の長所を覆い隠して余りあるところが難点だったが。ネリーが女官や衛兵たちから拾ってきた噂も、人の顔と名前を覚えるのが苦手という以外は大凡よろしいものばかりだった。

 「バカ王子」という印象は相変わらずだが、馬鹿なだけではないということが薄々判明してきた。十一年前のクリスティーナが惚れ込んでいただけはある。

それに、とクリスティーナは最後に小指も曲げた。


「ティーナ様。殿下のお越しですよ」


 ネリーに呼ばれて、扉を開けるように指示すると、ニコラスが笑顔で入ってきた。


「やあ、ティーナ。今日は遠乗りをしないかい?」


 ニコラスは、婚約者にとても優しい。

 なぜ、何度も婚約解消を繰り返すのか、クリスティーナが理解に苦しむほどである。ネリーに尋ねても、同じ考えであった。


(まあ、私を振ったという事実は変わらないんだから、計画を変更する気はないけれどね)

「はい、ニコラスさま。よろこんで」


 ただ、これほどの好条件の男が最低な性癖を持っていることを、ひどく残念に思うのだ。






 一雨来そうだね、と呟いたのは、ニコラスであった。

 クリスティーナとニコラスは、王宮近くの森まで来ていた。八歳児が一人で馬を乗りこなすことはできないので、クリスティーナは渋々ニコラスの後ろに跨っている。ネリーは、ニコラスの護衛の一人に同乗させてもらっていた。空模様がだんだんと怪しくなってきたのは、森の奥にある湖で昼食をとっていた頃であった。慌てて引き返そうとしたが、森を抜ける前に雨は降りだしてしまった。仕方なしに、クリスティーナたちは、大きな木の根元で雨をしのぐことにしたのだ。


「大丈夫?」


 向かいの木の葉から滴り落ちる滴を、ぼうっと眺めていたクリスティーナに、気遣わしげにニコラスが尋ねた。


「はい。雨はきらいではないですから」

「でも、寒くはないかい?」


 大丈夫だとクリスティーナは答えたが、ニコラスはそれを良しとしなかった。自分が羽織っていた上着を脱ぎ、クリスティーナに掛ける。八歳の体には少々重かったが、上着はニコラスの体温で十分温まっていた。

 前にもこんなことがあったと、クリスティーナは思う。十一年前も二人で宮を抜け出して、突然雨が降り出したことがあった。その時も、ニコラスはクリスティーナに自分の上着を差し出したのであった。

 微笑ましい思い出に、クリスティーナは笑みを漏らしそうになる。笑いをこらえる彼女に気付いたニコラスが、その理由を問うた。


「あのね……」


 そこでクリスティーナはハタと口を抑えた。ついうっかりと、「ニコル」と呼んでしまうところであった。


「どうしたの?」


 何でもないのだと首を振りながら、クリスティーナはニコラスと再会してから初めて、悲しみという感情を覚えた。家族との団らんで思い出を語り合うように、ニコラスとは思い出を分かち合えないのだと思うと、胸に冷たい風が吹き込んだ。怒った時ほどの激情ではないが、静かに降り注ぐ雨と相まって、クリスティーナを感傷的な気分にさせた。そんな風に沈み込む彼女を目にしても、ニコラスは心配にはなりはしたが、何も思い出したりはしなかった。ただ、急に無口になった婚約者に戸惑った末、小さな左手を包み込むにとどまった。

 そこになって、クリスティーナは、とうとう彼の優しさを認めざるを得なかった。

 様子をうかがっていたネリーにも、そのことは感ぜられた。ネリーは、何とはなしにいつかこうなるのではないかという予感があったので、それほど驚きはしなかった。宮にいた頃のクリスティーナが、ネリーに宛てた手紙の内容の王太子と、たった今クリスティーナに微笑んでいるニコラスの優しさに違うところなどありはしなかったのだから。


(優しい人ね…)


 だからこそ、どうして自分をあんな風に放り出したのかと、やり場のない怒りだけが、クリスティーナの気管を行ったり来たりして結局は元の場所へと戻っていった。人の感情というものは、雨が地面に流すことができるほど簡単なものではないのである。





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