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残暑のトリュフと八億円

掲載日:2026/11/09

残暑のトリュフと八億円\

――冬枯れの窯と本物の温もり――


第1話 黒トリュフと婚約破棄


「玲奈、君との婚約は今日限りで破棄する。結婚の話は、なかったことにしてくれ」


 玲奈は、浩一の言葉を聞いた瞬間、胸の奥を冷たい手で握り潰されたように感じた。西麻布の高級フレンチレストランには、焼きたてのパンと黒トリュフの芳醇な香りが漂っている。シャンデリアの光が銀食器に映り、白いテーブルクロスの上では、冷えたシャンパンの泡が静かに立ちのぼっていた。


 今夜は結婚式場の相談をするものだと思っていた。玲奈はそのために、淡いシャンパンゴールドのシルクワンピースを選び、母から譲られた真珠のイヤリングをつけてきたのだ。


「……冗談でしょう? 来年の春には結婚するって、私の両親にも挨拶したじゃない」


「だから、その予定を取り消すと言っているんだ」


 浩一はネイビーの仕立てのよいスーツの袖を整え、何事もなかったようにシャンパンを飲んだ。三十八歳、ITコンサルティング会社の経営者。玲奈が三年間、人生を共にする相手だと信じてきた男だった。


「私、何か悪いことをした?」


「そういうところが面倒なんだよ。君はいつまでも、自分が選ばれる側だと思っている」


「どういう意味?」


「君ももう三十代だろう。港区女子としてちやほやされる時期は終わったんだ。若さも華やかさも、永遠じゃない」


 玲奈の指先が震えた。


「……年齢が理由なの?」


「結婚は将来への投資だからね。僕にはもっとふさわしい女性がいる。若くて、家柄もよくて、僕の事業にも役立つ相手だ」


「その人とは、いつから?」


「そんなこと、今さら聞いてどうする?」


 浩一は面倒そうに眉をひそめた。


「君にはもう、僕の隣に立つ価値がない。それだけの話だよ」


 そのとき、給仕が黒トリュフのリゾットを運んできた。温かな皿から濃厚な香りが立ちのぼる。玲奈が以前から楽しみにしていた料理だったが、今は喉の奥が詰まり、ひと口も食べられそうになかった。


「婚約指輪は返してくれ。高い買い物だったからね」


 玲奈は左手を見下ろした。指輪をもらった夜、浩一は一生大切にすると言っていた。その言葉まで偽物だったのかと思うと、目の奥が熱くなった。


「……分かったわ」


 玲奈は指輪を外し、白いテーブルクロスの上に置いた。


「返す。でも、これで全部終わりだと思わないで」


「何だよ、慰謝料でも請求するつもりか?」


「婚約は、あなたが一方的に破棄したのよ。私に何の落ち度もないのに」


 浩一は鼻で笑った。


「大げさだな。結婚する前に別れただけだろう?」


「両親にも挨拶して、式場の下見までしていたでしょう。そんな簡単な話じゃないわ」


「好きにすればいい。ただし、僕から金を取れると思わないことだ」


 玲奈はバッグを手に取り、立ち上がった。


「あなたと結婚しなくてよかった。今は、それだけはっきり分かるわ」


「負け惜しみか?」


「そう思いたければ、そう思って」


 玲奈は背筋を伸ばして店を出た。


 九月の夜風には、まだ夏の熱が残っていた。西麻布の舗道には車のライトが流れ、街路樹の葉が生ぬるい風に揺れている。角を曲がり、浩一の目が届かない場所まで歩いたところで、玲奈は立ち止まった。


「……ひどいよ」


 声に出した途端、涙がこぼれた。


「三年間も、一緒にいたのに……」


 玲奈はバッグを胸に抱き、しばらく動けなかった。悲しみよりも、信じていた男に値踏みされ、不要だと切り捨てられた悔しさが胸を締めつけていた。


 その夜、自宅へ戻ると、母の和子から小包が届いていた。中には梨と梅干し、そして小さな封筒が入っていた。


『この前帰ってきたときに買った宝くじ、忘れていったでしょう。なくさないように送るね。ちゃんとご飯を食べるのよ』


 封筒には、夏に実家で買ったサマージャンボプレミアムの連番が入っていた。


「宝くじなんて、当たるわけないのに……」


 玲奈は封筒を引き出しにしまった。


 その紙切れが、人生を大きく変えることになるとは、まだ知らなかった。


第2話 八億円の秘密


 婚約破棄から二週間、玲奈は食事の味が分からなくなっていた。仕事には通っていたが、帰宅するとソファに倒れ込み、冷蔵庫に入れた惣菜にも手をつけずに眠ってしまう日が続いた。


