博打
だだっ広い場所で俺は一人立ち尽くしていた。今自分がいる場所がどこなのかは分からない。知る術もない。ただただ白が広がっている世界だ。とりあえず歩いてみることにした。こんな何もない世界で何もしないなんて気が狂ってしまいそうだったから。歩いて歩いて歩いて歩いた先で音が聞こえた。それは人の声だった。一人だけではない。とても大勢の歓声とも聞こえるような、悲鳴とも聞こえるようなそんな声だった。俺はその声に引っ張られるように歩を進めていく。それに近づくにつれ、声は熱を孕んでいく。気が付けば足元に草と花が生い茂っていて、頭上には広大な海のような空に雲がプカプカと漂っている。瞬間、俺は走り出していた。どうしてかその声の在り処に向かわなければならないと思ったからだ。疲れは感じない。まるでそんなものが存在しないかのように。
たどり着いた先ではむせ返るような熱が覆いかぶさってきた。その熱量と圧力で干からびてしまいそうだ。そこには数えきれないほどの人がいた。どこを見ても人、人、人、人。そして漏れなく全員が慟哭や糾弾、あるいは快哉や歓喜を口から発していた。視線は人々に見せつけるかのように掲げられている光の板に向けられている。それはまるで視線を糧にして生きる化け物の様だ。俺の視線もその化け物に食われていた。そこには死ぬ間際の俺の姿が映し出されていたからだ。それに気づいた誰かが言った。お前のせいだと。それを聞いた誰かが言った。お前のお蔭だと。俺は理解した。自分が大切なものの一端を握らされていたと。この身で受け止めきれない程の感謝と非難を浴びたが、光の配列が変わった瞬間、辺りは静寂で満ちた。空気が張り詰める。息が詰まる程に。
俺は茫然と眺めていた。次々と配列の変わる光の板を。崩れ落ちる人を。勝利を掲げる者を。俺は呆れていた。「あいつは事故で死ぬ」「いいや、誰かに殺される」そんな無意味な会話に。死んだ人間が騒いだとて生きている人間の運命を曲げることなどできない。にもかかわらず死してなお他人の人生に首を突っ込む。そんな愚かな人間どもに。いきなり近づいて来た男に問われる。お前は初めてかと。頷くと男は言った。ここは勝負の場だと。生前の徳を賭けて来世の自分の徳を増やすのだと。如何やら光の板に映されている者の最後の瞬間を予想し、それに賭けることで徳を増やすようだ。既に死んだ者が生きている者に踊らされるなど馬鹿らしい。そう思った。だが俺は賭けた。光る板に映った人間にではなく、自分の運と未来に。来世は天国だろうか。それとも極楽だろうか。はたまたそれ以外か。なんにせよ来世の俺も運がいいだろう。前世がこの俺なのだから。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。今回は、明治の文豪たちの作品をイメージして制作してみました。
私が初めて芥川龍之介の『羅生門』を読んだとき、「なんてお洒落な言葉遣いなんだ!」と感動したことを覚えています。そこで今回は、そんな偉大な文豪たちの文章に少しでも近づけるよう、あえて分かりにくい表現や、読み手によって解釈が変わるような表現をいくつか入れてみました。そのため、「ここはどういう意味なんだ?」と思われる部分もあるかもしれません。解説も投稿しておりますので、そちらをご覧いただくと、作品についてより深く楽しんでいただけるかもしれません。よろしければ、ぜひご覧になっていってください。




