ところでロリコン
庭に置かれた椅子に優雅に腰かける少女を目にして、ニコラスは逸る心を抑えきれなかった。蜂蜜色の髪に、澄んだ空のような瞳。公爵家のパーティで少女を目にした瞬間、ニコラスはすっかり恋に落ちていた。しかも彼女は八歳だという。そんな好みど真ん中の少女、いや幼女を逃がすはずもなく、ニコラスはすぐさま公爵家に打診し、公爵の遠縁にあたると聞かされたクリスティーナを宮に招いたのだ。
草を踏みしめる音に気が付き、クリスティーナは顔を上げ歩いてくるニコラスに微笑んだ。小さな足で地面に降り立ち、自分もニコラスへと向かう。後ろからネリーが日傘をさして影を作った。
「はじめまして、王太子殿下。ティーナと申します。こちらはじじょのエリーですわ」
クリスティーナが考え得る中で最も甘く舌足らずな声を出し、ニコラスから見て最も可愛らしく見えるように首を傾げた。その効果は絶大であり、途端にニコラスは笑み崩れる。幼女趣味の名に違わず、彼は小さくて愛らしいものに目がなかった。
「はじめまして、愛しいティーナ。君に会えて私の心はようやく春を迎えたようだ。どうかニコラスと呼んでおくれ」
男の頭が常春であることを知っていたクリスティーナは、思わず拳を握りしめた。ネリーの嗜めるような視線に分かっていると小さく頷く。ところで、正体がばれぬよう宮の中では、クリスティーナはティーナ、ネリーはエリーという偽名を使っていた。これは、クリスティーナに脅された父である公爵の苦肉の策でもあった。
「はい、ニコラスさま。ティーナもニコラスさまにお会いできて、とてもうれしいです」
クリスティーナは少したりとも裏に潜むどす黒い感情をにじませたりはせずに、心底ニコラスを恋い慕っている少女を演じ切っていた。この人は女優の才能があるのではないかと、ネリーは時たま感じる。
「ティーナ、今日は宮の庭を案内するよ。私は花が好きでね、庭にはとてもこだわっているんだ」
さりげなく繋がれる二人の手。自分の倍ほどある骨ばった男の手に鳥肌が立つ。クリスティーナはそれを危うく振り払ってしまうところであり、尚且つニコラスへと微笑み返すのには大変な努力を要した。表面上は仲良くつれ立つ青年と幼女は絵面的に目に痛いものがあるな、と後ろから見ていたネリーは感じ、同時にニコラスが王太子でなかったらとっくに犯罪者として捕まっていただろうとも思った。
実は王太子の趣味がガーデニングということは、既にクリスティーナの知るところであった。十一年前に宮に滞在していた際にも、散々連れまわされたのだ。あの頃は素直に綺麗だと思っていた花たちだが、あの男が育てたかと思うと何となく嫌だった。だが、花に罪はないのだし、何よりニコラスを完全に陥落させるためにもクリスティーナはその美しさを称えて見せた。
「まあすてきなお花!これはニコラスさまがお育てになったのですか?」
「ああ。庭師たちと相談しながらだけれど、大抵は僕が育てているものだよ」
「すごいですわ!」
確かに花は美しかったが、それがニコラスの成果だとはこれっぽっちも思っていないクリスティーナである。王太子はそんなに暇ではないのだから、どうせ庭師たちが世話をしているのだと考えていた。第一、ニコラスなどという輩に育てられた花がこんなに美しく咲くはずがないとも考えていた。
「他の所も見せてあげるよ。今の時期はチューリップがきれいなんだ」
「楽しみです」
クリスティーナに褒められて機嫌を良くしたニコラスは、幼い婚約者の手を引き次の庭へと向かう。自分の趣味を理解してくれるということで、ニコラスの中のクリスティーナ株は上昇の一方であった。完全に騙されている第一王子に哀れみを覚えなくもなかったが、クリスティーナが最優先であるネリーが口を開くことはやはりないのである。
(ああもう、歩くのが早いわね!)