 浩一からは一度も連絡がなかった。共通の知人からは、彼が若い女性と高級ホテルのラウンジにいるところを見たという話まで聞こえてきた。


「私って、本当に何だったんだろう……」


 休日の午後、玲奈は母が送ってくれた梨を剥こうとして、引き出しの中の宝くじを思い出した。


 当選番号を調べる気になったのは、単なる気まぐれだった。買ったことさえ忘れていた連番の券をテーブルに並べ、公式の当選番号と見比べた。


 最初の一枚を見たとき、玲奈は眉をひそめた。


「……あれ?」


 もう一度確認した。組も番号も一致している。


 続けて前後の券を見た。そこには前後賞の番号が並んでいた。


「嘘……」


 玲奈は何度も画面と券を見比べた。架空のサマージャンボプレミアムで、一等と前後賞を合わせた当選金は八億円。手元の連番が、そのすべてに該当していた。


「八億……円?」


 声にすると、かえって現実味がなくなった。


 玲奈は震える指で母に電話をかけた。


「もしもし、玲奈? どうしたの?」


「お母さん……あの宝くじ、当たった」


「あら、よかったじゃない。三千円くらい?」


「違うの」


「一万円?」


「八億円」


 電話の向こうが静かになった。


「……玲奈、もう一回言って」


「八億円。当たってるの」


「ちょっと待って。お父さん! お父さん、来て!」


 母の慌てた声を聞いた途端、玲奈は泣き出してしまった。


「お母さん……私、浩一さんに婚約を破棄されたの」


「えっ?」


「もう価値がないって。若くない女はいらないって……」


 涙で声が途切れた。


 和子はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。


「玲奈。そんな男と結婚しなくてよかった」


「でも、私……」


「お金が当たったから、あなたに価値ができたんじゃないのよ。八億円なんてなくたって、あなたは大事な娘なんだから」


 玲奈は受話器を握りしめた。


「……うん」


「今日はちゃんとご飯を食べなさい。梨も剥いてね」


 玲奈は泣きながら笑った。


 後日、玲奈は慎重に当選を確認し、みずほ銀行で必要な手続きを済ませた。高額当選者向けの説明では、当選をむやみに人へ話さないこと、突然の投資話や金銭の要求に注意することなどを教えられた。


 玲奈はその言葉を胸に刻んだ。


「お父さん、お母さん以外には、絶対に話さない」


 実家でそう告げると、正雄も和子も真剣に頷いた。


「それがいい。大金は人を変えることがあるからな」


「お母さんたちも、誰にも言わないわ」


 玲奈は仕事を続けながら、資産管理の専門家に相談し、生活を少しずつ整えていった。広尾には眺めのよいペントハウスを購入した。車も、自分が気に入ったものを選んだ。


 しかし、財産を手に入れたからといって、傷ついた心がすぐに癒えるわけではなかった。


 玲奈は、もう誰かに選ばれるために生きるのをやめようと決めた。これからは、自分の好きなものを選び、自分の足で歩いていく。


 それが、八億円を手にした玲奈の最初の決意だった。


第3話 慰謝料請求と元婚約者の焦り


 玲奈は、浩一の言葉を思い出すたび、悔しさで胸が締めつけられた。三年間の交際、両親への挨拶、結婚式場の下見。それらをすべてなかったことにして、彼は自分を捨てたのだ。


 八億円の当選金があっても、浩一のしたことが許されるわけではない。


 玲奈は弁護士に相談することにした。


 都内の法律事務所を訪ねた日、玲奈は落ち着いたグレーのパンツスーツに白いブラウスを合わせていた。応接室には革張りの椅子が並び、窓の外では銀杏の葉が黄色く色づいていた。