足幅の大きいニコラスに遅れないようにと早足になりながらも、クリスティーナは情報収集に余念がなかった。公爵家の手のものによる調書に目は通していたが、計画を完全なものにするためには情報が多いに越したことはないのだ。
「ニコラスさまは、いつもはどんな風に過ごされているのですか?」
爛々と目を光らせるクリスティーナには全く気付かず、ニコラスは答えた。
「朝は陛下とともに会議に出席して、大臣たちと今後の政策などを検討したり、国の現状についての報告を聞くんだ。その後は、陛下に任された書類に目を通して判を押す作業が延々と続くね。空いた時間は全て植物の世話に費やしているよ」
ほとんど調書で読んだ通りの内容だったため、クリスティーナはがっかりした。それにこのスケジュールでは王子と会える時間が少なく、すなわち復讐のための時間も少ないということだった。
「それではわたくしと会っていただける時間は、なかなかございませんのね?」
項垂れたまま口にすると、ニコラスはその様子を自分に会うことができないためだと勘違いし、なんて意地らしい人なのだろうと感激した。
「いいや、これからはティーナとの時間を第一に考えるつもりさ。今だって、今日の分の仕事を昨日に終わらせてしまったからこうして会えたのだし。時間はいくらでも作れるのだよ」
復讐の時間が増えることは好都合だったが、この男と頻繁に過ごさなければならないことを考えるとクリスティーナの気分は上昇しなかった。それでもどうにかほほ笑みを張り付けごまかしていた所で、丁度良く次の庭園に到着したようだ。そこでクリスティーナは、目の前に見える場所に、少しだけ動揺した。
「さあ着いたよ。ここが僕の一番気に入っている庭なんだ。チューリップが美しいだろう
?」
先ほどに比べればこぢんまりとした庭だと言えた。中央には小さな噴水が位置し、そこから先は宮中へと続く廊下となっていた。可愛らしい天使が持つ壺からは澄んだ水が絶え間なくあふれ降り注いでおり、周りを石畳がぐるりと囲んでいる。それ以外の場所は全て色とりどりのチューリップとカモミールが咲き誇り、蝶たちが甘い蜜を吸いに集まっていた。
だが、クリスティーナの心は決して明るいとは言えなかった。その庭園は、クリスティーナとニコラスにとっては因縁の場所である。少なくともクリスティーナにとっては苦々しい思い出がよみがえる所だった。十一年前の誕生日、まさにこの場所で二人の婚約は破棄され、クリスティーナの心は深く傷つけられた。ネリーはそのことを良く聞き知っていたため、自分の主を気遣うようにちらりと見る。
(花の種類はあの頃と変わってないようね)
その事実も、クリスティーナの心の傷を抉る一因であった。ニコラスが自慢げに紹介している赤・紫・桃・緑のチューリップは、他でもないクリスティーナのために植えられた花だったのだから。
『赤色は“愛の告白”、紫は“永遠の愛”、桃色は“誠実な愛”。そして緑のチューリップは君の“美しい瞳”に』
幼い頃のニコラスは、まだ彼に恋をしていたころのクリスティーナにそう告げた。クリスティーナの誕生月に美しく咲くようにと、ニコラスの手ずから植えられたものだった。実際には、チューリップの蕾が開く前にクリスティーナは宮を追い出され、ニコラスが彼女に贈ったどの言葉も実現することはなかったのだけれど。ニコラスの愛の詰まった庭で別れを告げられたことは、完全なる皮肉に感ぜられた。
「どうかな?ティーナの気に入ると嬉しいんだけど…」
不安げなニコラスを一瞬無言で見つめたクリスティーナは、次の瞬間には何事もなかったかのように振る舞った。
「ええもちろん。とってもきれいなお庭です」
嬉しげに眼を細めるニコラスの横で、クリスティーナは、ふつふつと泡のように沸き上がってくる感情を、抑えることはできなかった。
次にニコラスと相見えることができたのは、三日後のことだった。女官長からそのことを聞き、ネリーとともに万全な準備を行った。無論、ニコラスを夢中にさせるための準備である。