「婚約破棄の慰謝料について相談したいんです」


 玲奈が事情を説明すると、弁護士は丁寧に頷いた。


「ご両親への挨拶も済み、結婚式場の下見まで進んでいたのですね」


「はい。来年の春に結婚する予定でした」


「婚約が成立していたことを裏づける事情があります。正当な理由のない一方的な破棄であれば、慰謝料を請求できる可能性があります」


「私には、何の落ち度もありませんでした」


「相手方が別の女性との結婚を考えていたという点も、事情として重要です。証拠を整理しましょう」


 玲奈は、浩一とのメッセージ、結婚式場の資料、両親への挨拶の日付などをまとめて提出した。


「先生、私、お金が欲しいわけじゃないんです」


「分かります」


「ただ、あんなふうに人を傷つけておいて、何の責任も取らずに済むと思ってほしくないんです」


 弁護士は静かに頷いた。


「そのお気持ちも含めて、法的に整理していきましょう」


 数日後、浩一のもとに弁護士名義の通知書が届いた。そこには、婚約の不当破棄を理由とする慰謝料と、結婚準備に要した費用の一部について、損害賠償を求める旨が記されていた。


 浩一は通知書を読んだ瞬間、顔を真っ赤にした。


「ふざけるな! 玲奈のやつ、弁護士まで使いやがって!」


 しかし、彼の会社はすでに経営難に陥っていた。大口の取引先を失い、資金繰りに苦しんでいたのだ。


 さらに、婚約破棄の原因となった若い女性との関係も長くは続かなかった。浩一の会社の経営状態が悪化すると、彼女は距離を置くようになり、やがて別れを告げた。


「君まで僕を見捨てるのか!」


「だって、話が違うもの。将来性のある会社だって言ってたじゃない」


 その言葉は、かつて浩一が玲奈に浴びせた言葉と、どこか似ていた。


 浩一はようやく、自分が人を条件で選んできたことの意味を思い知らされた。


 それでも彼は、玲奈への謝罪より先に、自分の損失を計算していた。


「玲奈とやり直せれば、慰謝料の話も消えるかもしれない……」


 彼はそう考え、久しぶりに玲奈へ連絡を送った。


第4話 マイバッハの車窓から


 浩一から連絡が来たとき、玲奈は怒りよりも先に、呆れた気持ちになった。


『久しぶりだね。少し話せないかな』


 玲奈は画面を見つめた。婚約を破棄してから、一度も謝罪しなかった男である。


 弁護士にはすでに相談していた。慰謝料請求については代理人を通して進めることになっている。それでも、浩一が何を言い出すのか、一度だけ聞いてみたい気持ちがあった。


 玲奈は弁護士に確認したうえで、表参道のホテルラウンジで短時間だけ会うことにした。


 当日、玲奈は深いボルドー色のシルクワンピースに、黒いパンプスを合わせた。肩には上質なカシミアのコートを羽織り、耳元には母から譲られた真珠のイヤリングをつけた。


 ホテルの車寄せに、玲奈の黒いマイバッハが静かに滑り込んだ。


 運転手がドアを開けると、玲奈はゆっくりと車を降りた。磨き上げられた車体に秋の陽光が映り、近くにいた客が思わず振り返った。


 そのとき、ホテルの入口に立っていた浩一が、驚いた顔で玲奈を見つめていた。


「……玲奈?」


「久しぶりね、浩一さん」


 浩一の視線が、玲奈の服からバッグへ、そして背後のマイバッハへと移った。


「その車……君のなのか?」


「ええ」


「マイバッハだろう? どうしたんだ、そんな車」


「気に入ったから買ったの」


 玲奈はそれ以上説明しなかった。


 浩一は口を開けたまま、車を見送った。


 ラウンジに入ると、彼は落ち着かない様子で玲奈の向かいに座った。


「ずいぶん雰囲気が変わったね」


「そう?」


「そのワンピースも、バッグも……前よりずっと高そうだ」


「服の話をするために呼んだの?」


 玲奈が静かに尋ねると、浩一は慌てて笑った。


「いや、そうじゃない。君に謝りたかったんだ」


「何を?」


「婚約を破棄したことだよ。あのときは、僕もどうかしていた」


 玲奈は注文した紅茶を口に含んだ。ベルガモットの香りが広がる。


「そう」


「君を失って、初めて大切さに気づいたんだ」


「私を捨てたときには、価値がないと言っていたわね」


「それは言葉の綾で……」


「言葉の綾で、婚約者にそんなことを言うの?」


 浩一は黙り込んだ。


 しばらくして、彼は身を乗り出した。


「玲奈、僕たち、もう一度やり直せないかな」


「どうして?」


「君ほど僕を理解してくれる女性はいなかった。今なら、君を幸せにできると思う」


 玲奈は彼の顔を見つめた。


「会社が大変なんですってね」


 浩一の表情が固まった。


「誰から聞いた?」


「それは関係ないでしょう」


「……確かに今は苦しい。でも、立て直せる。僕にはまだ力があるんだ」


「そう。頑張って」


「玲奈、待ってくれ。君は今、ずいぶん余裕がありそうだ。何か事業でも始めたのか?」


「いいえ」


「じゃあ、あの車は……」


「私の事情を、あなたに説明する必要がある?」


 浩一は言葉に詰まった。


「それに、慰謝料の件もあるだろう。僕たちがやり直せば、あんな話は必要なくなるじゃないか」


 玲奈は静かにカップを置いた。


「あなた、まだ分かっていないのね」


「何が?」


「私はお金が欲しくて慰謝料を請求しているんじゃない。あなたが一方的に婚約を破棄した責任を、きちんと取ってほしいだけよ」


「でも、僕たちは三年も一緒にいたんだぞ!」


「その三年間を捨てたのは、あなたでしょう」


 浩一は黙り込んだ。


 玲奈はバッグを手に取り、立ち上がった。


「あなたが欲しいのは、今の私が持っているものなんでしょう。でも、私はもう、あなたの隣には戻らない」


「待ってくれ、玲奈!」


 浩一が慌てて立ち上がった。


「僕を見捨てるのか?」


 玲奈は振り返った。


「私はあなたを見捨てるんじゃない。もう、あなたの人生に責任を持たないだけ」


 浩一は何も言えなかった。


 玲奈は背筋を伸ばしてラウンジを出た。


 ホテルの車寄せでは、運転手がマイバッハのドアを開けて待っていた。玲奈が車に乗り込むと、ガラス越しに浩一の姿が見えた。


 彼はまだ入口に立ち尽くし、遠ざかる車を呆然と見つめていた。


 玲奈はもう振り返らなかった。


第5話 慰謝料の決着


 玲奈は、浩一との面会を終えたあと、ようやく胸のつかえが少し軽くなったように感じていた。あの夜、西麻布のレストランで浴びせられた言葉は消えない。それでも、もう彼の顔色をうかがう必要はなかった。


 慰謝料請求については、弁護士が引き続き交渉を進めた。


 浩一は当初、婚約破棄に責任はないと主張していた。しかし、両親への挨拶や結婚準備の記録、別の女性との交際をうかがわせる事情などが整理されるにつれ、強気な態度を続けることが難しくなっていった。


 最終的に、双方は一定額の解決金を支払うことで合意した。


 玲奈は弁護士から連絡を受け、静かに頷いた。


「これで、終わりですね」


「はい。合意内容に従って支払いが完了すれば、今回の件は解決となります」


「ありがとうございました」


 玲奈は電話を切り、窓の外を眺めた。


 広尾のペントハウスには、冬の柔らかな日差しが差し込んでいた。テーブルの上には、母から送られてきた蜜柑が籠に盛られている。


 玲奈は一つ手に取り、皮を剥いた。甘酸っぱい香りが広がる。


「……やっと、終わったんだ」


 浩一から受け取る解決金は、八億円の財産に比べれば小さな額だった。しかし、その意味は金額では測れなかった。


 玲奈は、理不尽に傷つけられた自分のために、きちんと声を上げたのだ。


 もう、あの男に人生を振り回されることはない。


第6話 冬枯れの窯と本物の温もり


 玲奈は、浩一との決着をつけたあとも、心のどこかに寂しさが残っていることを感じていた。八億円を手に入れ、かつて自分を見下した男を拒絶できた。もう誰にも支配されずに生きられる。それなのに、広尾のペントハウスへ帰ると、広すぎる部屋の静けさが胸に迫ってくるのだった。