「今日は午後一杯ティーナと過ごせるようにしたんだ」
自らの言葉通りに、ニコラスは仕事に励み、クリスティーナと会う時間を捻出していた。宮の案内をすると言って、クリスティーナに歩幅を合わせながらゆっくりと長い廊下を歩きだす。庭以外の場所では彼は人並み以上に気遣いができる男だった。一方で植物を見ると居ても立ってもいられなくなり、周りに目がいかなくなってしまうのは昔からのことである。
そういえば以前も庭ではやたらと走り回っていたと、クリスティーナは棚の奥の方に仕舞い込み開けないようにしていた記憶の箱を引っ張り出した。当時はクリスティーナと歩幅も変わらず、彼が走り回っても付いていくことはそれ程難しくなかった。最後の印象が最悪のため「幼女趣味のバカ王子」としか認識できなくなっており、ニコラスに関する普通の記憶が出てきたことに驚いたクリスティーナである。
「それで、ここが僕の部屋」
ネリーにこっそりと服を引っ張られ、クリスティーナは我に返った。いつの間にか廊下の端にあるニコラスの私室に来ていたのだ。そこでクリスティーナは、十一年前には思いもしなかった疑問を持った。
「ニコラスさま。ふつう王族の方のおへやは、最上階にあるのではないですか?」
するとニコラスは目を見開き、次いでクリスティーナの頭を撫でた。確かに両親や兄弟たちは宮の最上階に私室を有していた。一階の、しかも一番端に部屋を持っているのはニコラスぐらいである。あっさりと指摘したクリスティーナは、八歳(実際は二十歳であるが)目敏いと言えた。
「ティーナは頭がいいのだね。確かに普通は最上階に作るものなのだけどね、僕は地上に近い部屋がよかったんだ」
ニコラスがクリスティーナを褒めている間、彼女は頭に感じる不愉快な感触を我慢しなければならなかった。後ろ手にネリーの服を握りしめていなければ、さっさと払いのけていたことだろう。耐えきったのは、そのまま会話を続けたかったからだ。
「なぜですか?」
好奇心旺盛な無邪気な子供の振りをして、その実ニコラスの高所恐怖症などといった弱点の存在を期待しながらクリスティーナは尋ねた。ニコラスが美しいと感じるキラキラと輝く瞳は、決して彼にとって喜ばしいものではなかった。
「だって最上階じゃ花たちの様子が見えないじゃないか。朝一番には花の香りを楽しみたいし、起きてすぐに花たちの世話をしたいし……。それに書類の決裁も植物たちを眺めながらなら、全く苦ではないしね」
さも当然というように告げられた理由に、クリスティーナは思わず目を瞬かせた。クリスティーナも年頃の令嬢らしく可憐な花を好ましいとは思っていたが、ニコラスの意見にはあまり共感できなかったからだ。ネリーも同じ意見であった。
「それなら、お花をおへやにかざればよいのではありませんか?」
クリスティーナはこちらの方が余程効率が良いと思ったのだが、ニコラスはその言葉に悲しげな顔をした。それは彼が言われるたびに心を痛めていることなのだ。
「花を摘み取るなんてそんな、女性がそんなことを口にしてはならないよ。そんな非人間がするようなことは花屋だけで十分さ」
美しい花を手折ることは、この世で最もおぞましい行為だとニコラスは、常々考えていた。
一方、花屋を非人間扱いするのは如何なものかと思ったクリスティーナであったが、それよりもニコラスが予想以上に植物を愛していることに少なからぬ衝撃を受けていた。ネリーも眉根を寄せていた。昔は恋は盲目を地で行っており彼女は認識できなかったようが、ニコラスはかなりの植物愛好家である。クリスティーナは仮面を張り付けたまま、内心王太子の評価を更に落とし、もはやそれは地面深くにのめりこむまでとなっていた。
(今度からは『幼女趣味の植物バカ王子』と呼ぶことにしましょう)
クリスティーナの蔑んだ視線に、またしてもニコラスは気が付かなかった。おそらくニコラスはクリスティーナを「頭がよくて可憐な人」と思っているだろう、というネリーの予想はあながち間違いではないのである。