 十二月の初め、玲奈は郊外の山あいにある陶芸工房を訪ねた。木々はすっかり葉を落とし、細い山道には枯れ葉が積もっていた。


 キャメル色のカシミアコートの襟を合わせ、古い日本家屋の引き戸を開けると、湿った赤土の匂いと薪ストーブの熱気が迎えてくれた。


「いらっしゃい。見学の方ですか?」


 奥から出てきたのは、藍染めの作務衣を着た男だった。短い黒髪に、土のついた逞しい手。三十代半ばほどだろうか。


「ええ。器を見せていただきたくて」


「どうぞ。ちょうど窯から出したばかりの湯呑みがあります」


 男は伊織と名乗った。


 玲奈が手にした灰青色の湯呑みは、少し歪んでいたが、掌に驚くほどよく馴染んだ。


「不思議。ずっと持っていたくなる器ですね」


「毎日使っても疲れないように、重さと手触りを考えて作っています」


 伊織はそう言って、温かな番茶を淹れてくれた。


 香ばしい茶の香りが鼻をくすぐり、玲奈は思わず目を細めた。


「……美味しい」


「特別なお茶じゃないんですよ」


「でも、ここで飲むとすごく落ち着くんです」


 伊織は照れくさそうに笑った。


 その日から玲奈は、週末になると工房へ通うようになった。高価なコートを脱ぎ、厚手のウールニットとデニムに着替え、冷たい土をこねた。


「あっ、また曲がっちゃった!」


「慌てなくて大丈夫。土を押さえつけるんじゃなくて、支えてください」


「伊織さんは簡単そうにやるのに」


「僕も最初は失敗ばかりでしたよ」


「本当に?」


「昨日だって、大皿を一枚割りました」


「それを聞いて、ちょっと安心しました」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 ある夕暮れ、作業を終えた二人は薪ストーブの前に座っていた。鉄鍋では大根と鶏肉が煮え、醤油と生姜の温かな匂いが広がっていた。


「玲奈さんは、土を触っているとき、本当にいい顔をしますね」


 伊織の言葉に、玲奈は膝の上の手を見つめた。


「私、以前は誰かに認めてもらうことばかり考えていたんです。高い服を着て、高い店で食事して、立派な人の隣にいることが幸せだと思っていました」


 玲奈は、婚約を破棄されたことを話した。ただし、八億円の当選については口にしなかった。


 伊織は黙って聞いていたが、やがて静かに言った。


「それは、つらかったですね」


「……はい」


「でも、玲奈さんがここで笑っている姿を見ていると、そんな人の言葉で自分の価値を決めなくていいと思います」


 玲奈の目から涙がこぼれた。


「……そう言ってもらえると、嬉しいです」


「ここでは、無理に何かを証明しなくていいですよ。僕は、土まみれになって笑っている玲奈さんが好きです」


 玲奈は涙を拭いながら笑った。


「そんなことを言われたの、初めてです」


「さあ、煮物が冷めます。食べましょう」


 伊織が盛りつけた大根は飴色に煮え、箸を入れると柔らかく割れた。鶏肉の旨味を含んだ出汁が舌に広がり、玲奈は思わず声を漏らした。


「美味しい……本当に美味しい」


「大根はじっくり煮ると、芯まで甘くなるんですよ」


 玲奈は湯呑みを両手で包んだ。窓の外では冬枯れの木々が風に揺れていたが、胸の奥には小さな火がともっていた。


第7話 両親に贈るハワイ旅行


 玲奈は、両親が元気なうちに何か恩返しをしたいと考えていた。婚約破棄で傷ついたときも、八億円の当選に戸惑ったときも、母の和子と父の正雄は、玲奈の財産ではなく体調を心配してくれた。


 年が明けた日曜日、玲奈は実家を訪ねた。台所では和子が小豆色の割烹着を着て里芋を煮ており、正雄は茶色い毛糸のベスト姿で新聞を読んでいた。


「お父さん、お母さん。二人にお願いがあるの」


「何だ、改まって」


「私とハワイに行かない?」


 正雄が新聞から顔を上げた。


「ハワイ? あの海が青いところか?」


「そう。そのハワイ」


「玲奈、そんな贅沢しなくてもいいのよ」


 和子が困ったように笑った。


「贅沢させてほしいの。私が二人と一緒に行きたいんだから」


「でも、飛行機に長く乗るんでしょう?」


「ゆったり座れる席を取るし、無理な観光もしない。ホテルで海を眺めるだけでもいいじゃない」


 正雄はしばらく考えた。


「俺は英語が話せんぞ」


「私がいるから大丈夫」


「外国の飯は口に合うかな」


「美味しい魚料理もあるわよ」


「魚があるなら安心だな」


 和子が吹き出した。


「お父さんったら、食べることばっかり」


 玲奈も笑った。


「私ね、今まで二人に心配ばかりかけたでしょう。今度は私が、楽しい思い出を作ってあげたいの」


 和子は娘の手を握った。


「だったら、行きましょう。お父さん、パスポートを作らなくちゃね」


 二月の初め、三人はホノルルへ向かった。


 空港では正雄が搭乗券を何度も確かめ、和子は小さな肩掛けバッグを胸に抱えていた。


「お母さん、そんなに緊張しなくても大丈夫よ」


「だって、外国でしょう。何か聞かれても答えられないもの」


「私が一緒にいるじゃない」


 飛行機が雲の上へ出ると、正雄は窓に顔を近づけた。


「玲奈、見てみろ。雲がずっと続いてるぞ」


「お父さん、窓に顔をくっつけすぎよ」


「いいじゃないか。初めてなんだから」


 玲奈は笑いながら父の横顔を写真に撮った。


 ホノルルに到着すると、甘い花の香りを含んだ暖かな風が吹いていた。玲奈は白いリネンのワンピースに着替え、和子には淡い水色の花柄ブラウスを、正雄には紺地のアロハシャツを選んだ。


「お父さん、似合ってる!」


「派手すぎないか?」


「旅行なんだから、それくらいでいいのよ」


 ホテルの部屋からは、ワイキキの青い海が一望できた。白い波が砂浜に寄せ、遠くにはダイヤモンドヘッドが見えた。


 和子は窓辺に立ち、しばらく言葉を失っていた。


「……綺麗ねえ」


「気に入った?」


「こんな景色、生きているうちに見られると思わなかった」


 玲奈は母の肩を抱いた。


「これからだって、いろんなところへ行けるわ」


 夕食は海辺のレストランで食べた。香ばしく焼いたマヒマヒにレモンを搾り、ガーリックシュリンプと彩り豊かな野菜を三人で分け合った。


「この海老、うまいなあ」


 正雄が満足そうに頷いた。


「お父さん、殻まで食べないでよ」


「分かっとるわい」


 和子は笑いながら、玲奈の皿に魚を取り分けた。


「玲奈もちゃんと食べなさい。旅行に来ても、あなたのことが心配なんだから」


「お母さんったら、私もう子供じゃないのよ」


「いくつになっても子供は子供よ」


 その言葉が、玲奈にはたまらなく嬉しかった。


 翌朝、三人は浜辺をゆっくり散歩した。裸足になった玲奈の足元を、温かな波が洗っていく。


「玲奈、ありがとうな」


 正雄がぽつりと言った。


「急にどうしたの?」


「お前が小さい頃、海に連れていってやると言いながら、仕事ばかりで約束を守れなかったことがあった」


「そんなこと、覚えてたの?」


「親は案外、覚えているもんだ」


 玲奈は父の腕にそっと手を添えた。


「じゃあ、今日で約束を果たしたことにしようよ。私も、お父さんと海を見られて嬉しいから」


 正雄は照れくさそうに笑った。


 その夜、ホテルのバルコニーで三人は夕焼けを眺めた。海は金色から茜色へと変わり、遠くで波の音が響いていた。


「玲奈、これからは自分の幸せも考えなさいね」


 和子が静かに言った。


「お金があっても、一人で寂しい思いをしていたら、お母さんは心配よ」


 玲奈は伊織の顔を思い浮かべた。土のついた手、薪ストーブの前で飲んだ番茶、飾り気のない笑顔。


「……うん。実はね、最近、会うのが楽しみな人がいるの」


 和子の目が輝いた。


「あら、そうなの?」


「まだ、どうなるか分からないけど」


「急がなくていいのよ。玲奈がその人と一緒にいて、自然に笑えるなら、それが一番だわ」


 玲奈は海風に髪を揺らしながら頷いた。


「うん。私も、そう思う」


第8話 本物の温もり


 ハワイから帰国した玲奈は、伊織に会いたくて仕方がなかった。青い海も、豪華なホテルも、両親と過ごした時間も心から楽しかった。それでも帰りの飛行機では、工房の薪ストーブの匂いと、土のついた伊織の手を何度も思い出していた。


 週末、玲奈は土産のコナコーヒーとマカダミアナッツを持って工房を訪ねた。厚手の白いニットにデニム、足元には歩き慣れた革のブーツを合わせていた。


「伊織さん、ただいま」


 ろくろに向かっていた伊織が顔を上げた。


「お帰りなさい。旅行はどうでした?」


「最高だったわ。両親があんなに喜んでくれるなんて思わなかった」


「それはよかった。写真、見せてもらえますか?」


「もちろん。お父さんがアロハシャツを着て、すごくはしゃいでたの」


 玲奈が写真を見せると、伊織は声を上げて笑った。


「いい笑顔ですね。玲奈さんも、お母さんによく似ている」


「そう? 昔から父親似って言われるのに」


「笑ったときの目元は、お母さんそっくりですよ」


 何気ない言葉だったが、玲奈の頬は温かくなった。


 作業台には、以前玲奈が作った不格好な茶碗が置かれていた。焼き上がった器は少し歪んでいたものの、淡い青の釉薬が柔らかく広がっていた。


「これ、私の?」


「そうです。ちゃんと焼けましたよ」


「嬉しい! でも、やっぱり形が変ね」


「いいじゃないですか。玲奈さんが初めて自分で作った器なんですから」


 玲奈は茶碗を両手で包んだ。高級ブランドの食器にはない、指先に馴染む重みがあった。


「これで、家でもお茶を飲みたいな」


「毎日使ってください。器は使われてこそです」


 夕方、二人は薪ストーブの前でコーヒーを飲んだ。玲奈が持ってきたコナコーヒーの甘い香りが、土と薪の匂いに混じって広がっていた。


「伊織さん、聞いてもいい?」


「何でしょう」


「私のこと、どう思っていますか?」


 伊織は少し驚いたように目を見開いた。


「……突然ですね」


「ごめんなさい。でも、ちゃんと聞きたくて」


 伊織は湯呑みを置き、玲奈をまっすぐ見た。


「僕は、玲奈さんが好きです」


 玲奈は息を呑んだ。


「……本当に?」


「ええ。土をこねているときも、ご両親の話をしているときも、玲奈さんは楽しそうで、その顔を見ると僕も嬉しくなるんです」


 玲奈の目に涙が滲んだ。


「私も……伊織さんが好き。ここに来ると、何も飾らなくていいんだって思えるの」


 伊織は少し照れたように笑い、土のついた手を布で丁寧に拭いた。


「手、つないでもいいですか?」


「そんなこと、聞かなくてもいいのに」


「大事なことだから、聞きたいんです」


 玲奈は笑って手を差し出した。


「……うん。つないで」


 伊織の手は大きく、少しざらついていた。けれど、その温もりは玲奈が今まで知っていたどんな贅沢よりも、確かなものだった。


 玲奈はまだ、八億円の当選について伊織に話していなかった。今はそれでいいと思っていた。いつか二人の信頼がもっと深まったとき、きちんと話そう。それまでは、ただの玲奈として、伊織との時間を大切にしたかった。


 窓の外では冬枯れの枝が風に揺れ、工房の裏庭には小さな梅の蕾が膨らみ始めていた。


「伊織さん、今度、私の両親に会ってくれる?」


「もちろん。でも、緊張しますね」


「大丈夫。お父さん、きっと陶芸に興味を持つと思う。お母さんは料理が好きだから、器の話で盛り上がるかも」


「それなら、二人に使ってもらえる器を作っておきます」


「ふふっ。きっと喜ぶわ」


 薪ストーブの中で、一本の薪がぱちりと音を立てた。


 玲奈は伊織の肩にそっと寄り添った。八億円があったからこそ得られた自由もある。しかし、今この瞬間の幸せは、通帳の数字では測れなかった。


 伊織が淹れてくれた温かな番茶を飲みながら、玲奈はこれから訪れる春を思った。両親と過ごす時間も、仕事も、陶芸も、そして伊織との恋も、どれも大切にしていきたい。


「伊織さん、来年の冬も、ここで一緒にお茶を飲みたいな」


「来年だけでいいんですか?」


 玲奈は驚いて顔を上げた。


 伊織は穏やかに笑っていた。


「僕は、その次の冬も、そのまた次の冬も、玲奈さんと一緒にいたいですよ」


 玲奈は何も言えず、ただ伊織の手を強く握り返した。


 冬枯れの庭に、夕暮れの淡い光が差し込んでいた。窯の中には、まだ赤い火が残っている。その火を絶やさぬように、二人はこれから少しずつ、同じ時間を重ねていくのだろう。


 玲奈は伊織の肩に頬を寄せ、静かに目を閉じた。そこにはもう、誰かに自分の価値を証明しようとする焦りはなかった。


 ただ、好きな人と同じ温もりを分け合えることが、嬉しかった。


(完)



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